日蓮正宗のススメ

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狭小な仏教観を破す

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『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
狭小な仏教観を破す

 お早うございます。皆さん方の身の回りの人々の中に、ともすると宗教であるとか仏様の教えというのは、単純なおとぎ話のようなものにしか過ぎないというふうにお考えになって、皆さん方の信心に対して、とにかく批判的な眼を持つ人がいらっしゃいます。こういう人は、恐らく念仏の方で言われる地獄の絵だとか、あるいは幼い時に極楽浄土の絵だとか、そういう節談説法とか紙芝居のようなものを幼い時に見たり聞いたりして、あたかもそれに仏法の一切が含まれているかのように錯覚をしているのではないかと思うのであります。あるいはキリスト教の古い聖書の、旧約聖書であるとか、あるいはコーランであるとか、そういう世界の各地での、宗教のいろんな初期の原点になった神話や説話のようなものを読んで、それが宗教の始まりであるとか、仏教も同じようなものだという程度にしか考えていないのではないかと思うのでございます。

 そういう人はあたかも星座の勉強を少しばかりして、又、星にまつわるいろんな民話であるとか、あるいは幼い時の夢物語をお母さんから聞いて、あたかもそれが天文学そのもののように錯覚をするという程度の判断でしかないと思うのであります。

 仏教の真実の教えというものは、やはりそこに正しい本尊というものが建立され、一切の人々を成仏の境界へと導くところの法門、又、教義、相伝、そして修行、さらに事実の上におけるところの成仏の実証というものが、きちっと備わっておるということを知らずして、ただそういう程度のものを見聞して、それがあたかも一切の仏法を自分が理解したかの如くに錯覚をする、理解をするとするならば、それは非常に大きな誤りであると言わなければなりません。

 釈尊の一代五十年の説法の中にも、これも皆さん方御承知のように、やはり方便の教えと真実の教えというものがありまして、そこには小乗と大乗の違いがあります。大乗に入りましても又、権大乗と実大乗の違いがあるのです。実大乗の中にも法華経には、本門と迹門の大きな隔たりがございますし、又、法華経の本門にも、種脱の相対が厳然としてあるわけであります。

 その法華経のお説法の中にも、これはやはり正説と、あるいは又、因縁を説かれた因縁周の説法もあれば、その中に「三車火宅の譬え」のように、そうした譬喩を通して理解を進められた譬説周というものもございます。

 現実に釈尊が、上根と申しまして、非常に機根の整った舎利弗に対しては、三乗を捨てて、そして一仏乗に帰依すべきことを、諸法の実相ということを説いて、その一念三千の法理の上から、きちっと舎利弗を化導されるわけであります。

 しかし、そのことを法の上で、道理の上だけでは理解出来ない人々に対して、目連であるとか迦葉のような人々に対しては、釈尊は、今度は譬喩をもって、羊の車、鹿の車、牛の車、そうした声聞乗や縁覚の教えではなくて、ただ一つの大白牛車の妙法の教えというものが根本にあるということを、きちっと譬喩をもって説かれる、それが譬説周と申します。

 その次には、それだけではまだ理解出来ない人々に対しては、久遠の過去世以来の師弟の宿世の因縁というものを、きちっと説きき示して、そして正しい本師について、この信心を確立していかなければいけないということを説かれる、それを因縁周と申します。

 このような正説と譬喩と因縁というものを全く無視して、ただその譬えの譬説周の中の一部分だけを理解して、あたかも仏法の全体がそれであるかの如くに考えるということになると、それは又、本当の針のような一部分だけを見て、法界の全体がそうだというふうに単純に理解してしまうということになってしまうわけでございます。仏法の教えというものは、そういうものではないということを深く心に置いて頂きたいと思いますし、そういうことを言って、皆様方の信心に対して中傷する人々に対しては、深くそうした仏法の意義をもって、その尺度で、どうか破折して頂きたいと思うのであります。

 今日、この長い仏法の流通の歴史の中においても、この法華経の真実の義というものに対して、本当の理解を持った方、つまり「法華経の行者」と言われるような方々は、どなたがいらっしゃるかと言いますと、今まで何十億というような、あるいは何百億という人達が、この地球上に生息して長い過去の歴史を作って来られたと思いますが、その過程の中でも大聖人は「三国四師」(全五〇九)ということを言われまして、本当の法華経の本懐を顕されたところの釈尊と、その法華経の実義を縦横無尽に解釈をし説いて聞かせたところの天台大師と、そして法華経の迹門の戒壇を日本に確立された伝教大師、そして又、末法の大聖人様、このたった四人の方しか法華経の真実の義を実際に説き明かし、それを身口意三業の上に行じられた人は、それだけの方しか実はいないのであります。しかも又、法華経の文の底に秘し沈められたところの南無妙法蓮華経という三大秘法の教えというものを、それを末法の人々のために御本尊として、相伝に基づいて、きちっとそれを確立され、一閻浮提第一の御本尊としてここに建立されたのは、まさにこれは大聖人様お一人しか、これ又ないのであります。仏法の奥義というものは、釈尊、天台、伝教、又、大聖人という流れにおいて、その外用の形において、法華経の流布という上において、たった四人しか真実義を、この世の中に確立した人はないのであります。しかもそれを正しい信仰の上に、相伝に基づいて、その宗旨として、三箇の秘伝を確立された御方は唯一人、大聖人様を除いてはないのであります。それほど仏法というものは、やはり根底を極める、真実義を知るということは、それを確立するということは、如何に難しいか。又、信じ難い、行じ難い、貫き難いものであるかということを深く心に置いて頂きたいと思うのであります。

 従って、世の中の書店に売られているような仏教説話であるとか、あるいは小乗経の『法句譬喩経』だとか『百喩経』だとかというような譬喩の一部をかじって、仏法は所詮そんなおとぎ話のようなものだとか、架空のありもしない西方極楽浄土でござれというような、そんな程度のものだというふうなことで、そういうものの考え方で、大聖人様の仏法に立ち向かおうとするならば、本当にそれは愚かなことと言わなければならないのであります。

 どうかそういう輩に対しましては、「あなた方は、ちょっと、七夕の話を聞いて、それが天文学の一切だと思うというような、それほど錯覚し、馬鹿なことを言っているんだ」というくらいの気持ちで、そういう連中を破折して頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年七月二十四日)