日蓮正宗のススメ

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末法の御本仏たる所以

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『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
末法の御本仏たる所以

 皆さん、お早うございます。先週の日曜日は、大聖人様の建立遊ばされました御本尊様を、なにゆえに「一閻浮提第一の御本尊」と拝称し申し上げるかということを申し上げました。今日は御本尊様を顕された大聖人様御自身を、私達は末法の御本仏と拝し、末法万年を救済遊ばされる教主として、私達は仰ぎ奉るのでございます。その大聖人様こそ、末法の本仏として拝称する所以は、どこにあるのかということを、三つに絞ってお話を申し上げたいと思うのであります。

 一つは、皆様方すでに御承知のように、大聖人様御自身が、自らの御事を『別当御房御返事』等々に、

 「日蓮は一閻浮提第一の法華経の行者なり」(全二八四、九〇二)

 ということを大聖人様御自身で宣言遊ばされていらっしゃいます。

 「一閻提第一の法華経の行者」とは何をもってそのように申し上げるのか、また、叫ばれたのかと申しますと、それは釈尊自身が『法華経』の「勧持品」に、末法法華経の行者が、どのような諸難を凌ぎ、どのようにして南無妙法蓮華経の大法を打ち立てられるかということを、『法華経』に、きちっと予証遊ばされているわけであります。「勧持品」において、三類の強敵、つまり俗衆増上慢、道門増上慢、僭聖増上慢、この三類の強敵が必ず出現する。むしろ末法法華経の行者御自身が、その三類の強敵を自ら招き寄せて、それを出現させて、そして、ことごとくそれを打ち破られるということが予証されているのであります。そして、この妙法の大法を万年の衆生のために建立されるということを、また「神力品」に予証されておられるわけであります。その通りに、大聖人様が法華経を心で読み、口で唱え、そして又、身に行じて、実践をして、その中において、大聖人様こそ末法法華経の行者として、法華経の経文に、ことごとく符合された、ただ一人のお方であるわけであります。

 従って、法華経の行者というのは、法華経を千遍読んだとか、一万遍読んだとか、そういうことで法華経の行者というのではない。法華経に説かれた一切の経文を口で読み、仏の心で読み切り、実践を通して、ことごとく、その御身の上に、我が一人の日記文書として法華経を読まれる。そのようなお方は、末法において、また、この宇宙法界に、大聖人様を措いては、ただの一人もいない。そうした意味から、大聖人様こそ末法法華経の行者と申し上げるわけであります。

 そのように、諸難を凌ぐということと同時に、その諸難を凌ぎながら、大聖人様が未だかつてない未曾有の正法を打ち立てられ、未曾有の法を弘通遊ばされるという上において、また、法華経の行者ということなのでございます。

 大聖人様は『新尼御前御返事』という御書の中に、

 「日蓮は一閻浮提の内、日本国、安房の国、東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり」(全九〇六)

と初めて妙法を弘通するということを、おっしゃっている。大聖人様の以前にもなければ、その以後にもない。全く独歩の久遠元初の妙法を、末法の今日に、一閻浮提第一の御本尊として顕され、それを旗印として、私達に下種結縁の大慈悲を注がれ、そしてこの妙法弘通の先陣を切らて、「日蓮先駆けしたり、二陣・三陣続けよかし」と、大聖人様が折伏の第一線に立たれた。

 従って、法華経を身口意三業の上に読み切られた上において、法華経の行者であり、その未聞の正法、大法を打ち立てられて、それを弘通実践遊ばされる、その先陣を切られるという上において、また、一閻浮提第一の人なのであります。そのゆえに、大聖人様は御自らのことを、「日蓮は一閻浮提第一の法華経の行者なり」と叫ばれたのでございます。

 二つ目の意味は、大聖人様は「一閻浮提第一の智者」智人、仏智を持ったお方でございます。なぜ大聖人様をその智者と申し上げるのかと申しますと、これもやはり大聖人様御自身が『顕仏未来記』という御書の中に、

 「当に知るべし通途(つうず)世間の吉凶大端には非ざるべし。惟(こ)れ偏(ひとえ)に此の大法興廃の大端なり」(全五〇八)

と仰せられ、あるいはまた、『呵責謗法滅罪抄』に、

 「誰か知らん法華経の滅、不滅の大端なりと」(全一一二九)

と仰せになっていらっしゃいますように、ちょうど、大聖人様の御出現遊ばされた、大聖人様が、この妙法を打ち立てられてたその時期に、正嘉の大地震、あるいは文永の大彗星等々の、未だかつてない法界を揺り動かすような、大きな天変地夭が打ち続いた。世間の人は、それは単なる天然現象か、あるいは神の仕業が、悪鬼の仕業と思っておりました。しかし大聖人様は、そうではない。これは世間通途の一般のそうした吉凶の姿ではない。まさに大法の荒廃、釈尊の仏法がいよいよ滅亡して、末法の新しい仏の誕生のための瑞相として、大瑞として、法華の大端として現れたのだと、その法界の全体を大聖人様が仏法の鏡に照らして、そう読み切られたという上において、大聖人様が法界の全体をしろしめすところの、ただ一人の一閻浮提第一の智者であるということであります。

