日蓮正宗のススメ

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三世を予証する大聖人様

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『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
三世を予証する大聖人様

 皆さん、お早うございます。今月は御承知のように、宗祖大聖人様が『立正安国論』をもって、当時の宿屋左衛門入道を経て北條時頼に第一回の国諌を遊ばされた月でございます。文応元年七月十六日は、ちょうど、大聖人様が三十九才の御時でございました。その『立正安国論』の中に、大聖人様が念仏を元凶として、このまま謗法をうち続けていくならば、必ず自界叛逆の難といって同志打ちが始まり、他国侵逼の難、つまり外国から侵略されるという大きな二難が必ず襲い来るということを予証遊ばされたのでございます。

 果たして、その大聖人様の『立正安国論』の予証の通り、それから約八年の後に、文永五年の春になって、蒙古の牒状がやって参るわけであります。そして自界叛逆の難は、十二年後の文永九年二月十五日に、京都の探題、北条時輔の乱となって現れてくるのであります。しかも十四年の後に、蒙古の襲来が文永の役弘安の役と二度にわたって、文永十一年十月、弘安四年の五月と二度にわたって、他国侵逼の難として現れてきたのでございます。

 その他、大聖人様の御一代の御化導における色々な予証がございます。例えば文永八年の九月十二日、大聖人様の草庵に、平左衛門尉以下数百名の武士が押し寄せて、大聖人様を捕らえた。その時に大聖人様は「今日本国の柱を倒すになりぬ」(全九一二取意)と大きな音声をもって一切の人々を諌暁遊ばされたことも、又、皆さん方、覚えていらっしゃることと思います。

 そして後に、弘安の二年九月十月にかけて、熱原の法難が起こります。その時を機縁にして本門戒壇の大御本尊様が建立されるわけであります。熱原の神四郎、弥五郎等々、二十数名の方達が鎌倉に護送されまして、そして何の取り調べもなく、平左衛門によって処刑されるわけであります。そうした大聖人様の御一生を通じて、大聖人様に対して、ありとあらゆる諸難を加えた平左衛門が、ちょうど熱原の法難から、これ又不思議なことに十四年目にして親子共々に命を失うことになるのでございます。つまり永仁の元年四月二十二日に、この平左衛門尉頼綱と、そして熱原の三烈士達に対しまして、蟇目の矢をもって射たところの次男の飯沼判官ともに、その謀反の奸計が発覚いたしまして殺されてしまいます。そして長男の宗綱という人は逆に、今度は宗綱自身が佐渡の島に流されることになってしまうのであります。そのことを日興上人が、後に『御本尊の分与帳』という御書物の中に、「平ノ入道、判官父子謀反を発して誅せられ畢ぬ、父子これただ事にあらず、法華の現罪を蒙れり」(日宗全二|一一六)ということを仰せになっていらっゃるのであります。このように大聖人様に、こうした危害を加えた人達の現罰は、また厳然として現れる。そして大聖人様の『立正安国論』を初めとするそうした予証の一切が悉く符合するということをもって、大聖人様は、私達の信心の未来の糧としなければいけないということを、おっしゃっておられるのであります。

 文永九年の三月、大聖人様は『佐渡御書』をお書きになりまして、

 「日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれ ば聖人の如し。又世間の作法兼て知るによて注し置くこ と是違う可らず。現世に云いをく言の違はざらんをもて 後生の疑をなすべからず」(全九五七)

ということをおっしゃっておられます。これは言葉をかえて言いますと、どういうことかと申しますと、私達凡人は過去のことをだれ一人見たこともなければ、知ることもできないのであります。過去の罪障とか過去の謗法とか申しますけれども、だれ一人としてその事実や実態は自分自身で知ることはできません。そして又この未来のことも、われわれは、もう明日のことさえもはっきりはわからない。ある程度の予測はつきましても、はっきりと未来を予測するなんていうことは出来ないのであります。従って過去のことと、未来のことについては、これはやはり過去・現在・未来と、その三世を了達したこの末法の御本仏の御指南に従って、過去を照らし、そして又その未来を見ていかなければいけないということを、おっしゃっておられるのであります。

 よく世間の占師であるとか、あるいは占星家であるとか、色々な予言をするような人がいまして、禍いが続くというのは、あなた方の御先祖が浮かばれていないからだとか、先祖の祟りだとか、色々なことを言う人がいるのです。みんな先祖の祟りとか、先祖の穢れとか、色々なことを言われますと、自分はやはりそういうものに対して供養らしいこともしておりませんから、そう言われるとみんな思い当たる節があって、「ああそうかな」とつい思ってしまうのでございます。そういうくだらぬ霊能家であるとか、あるいは現在の生き仏と言われるような人の言葉には、絶対に紛動されてはいけないということなのでございます。

 事実の上において、大聖人様が現世に言い置かれたことは、ことごとく符合した。従って過去世ということの御指南のみならず、久遠元初の開顕を遊ばされたということは、これはもう全く宇宙法界に大聖人様を除いてはないのであります。そして末法万年にわたって、この南無妙法蓮華経が流布していくということも、又、広宣流布が必ず達成されるということも、十界の衆生が、妙法の光によって成仏するということも、全部これは大聖人様の確信であり、大聖人様の御指南であり、大聖人様の功徳力でございます。そうした過去世のことも、一人ひとりの成仏ということも、未来の広宣流布ということも、末法万年の人々を救いきるということも、全部これは一凡人の私達の頭で判断しては、これはわかりません。その時こそ大聖人様の御指南に従って、そしてこの現在の自分の境涯が、現在の幸せが、現在のこの仏法の流布が大聖人様の御指南通りになっておるということを鏡として、大聖人様の過去世の御指南も、そして又、大聖人様の未来に対する万年に臨んでの御指南も、確実にそうなると拝すべきであります。そうした広大の意味を持った大聖人様の教えなんだということを深く心に置いて、どこまでもそれを鏡として、正しい判断をしていっていただきたい。そして深くそのことを確信して、大聖人様の弟子檀那としての信心を全うしていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年七月三日)