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正直・発心・広布への使命感

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『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
正直・発心・広布への使命感

 皆さん、お早うございます。本日は御案内の通り一月十五日、どなたも御存じと思いますが、全国で二十才の成人式を迎える方々がたくさんいらっしゃいます。一説によりますと、約百八十万人になんなんとする方々が、新しい大人の仲間入りをなさるということでございます。従いまして、本日は、すでに成人の日が遠い過去の思い出になった人もありましょうし、今日、成人を迎える方もいらっしゃいましょうし、また間もなく、その成人の日を、喜びの日を迎える人もいると思います。そうした方々に対しまして、成人にちなんで、三つのことを皆様方に申し上げたいと思うのであります。

 一つは成人に臨んで、心の正直な人になっていただきたいということであります。心の正直ということは、その人の生き方の上において、その人のものの考え、また、その人の日常の生き方という上で、人間的に正直な人であっていただきたい。それはまた同時に、信心の世界においても正直であっていただきたい。従って心の正直ということは、世間的な人間としての正直ということと、信心を全うする上において、出世間的に、また正直な人であっていただきたいということであります。これはなぜかと申しますと、法華経の世界は正直ということが、非常に大切な徳目になっているのであります。 

 釈尊は『法華経』の「方便品」の中に、

「正直に方便を捨てて、但無上道を説く(正直捨方便  但説無上道)」 (開結一八九)

ということを説かれております。

 また大聖人様の『当体義抄』等、あるいは『下山抄 』等の御書を御覧になって下さい。

 「正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて、正直に正法・正師の正義を信ずる」(全五一八)

ということの大切な所以を、大聖人は『当体義抄』の中にも、くり返しおっしゃっておられます。そしてまた、『下山抄』という御書の中にも、

 「真の正直な行者」(全三四五)

ということを説かれております。

 そうした法華経の精神、大聖人様の御指南を通して、私達の生き方や、信心を振り返ってみるとき、正直ということが、やはり法華経の根本の精神であるということを深く心に銘記して下さいまして、我が心の正直、人間としての正直な人、そして信心の上にも、また正直を目指すということを考えていただきたいと思います。従って人間的に、だらしない人であったり、嘘をついても平気な人であったり、人を中傷したり、あるいは陥れたり、心のねじけた人であってはいけないのであります。どこまでも正直な心を持ち、清々しい人となって、清々しい正直な信心を全うするということが大切と思います。 

 また大聖人様は、四条金吾殿に与えられた御書の中に、

「いかに大事と思へども腹あしき者をば天は守らせ給はぬ」(全一一七一)

ということをおっしゃっておられます。皆、我々は功徳がいただきたい、功徳を願って信心をするのでありますけれども、その心のねじけた、また腹黒い人が一生懸命いくら信心をしても、なかなか功徳はいただけない、そこに心の正直さがあって、信心の上における清々しい正直な、その信心を全うするところに、大聖人様の功徳も、また諸天善神の加護も、その正直な人の頭の上に、正直な人の生命の上に備わってくるのだということを知っていただきたいと思います。

 二番目に申し上げたいことは、どんな人でも、どんな職業につき、どのような家庭を持つ人であっても、その分野において、小さな発心を常に積み重ねていく、そういう人であっていただきたいと思うわけであります。人間は、地位とか財産とか才能とか、そういうものによって、その人の人格が決まるのではないのであります。その職業が自分に向いているとか、向いていないとか、そんなことだけで、ものの成就、不成就が決まるのでもないのであります。どういう道に進んでも、誠実に努力していく。小さな発心を常に積み重ねていく。そういう人であっていただきたいと思うわけであります。

 大聖人は『衆生身心御書』という御書の中に、

 「つゆつもりて河となる。河つもりて大海となる。塵つもりて山となる。山かさなりて須弥山となれり。小事つもりて大事となる。何に況や此の事は最も大事なり」(全一五九四)

ということをおっしゃっておられます。物事を成し遂げようと思う人は、小さな発心を、小さなことの積み重ねを、おろそかにしてはいけない。大事をなすものは小事を軽んじたり、小事を笑ったり、小事をさげすんで、大事を成し遂げることはできないのであります。どんなことも小さな一つの発心から物事は始まっています。

