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信教の自由の意味するもの

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
信教の自由の意味するもの

 皆さん、お早うございます。皆様方がいろんな方を折伏にいらっしゃいますと、中には、「今の新しい日本の憲法第二十条において、信教の自由ということが保障されておる。従って何宗を信じようと、どういう宗旨に生きようと全くそれは勝手なのですから、ほっておいていただきたい」というようなことをおっしゃる方が多いと思うのであります。確かに憲法二十条における信教の自由ということは、これは非常に大事な我々の権利であり、又、保障された尊い自由ということを、お互いに深くかみしめてみる必要があると思うのであります。それをただ単なる、信仰がいやだとか、信仰が嫌いだとかという意味の自分の自己主張のために、信教の自由という憲法第二十条を盾に使って、そうしてその信仰から逃げたい、皆様方のそうした折伏に対する聞く耳を持たないと、拒絶反応の盾にそれを使っておるというのが、よくよく考えてみると、それが現状じゃないかと思うのであります。

 あるいは又、ある国によりましては、国教として一つの宗教が定められておる。つまり個人の選択によって、自分の意志で、どうすることもできない、そういう不幸の国もあります。あるいは又、長年の伝統の中から、あるいは生活習慣の中から、自分の家は代々、なに宗だった、かに宗だったという一つの枠の中から、どうしても抜け切ることができない、そういう単なる盲従と言いますか、過去がそうだったからそう。先祖がそうだったから自分もそうだと、いかなる検討も、自分の意志も、何等そこに主張することもなく、ただ盲従してしまう。あるいは又、大勢の人がそうだから自分もそうしないと何か釣り合いがとれない。又、人からとやかく言われるんじゃないかという風なことから、大勢の人に従っていってしまうというようなこと。こうした姿は、これは全部、本来の信教の自由からは逸脱しておる。ないしは信教の自由ということの精神を全く履き違えておるか、あるいは信教の自由を放棄しておる姿だと言わなければならないと思うのであります。

日本の過去の歴史の中にあっては、昔の封建時代には、やはり国家あるいは権力者の意向によって、民衆というものが、がんじがらめに統制され、あるいは寺請け制度というもとに、だれもが、その寺院に、その寺の配下に定められてしまう。そこに戸籍が置かれ、そしてがんじがらめに縛られて、自分の意志では、もはや宗教を選ぶことも許されない。転宗、転派は許されない。そういう不幸の時代を、私達の先祖の人々は、何百年も、そういう時代を生きてこられたわけであります。

今からたった四十年前までも、一つの国家権力、国家の意志のもとに宗教の統制が行われて、強制的に参拝をさせられたり、自分の意志で宗教を選ぶということが許されなかった。そういう過去の不幸な歴史というものを、日本のわれわれも持って生まれて、今日に至っているわけであります。そうした過去の長い間の不幸の反省のもとに、今日の信教の自由ということが保障されるようになったのであります。

一体、信教の自由ということを根本的に考えると、何が保障されているのかということを考えていただきたいと思うのです。その時に一番大事なことは特定の権力者、あるいは特定の国家権力によって宗教が統制されてみたり、あるいは信ずる人々、行ずる人々に対する弾圧が加えられるというようなことがあってはならないということなのです。逆なことをいうと、自らの発心において、自らの道念において、宗教の正邪の分別を自分の意志ですることを保障されるということであります。自分が自分の一念で宗旨の取捨選択、その正邪の分別をきちっとされて、そしてよこしまな信心、誤った宗教というものを捨てて、そして正しい信心を選べる、その尊い権利と、その自由を保障されているということが根本なのです。従って精進する心、法を求める心、弘教の心、その発心の志というものが最大限に保障される。その求道心が尊重されるということが信教の自由の根本なのです。

 ですから何でも良いから勝手だということが、信教の自由ではないのであります。自分の求道心を何よりも尊重する。先祖だとか、人がどうとか、国家の意志がどうとか、権力者の意向がどうとか、あるいは社会の通念がどうとかいう、そういういろんなものを排除して、本当に純真に自分の良心のもとに従って、自分が信ずる、「これは正しい」ということの正邪の分別を、自分の意志で出来るということの保障と、尊重ということが信教の自由、それが根本なのだということを一つ考えていただきたい。

それと、もう一つ大事なことは、宗教の持っているその本尊であるとか、教義であるとか、法門であるとか、あるいは修行であるとか、相伝であるとか、今度はその宗旨の純教理的な教えの上におけるところの物差しでもって、その宗旨の正邪分別をすることが保障されるという点に第二番目の意味があるわけであります。権力でもって押し付けられたり、権威者のもとに押し付けられたり、統制をされたりということではなくて、どこまでも純粋な教義的な判断によって、大聖人様がおっしゃるように、その文証、あるいはその道理、その現証と、その純宗教的な正邪分別の物差しによって、そして正しくその正邪の弁別をすることが出来ると、そのことを保障されることに信教の自由の二つ目の大きな意味があるわけであります。信ずる側の立場の自由ということ、その発心、道念の自由ということ、そして又、宗教のもっておるところのその純教理的な意味で、そこにおいてその正邪の分別をするということが、又、保障されるということが二番目の意味であります。

そして三番目は信ずる自由と同時に今度は、布教すること、弘教することの自由ということが保障されるということ。弘教したために、人にこの信心の話をしたために、そのために弾圧をされるとか、あるいは又、迫害を加えられるとか、命に及ぶとか、あるいは差別をされるとか、そしていろんな人から迫害に似たようなものが有形無形の形において加えられるということがあってはならないということを保障すること。つまり布教の自由、弘教の自由、それが保障されるということが三つ目の要素でもあるわけであります。

 従って大聖人様の教えの上から言うならば、信教の自由ということは、どこまでもその教理的な意味で、正しい御本尊、正しい宗旨を選びなさいという、選ぶということが出来るという上において、大聖人様は『本尊問答抄』に、

 「本尊とは勝れたるを用うべし」(全三六六)

ということをおっしゃっておられます。

 あるいは又『諸法実相抄』という御書の中には、

 「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」(全一三六一)

ということをおっしゃっておられます。不思議なことに、大聖人様のおっしゃるその御指南というものは、どこまでも今日の信教の自由の精神に全く合致しております。

 又、日興上人の『遺誡置文』におきましても、

 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(全一六一八)

ということをおっしゃっておられます。その折伏の精神ということも、全く深くその根底を拝すれば、その弘教の自由ということが、やはりそのもととなっておると思うのであります。従って法華経における、大聖人様の御指南におけるその御精神は、全く今日の我々に保障された信教の自由の理念そのものであるという風に申し上げても良いと思うのであります。

従って信教の自由ということは、結局、それは放逸であるとか、盲従であるとか、好き勝手であるとか、ほっといてくれとかという意味の盾に使われるものでは決してないのであって、どこまでも自らの信念によって、自らの求道心によって、自らの発心の一念によってそれが尊重されて、そして、よこしまな信心を捨てて正しい信心につくということが根本なのであります。盲従することや、あるいは、ただ単に大勢の人がやるから、国家が言うから、保障するからというような程度のものでは決してないということを深く心に置いて、そういう今の世間の人々は信教の自由という言葉は知っていても、全く信教の自由を放棄した姿に生きておるということを言わなければならないということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。従って皆様方は、堂々としたその信心のもとに、信教の自由を自らの求道心の上において、それを発揮して、自ら信ずると共に、又、大勢の人々に折伏弘通の精神を大いに発揮していただくことこそが、本当の信教の自由の尊さと、その意味を宣揚することなのだという風に考えていただきたいということを重ねて申し上げる次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年五月八日)