日蓮正宗のススメ

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心清ければ土も清し

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
心清ければ土も清し

 皆さん、お早うございます。確か昭和四十八年から四十九年の春にかけまして、亡くなった作家の有吉佐和子さんという方が、『複合汚染』という小説をお書きになりまして、農家の方が使う農薬によって、国土が、土が荒廃し、その荒廃した土から出来る作物が又、汚染され、それを食べる私達の健康が侵されているということを告発した小説をお書きになりまして、非常に当時の社会の人々に注目をされたことがございます。この日本の国土が段々と疲弊していること、川も、そして又、湖も海も汚染されてきてしまっている。実際に濁った隅田川を目にし、荒川を、皆さん方も、やはり目にしているわけでありますし、有明海の汚染された魚を食べた人達が、今だに苦しんでおる姿も新聞で報道されている次第であります。

 そのように最近は、薬害とか公害とか、そういう川や湖や海の汚れ、空気の汚れ、大気汚染ということも、みんな私達は言葉としては知っておりますけれども、その実体というと、なかなか認識していない人も多いのでございます。「まあまあいいだろう」「まあまあこの程度ならいいだろ」

と言っているうちに、何とも取り返しのつかない汚染が、いつの間にか私達の身の回りにひしひしと迫って来ているというのが現実でございます。

 従って、何でも自分の目先のことだけで、自分にとって良ければそれで良いと、あとはどうなってもいいというような無責任な考え方をしておりますと、やっぱり一切が汚染されていってしまう。例えば、政治というものなら政治というものに対して自分が無関心で、「まあいいようにやればいい。私に選挙なんか関係ない、どうでもいい」と、みんながそういう考えでいますと、結局、政党は思い通りのことをしますし、政府は思い通りの政治を遂行していってしまうわけであります。企業なら企業というものも「それは私にとって関係ない。なるようになればいいんだ。なるようにしかならない」というようなことを考えていますと、結局それは又、企業は企業の思い通りのことをしますし、銘々がみんな自分勝手なことをしてしまうのであります。それは、政治や経済だけではなくて、やっぱり教育にしても、あるいは文化にしましても、何にしても、結局、「私には関係ない。私はは知らない。私にとってどうでも良い」というような考え方でいると、総てが荒廃していってしまうということの恐ろしさ、その濁りというものを良く考えていただきたいと思うのであります。

 そういう国土だとか、川だとか、空気だとか、薬だとかということについては、世間の人も、ようやく今、気が付いてくる時代になりまして、やはりいい加減にしてはいけない、あるいは業者まかせであってはいけない、人まかせであってはいけない、ということがようやく分かるようになって参りました。

 けれども未だに世間の人が注目もせず、又見る目もない、聞こうともしないという問題として、一つは心の汚染、心の荒廃という問題がございます。変な宗教や、変なお祭りだとか、星占いだとか、あるいは守護霊を持てとか、やれ祈祷だとか、何だとか、色々な誤った宗教や低俗な宗教というものが、私達の社会に全く錯乱して、混乱して、渦のように私達のこの社会に渦巻いてしまっているというその現実に対して、だれも気が付いていない。軽佻浮薄(けいちょうふはく)なそういうものに汚染されてしまっているという、その自分の心の実体に、だれも気が付いていないというのが今日の姿でございます。あるいは又、色々な間違った情報といいますか、余りにも情報が多すぎて、それが正しいものなのか、間違ったものなのか、いい加減なものなのか、人の心を汚染するものなのかということの実体が、みんな分かっていないのであります。氾濫する情報に躍らされて、動かされて、乗せられて、そして自分が、さまよっているということでさえ、みんな気が付いていない人が多いのであります。

 更に申し上げたいのは、やはり宗教の汚染ということであります。正邪浅深、色々な宗教が混乱して、錯綜して、この世の中に流布している。その現実を全く今の世の中の人は、だれも知らないのであります。そうした中にあって、皆様方は、この大聖人様の一閻浮提第一の正法に目覚めて、大聖人様が『一生成仏抄』に、

 「心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清し」(全三八四)

と教えられた大聖人様の教えにのっとって、今、私達はそうした錯綜した、濁った、汚染された信心から、清らかな信心に立ち返っていかなければなりません。

 大聖人様は、更に、

 「法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊し」(全一五七八)

と教えられています。この原理原則にのっとって、一人ひとりの心を人の心を改革して、そして一人ひとりの人間を清らかな命へと改革し、その人の考えも、その人の生活も、その人の命も、その一切を清らかに、そして又、豊かに、満足して、そして又、その喜びに満ちた躍動する命へと改革していっていただきたいのであります。そういう人生を、そういう社会を、そういう国土世間を築いていく。その根本となるものが、この大聖人様の教えなのだということを、深く心に確信していただきたいと思うのであります。

 そして常に正邪の分別が、きちっと出来る人になっていただきたい。心にとっての正邪、生活にとっての正邪、信心にとっての正邪、あるいは又、その情報なら情報というものに対する正邪、そして一切のもの対して、深く正しく、全体感にわたって、きちっと物事を見、正鵠(せいこう)な判断をして、そして、きちっきちっと対処していける、そういう人にぜひなっていただきたいと思うのであります。世間の人と同じように、変な、間違った情報に乗せられたり、あるいは自分勝手なことだけを、目先のことだけを追及し、考えていますと、結局、自分の心も、自分の生活も、自分の考えや、判断や、命も、人生も、結局、そういうものに汚染されていってしまうのだということを、深く考えていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。

 大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、

 「謗法不信のあか(垢)をとり、信心のなはて(畷)を かた(固)むべきなり」(全一三〇八)

 正しいこの信心の強情な畷を、しっかりと張り巡らして、そして、どこまでもこの清らかな信心を貫いて、清らかな六根清浄の命へと、自分自身を育んでいくことの大切さを、大聖人様は教えておられるということを心に銘記していただきたいと思う次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年五月二十九日)