日蓮正宗のススメ

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真実の供養

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
真実の供養

 皆さん、お早うございます。この妙法の大きな功徳の中に、皆様方は、即身成仏ということをお聞きになったことがあると思います。それぞれ皆様方が、この尊い信心を貫きながら、わが身、又わが家、そしてこの国土一切を、それぞれ成仏の境界、仏国土へと、常寂光土へと導いていくことであります。

 「妙法経力、即身成仏」(伝全二ー二六六、全四七三)

という言葉もございますように、又、大聖人様は、御書の各所に即身成仏という御法門をお説きでございます。

 それから、あまり聞きなれない言葉かもわかりませんが、「草木成仏」ということも、御書の中(全一三三八)に、ございます。これも又、非常に大切な御法門でございまして、この大御本尊様に大聖人様のその魂がその命が、仏力・法力が全部具足しておる。相整っているということも、それは草木成仏の原理が法門が、用きが、御本尊様の当体に備わっているからこそ、御本尊は御本尊としての値打ちがあるのです。そして又、一念三千のその一切の十界の衆生を救う法門、その道理が、きちっと御本尊様に備わっておるゆえに、草木成仏という尊い、又、深い原理がそこに整足するわけであります。

 皆様方が、それぞれ法事や、あるいはお盆や、お彼岸に、たとえ一本のお塔婆といえども、そのお塔婆を仏前に供えて、亡くなった精霊の当体を、きちっと、この五重の宝塔に現して、お題目をしたため、その題目の功徳を供えて、真実の回向、真実の救済をしていくということができるのも、そのお塔婆に題目をしたためることによって、そこに、草木成仏の原理と功徳と法門と用きが、きちっと整うというところに、大きな意味があるわけであります。

 それともう一つ、大聖人様の御書の中に、「小善成仏」ということが説かれております。小さな善の成仏と書きます。どこにあるかと申しますと、大聖人様は『御講聞書』という御書の中に、

 「爾前経の心は小善成仏を明さざるなり。法華経の意は一華・一香の小善も法華経に帰すれば大善となる。縦い法界に充満せる大善なりとも此の経に値(あ)わずんば 善根とはならず」(全八二二)

ということをお示しでございます。

 皆様方が、それぞれ御本尊様のもとに供える一遍の題目も、あるいは又、一本のお線香であったとしても、お華であったとしても、ローソクの灯であったとしても、あるいは仏前に供える小さなおまんじゅうや、お菓子等々であったとしても、どんな小さな小善、又、供養であったとしても、皆様方のどんな志も、それは正しい御本尊のもとに、本仏のもとに供えることによって、はじめて大きな功徳・善根となる。それが他宗・他門のわけのわからない権仏のもとに供えてみても、あるいは又、十字架の前に供えてみても、マリアの像の前に供えてみても、それは何の功徳にもならないということを知っていただきたいと思うのであります。

 大乗の菩薩の修行の中に、六波羅蜜と申しまして布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧ということがあります。六波羅蜜の一番最初は布施ということになっております。物を供える、物を授ける、物をたむけるという善根も、それも、やはり正しい法のもとに、正しい仏のもとに供えてこそ、真実の布施となる。真実の供養となる。間違った仏のもとに、又、間違った宗旨のもとに、どんなに大きな財を積んでも、むしろ、それは全く逆の用きになってしまう。善根どころか、大悪となることを知らなければいけないのであります。

 大聖人様は『下山抄』という御書の中に、そういう他宗への供養、他宗の神仏への供養というものは、

 「小善還って大悪となる。薬変じて毒となる」(全三四四)

ということを言われております。ですから、そういう誤った宗旨、宗教への、そうした善根や供養や布施というもの、あるいは修行というものは、一切を含めて全部大悪となるということを知っていただきたいと思うのであります。

 それは例えて言えば、お百姓さんが、どんなに良い種や、どんなに良い籾(もみ)をもってしても、荒れた田んぼや、あるいは又、汚い泥沼に蒔いてみても、何の収穫も得ることはできない。むしろ種そのものが腐ってしまって、なんら収穫を望むことはできない。けれども肥沃な土地や良く丹精された田んぼに、良き種を蒔けば、そして又、丹精をこらすことによって、立派な収穫を得ることができる。全くその通りでございます。真実の供養ということは、本仏の福田のもとに、その種を蒔くことによって、大きな収穫と、大きな善根となる。それが、間違ったところに蒔くということは、間違った、あるいは荒れた土地に投げ捨てる、蒔くどころか、投げ捨てるというものは、あたかもそれは泥棒や強盗に追い銭を授けているようなものでございまして、決して真実の実りや真実の善根とはならないということを知っていただきたいと思います。

 大聖人様は『窪尼御前御返事』の中に、

 「よきたね(良き種)を、あしき田にうえぬれば、たねだにもなき上かへりて損となる。まことの心なれども供養せらるる人だにも、あしければ功徳とはならず。かへりて悪道におつる事候」(全一四八六)

ということを教えていらっしゃるのであります。

 どんな動機でも、発心をするなら発心は大事なことでありますけれども、その発心も、正しい信心のもとに、正しい御本尊のもとに、発心してこそ、それは大きな利益を生む、大きな機縁となるけれども、誤った宗教、間違った哲学、間違った信心のもとに、どんなに志を立て、どんなに精進をし、どんなに修行をし、どんなに供養をこらしても、なんら、それは善根とはならない。

 正しい信心の功徳について、大聖人様は『孟蘭盆御書』(全一四三〇)に、上は七世、下は又、七代にその大きな功徳が及ぶ。しかし又、謗法の修行、謗法の供養、謗法の罪障というものも、又、上は七代、下は又、七代、上無量生・下無量生に、その謗法の余残が、謗法の罪障が及ぶということを、大聖人様は教えておられるのでございます。

 どうか、たった一本の線香、たった一本のおしきみ、あるいは灯と申しましても、志といわず、財といわず、総ては、やはり、まず正しい信心を、きちっと見極めて、そして正しい法のもとに、物事を始めなければならないということを深く心に置いて下さい。小善成仏のそうした原理、功徳、用きというものがあると、大聖人が、そのように教えて下さっておるのだということを良く知って、又、世の中の人々にも、その小善成仏の原理を通して、真実の供養とは何か、真実の修行とは何か、真の信心のあり方とは如何なる姿でなければならないかということを、よく教えてあげていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十三年十月九日)