日蓮正宗のススメ

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善知識について

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『日曜講話』第四号(昭和63年9月1日発行)
善知識について

 皆さん、お早うございます。皆様方も大聖人様の御書を通しまして「善知識」と「悪知識」という言葉を、お聞きになったことがあると思います。「善知識」と申しますのは、人々を大聖人様の正法のもとに導いて、そして又、その人の信心を啓発してくれる正直・有徳の正信の先達の方々や同志の方々を「善知識」というのであります。それに替わりまして反対に色々な甘い言葉や、あるいは又、厳しく悪口を言ったり、悪口罵詈、中傷等々を重ねて、人々を正法に近づけない、正法の広布を妨げる魔の働きをして、しかも色々な悪知識、悪法、邪法というものを人々に吹聴して不幸に陥れる、そういう働きをする人々を「悪知識」という風に、大聖人様は説かれているのであります。

 この「善知識」ということにつきまして、『法華経』の「妙荘厳王品」(みょうしょうごんのうぼん)というところに、釈尊の経文の上においても明らかに説かれているのであります。これはどういうことかと申しますと『法華経』の「妙荘厳王品」に説くところ、浄徳夫人(じょうとくふじん)という奥さんと浄蔵・浄眼(じょうぞう・じょうげん)という二人のお子様が協力を致しまして、妙荘厳王という未だに邪法、邪師の邪義に捉れて、つまりバラモンの外道の教えにいつまでも捉れるお父さんを、現実に現世において教化・折伏をしたということが説かれているのであります。そのお父さんが、この正法の門に帰伏して、その上において、つくづくと自分の妻を思い、自分を正法に導いてくれた子供達の振る舞いに対して、歓喜して経文に、このように説いているのであります。浄蔵・浄眼の二人の子供は、

 「此の二子は是れ我が善知識なり。宿世の善根を発起して我を饒益(にょうやく)す」(開結六五七)

つまり自分をこのように、妙法の功徳に潤う、功徳に溢れた境界に導いてくれた。その理由は我が家に善知識としてその子供が来生した。生まれて来たのだ。そのことが宿縁となって今日の自分があるのだということを歓喜して悦んで、「自分の子供は単なる我が子ではない。この正法の門に導いてくれた師匠でもあり、善知識でもあるのだ」と言って、我が子に対して父親が感謝の言葉を仏に述べているのであります。そこに「善知識」という言葉が『法華経』の上に初めて説かれているのであります。その善知識は丁度、妙荘厳王に対する浄徳夫人と浄蔵・浄眼の二人の子供が、大聖人様の御在世におけるところの池上兄弟と全く符合する。つまり、池上宗仲・宗長のお父さんの康光が二人の兄弟の信心に対して家督を譲らないとか、色々なことを言ってこの信心を止めさせよう止めさせようと奸計をめぐらすけれども、大聖人様の御指南を通して、池上宗仲・宗長の二人の兄弟が一致協力して、やがて、そのお父さんをも教化・折伏していくのであります。その池上兄弟を大聖人様は『兵衛志殿御返事』に、

 「親父は妙荘厳王のごとし、兄弟は浄蔵・浄眼なるべし 昔と今はかわるとも法華経のことわりは、たごうべからず」(全一〇九一)

と言われて、現世に親を導く孝養の子供の姿は、あたかも『法華経』に説かれる単なる子供ではなくして、善知識の振る舞い、善知識の真の孝養の道を尽くしているのだということを、大聖人は説かれておられるのであります。これは現世において家族を、父親を、両親を導いた人の例であります。

 それに対して既に亡くなった父母に対して、あるいは先祖代々の人々に対して、この御本尊のもとに、しっかりと南無妙法華経の功徳を供えて、そして又、朝晩の勤行の時BDTB

に先祖代々に回向を申し上げる。その功徳、その振る舞い、その回向の功徳ということにつきまして、やはり大聖人様は『法蓮抄』という御書の中に、丁度、曾谷さんのお父さんの十三回忌に当たって、それまで自分は、ずぅっと父親の回忌ごとに、又、日々の勤行の中に「自我偈」を読み、題目を唱え、父の報恩の為に回向をする。その振る舞いに対して、

 「其の時、過去聖霊は我が子息、法蓮は子にはあらず。 善知識なりとて娑婆世界に向っておがませ給うらん。是 こそ実の孝養にては候なれ」(全一〇五〇)