 従って「発心は万行の半ばなり」という言葉さえあるのであります。物事の成就、不成就はその人がどういう発心をし、どういう決意に立つかということによって、もはや半分決まっておるというのであります。あとはその事を常に心において、小さな努力をコツコツと続ける。そういう一つの執念を持った人であるならば、その人が将来どういう道に進もうとも、必ず、それなりの人になれるはずでございます。ですから、「もう今からは間に合わない」というのではなくて、いくつになっても、そうした常に前向きに常に発心をする、常に精進をしていく、前進をしていく、そういう一つの執念を持った人になっていただきたいと思うのであります。

 やはり晩年になっても、どんなに年を取っても、常に精進する人は若々しい。常に精進する人は常にまた進歩している。そこにその人の素晴らしさ、その人の生き方の上における尊敬に価する姿がそこにあるわけでございます。従って私はダメだとか、もう年だからダメだとか、ダメだ、ダメだというと決局全部ダメになってしまうわけです。従って常に前向きに立ち上がる人、前進する人、発心する人、物事をコツコツと積み重ねてゆく、そういう人であっていただきたいと思います。そうしますと、小さなことが積み重なって一つの大きな山となり、河となり、海となり功徳となって、また自分の力となって、その人の何ともいえない自分という一つの作品がそこに出来上ってくるわけであります。「継続は力なり」という言葉もありますから、どんな小さなことでも一つの意義を見いだして、そこに尊さがあるということを知って努力をしていっていただきたいと思います。

 それから、三つ目に申し上げたいことは、広布に対する、広宣流布ということを念頭においたロマンといいますか、使命感を持つ人であっていただきたいと思います。そうした使命感に燃えている時には、多少辛いことがあっても、また苦しいことがあってもなにがあっても、それを乗り越えることができるということであります。

 大聖人は、

 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(全一五二、八九二、一〇二五、一〇八八)

ということをおっしゃっていらっしゃいます。せっかく就職いたしましても、ちょっとした小さなことで上司につっかかって、あるいは上司に反目して、また、ちょっとした気に入らないことがあったといって、せっかくの友達を失い、自分の一生を台無しにしてしまう。また短気を起こして、自分の心に自分が負けてしまって、そして結局自分の道を自分で破滅してしまう、そういうようなことのない様に、またそういうようなことの繰り返しの人生を歩まないようにしていただきたいと思うのであります。結局それは煎じつめれば自分の心に自分が負けているわけであります。

 従って、仮に、親にしかられた、先輩に叱責された、上司に公衆の面前において、あるいは友の前において呵責されたというようなことがあったとしても、今度は逆に、何くそという気持ちでその人の信頼を得るまで、その人が自分というものを認めてくれるまで、自分が努力をしてみる。あるいはその人の信頼を得るまで逆に、懸命にものに取り組んでみる。そういうことが、そうした執念が自分というものを作っていく。友の信頼を、会社の信頼を、上司の信頼を得ていく道であると思うのであります。それをちょっと気に入らない、ちょっと叱られた、そんなことだけで反目して、自分を失って自暴自棄になって、すべてを破滅してしまう。そういう人生を歩む人は、どんな職業についても、どんな道に進んでも、うまくいくはずはない。叱られたら叱られることの尊さを知る。厳しく躾られたら、他を比較してどうこうでなく、厳しいこともありがたいと思う。叱られることもありがたいと思う。そしてまた優しく教えられることもありがたいと感ずる。激しいことも、苦しいことも、辛いことも、叱られることも、そしてまた優しい愛情も、すべてがありがたいものなのだ、と受け止められる自分になっていただきたいと思うのであります。そのことが心の底にありますと、そういうことを一つの鏡にして、規範として生きていくならば、その人は、どういう分野に進んでも、必ず悔いのない一生を生きられるはずだと思うのであります。

 どうかその三つのことをお互いに心して、自戒の意味をこめて、私は申し上げる次第でございます。どうか皆様もそういうことをモットーにして、これからの人生を、また信心の大道を歩んでいただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶並びに激励の言葉とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(平成元年一月十五日)