 もう一つは、この智者というのは、本当の国の一番の大事な時、国の運命を決めるような時に、その国主を諌め、あるいはまた、万民を導き、そして世界の大衆を教導するというところに、本当の智者の意義があるわけであります。大聖人様は、その師を諌め、そしてまた、三類の強敵を諌め、国主を諌め、末法万年の人々を教導する、そのようなお方をもって、これを唯一の智人と申し上げるわけであります。

 大聖人様は、『頼基陳状』といって、四条金吾さんになり代ってしたためられた御書の中に、

 「智者と申すは国のあやうきを・いさめ、人の邪見を申しとどむるこそ智者にては候なれ」(全一一五六)

ということをおっしゃっておられます。

 それからまた、大聖人様は『開目抄』とか、ただ今の『顕仏未来記』であるとか、『観心本尊抄』等々の御書の中に、妙楽大師の言葉を引かれまして、

 「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」(全二一二、二五四、二八四、五〇九、一一二九)

という有名な言葉を何回もお引きになっていらっしゃいます。ところが不思議なことに妙楽大師がこの御文をお書きになった時には、智人、本当の智者は「機」を知るという場合に、その機根の機、機械の機、人びとの衆生の心、衆生の境界を意味する、その衆生の機根の「機」という字をお書きになっている。ところが大聖人様は妙楽大師の言葉と言ってお引きになっておられますけれども、機根の機ではなくて、物事の起こり、物事の起尽を表す意味の、物事の根源を現す、その「起」という字を大聖人様は、そこに当てていらっしゃるのであります。『開目抄』でも『観心本尊抄』でも『顕仏未来記』でも、大聖人様は、その御書の全体に亙って全部、妙楽大師が智人はその衆生の機根の「機」を知るというようにお書きになったものを、全部、物事の起尽を知る、大本を知る、根源を知るという意味の「起」という字に全部書き換えておられる。つまり妙楽大師が使った言葉は、単なる、人を教導する時には、その人の機根をよく知る、つまり、相手の立場、相手の悩み、相手の境界をよく知るということをもって法を説くということを、妙楽大師はお説きになっている。それを知るのが本当の智者なんだというように妙楽大師は使われておる。

 ところが、大聖人様は、本当の智者はそんな程度のものではない。一切の仏法の、この一切の法界の全体の根源、大本、本源を知る。その人をもって本当の智者というのだ。智人はその起尽を知る、大本を知る、というふうに書き改めておられるのであります。

 なぜかと申しますと、それは大聖人様こそが末法の久遠元初の仏様として、その一切の仏法の根源を極め遊ばされておられる。その上に立って、あえてこの一切の根源という意味で、機根の「機」を改めて、起尽の「起」起こりという字に改めていらっしゃる。大聖人様は、そんなことは一言もおっしゃっていないのですけれども、不思議なことに妙楽大師の文を全部書き換えておられる。そこに大聖人様は、御自身こそが一閻浮提第一の智者として、その一切の法界、仏法の奥底を極め尽くされ、悟られたという上において、あえて御自身の御内証の御仏智の上から、書き改めておられるということを知っていただきたいのであります。そこに大聖人様をして、末法の、また、閻浮第一の智者として、拝称申し上げる所以があるということを申し上げたいのであります。

 そして三つ目に申し上げることは、それもこれまた、大聖人様の御自身が『聖人知三世事』という御書の中に、

 「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」 (全九七四)

とおっしゃっておられます。聖(ひじり)の人、聖人とは、これは三世を知る方をして、聖人と申し上げるのであります。

 大聖人様は、現実に『立正安国論』において、他国侵逼の難、自界叛逆の難、この二難が必ずこの地を襲うということを、現実に照らして、当時の日本の現実に照らして、大聖人様はそのように予証された。その自界叛逆の難、他国侵逼の難が、九年後、十四年後に、その通りに現れて来た。その現実を通して、大聖人様は、また、同時に過去のことも未来のこともお説きになっておる。つまり過去は遥かに悠久、久遠の元初にさかのぼって、本地を顕されていると同時に、末法万年に臨んで、この妙法が、妙法の経力と大聖人様の大慈、大悲によって、閻浮提に広布して、必ず世界の広宣流布が達成できると、大聖人様は予証されておられるわけであります。

 ですから、ただ単に三世を知るといっても、昨日と今日と明日と、そんな単純な三世ではなくて、久遠の元初に始まる、無始、そしてまた、末法万年の無終に至る、その三世を了達された仏様の境界において、大聖人様は一閻浮提第一の智者と仰せになっていらっしゃるのであります。そうした所以を通して、私達は大聖人様を末法の仏様と拝し、末法万年の人びとを教導される教師と、私達は仰ぎ奉るのであります。

 どうか皆さん方は、そのような大聖人様の正真正銘の弟子であり、その信徒であるという深い確信に立って、大聖人様の弟子檀那として恥ずかしくない信心を全うして頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。 

(平成元年二月五日)