という言葉を残しておられるのであります。その先祖代々の人々は念仏で送られた両親もありましょう。あるいは真言禅宗や色々な今までの過去の宗教に依って送られた先祖代々の人々。どういう人であったとしても今、その子供が正法に目覚めて、この南無妙法華経の閻浮提第一の正法の功徳を供えて、その功徳の用(はたらき)をもって、その父母の精霊を回向する時、その父母、過去の精霊は、御本尊に向かって、又回向し勤行をする皆様方のこの娑婆世界の振る舞いに対して、両の掌を合わせ感涙の涙にむせんで「我が子供ではない、善知識なり善知識なり」と歓喜して悦んでいるのだということを、大聖人様は、この『法蓮抄』に説かれておられるのであります。昔から「墓に布団は掛けられず」ということを申します。孝養というものはしたい時には既に親はいない。さりとて、その墓に布団を掛けてみても何にもならない。ところが、この南無妙法蓮華経の法のもとに妙法の功徳を供えてあげる。その妙法の功徳をもって回向してあげるならば、それは現実に生きた父母であろうと、既に亡くなった父母であろうと、子供であろうと、先祖代々の人々であろうとも、この妙法は十方法界の人々を救うが故に、過去の父母といえども、皆様方のその日夜の勤行の姿、尊い日々のそうした姿に対して、その功徳の振る舞い、孝養の実に対して、感涙の涙にむせび、又歓喜して両の掌を合わせて「我が子にはあらず、善知識なり、善知識なり。自分は如何に立派な子供を持ったものか。自分は如何に善知識に恵まれた者か」と言って、父母に限らず、先祖代々の一切の過去の精霊が悦んでおるのだということを、大聖人様は教えておられるのであります。従って皆様方は、どうかこのことをしっかりと心に置いて、今日の信心は自分だけに止どまらない、その功徳が家族の一切の人々に及び、又先祖代々の一切の人々の精霊を救うというところにつながっている。今日の信心は過去の人々の精霊の上に及び、そして皆様方を機軸にして、現在の人々の一切のあらゆる煩悩や、あらゆる悩みや、あらゆる苦しみを打開していく道であり、そして又これから先行き未来の一族一門の人々の幸せを開拓していく。そうした三世を救済する今日の信心なのだということを、大聖人様はこうした善知識という言葉を通して教えて下さっていることを、しっかりと心に置いて頂きたいと思います。

 この「善知識」にも実は四つの意味があるのであります。一つは「教授の善知識」と申しまして、私達に対して、大聖人様のこの妙法の一切の法門、一切の教義、御本尊を中心とする法門の総てを教えて下さるその源(みなもと)は、大聖人でありますけれども、日興上人を始めとする代々の御法主上人猊下が、これ又「教授の善知識」ということであります。

 そしてもう一つは「同行の善知識」同じ道に立って、同じ組織、同じ講中、同じ立場に立って共々に啓発していく。お互いに良き法の友となり、法の友となり合って、連帯をして異体同心の信心に立って、広宣流布のために精進をしていく、そのお互いという形。皆様方お一人お一人が同行。同じ道の上において行を積んでいく。「同行の善知識」ということなのであります。ですから信心は決して孤立してはいけません。自分一人になって、御本尊さえあれば良いのだ、我が家に御本尊様さえ御安置申し上げれば、もう自分勝手で自分なりに自分の心に従って、自分の気が向いた時だけ、自分が納得出来ることだけ従って、そうではないことは知らないというような、そういうわがままな自分の心に従った信心というものを、大聖人様は強く戒めておられるのであります。どうしても自分一人になりますと、わがままになります。どうしても一人になりますと惰性に流されます。どうしても自分一人でいると好い加減になります。怠惰になります。そういう自分を叱咤激励し、後押しをし、又引っ張って、あるいは又、叱ってくれる、励ましてくれる、そうしたお互いの異体同心というものがなければ、真実の精進は出来ないのであります。そうした意味で「同行の善知識」同志というものが必要なのであります。組織というものが必要なのであります。

 その次はに「実際の善知識」ということがあります。これはどういうことかと言いますと、この信心を通してただ今申し上げましたように、実際に父母を救い、実際に幸せな境涯を一歩一歩、我が身の上に、我が家の中に積んでいく。築き現していく。実証していく。自分の身の上にそれをしっかりと感得していく。そういう有り難さ、あるいはその報恩の道、孝養の道をしっかりと実際にこの世の上において、現実の生活の中に、人生の中に築き現していくことが「実際の善知識」ということなのであります。

 そして最後には「外護の善知識」ということがあります。お互いに日蓮正宗を支え、総本山を外護し、又皆様方はこの妙光寺を外護して下さって、そしてここに、大聖人様の教えが、日蓮正宗の宗旨が、厳然として七百年間、今日に伝えられて来た。これを又、末法万年の人々に、この妙法を絶やすことなく、曲げることなく、汚すことなく、この正しい信心を伝え流して、世界の人々の幸せを、民衆の救済を、広宣流布を成し遂げていかなければならない。そこに私達一人一人がその外護の任に立って、自分だけではない、同じ今の時代の人々、又これからの未来の人々、これからの世界の、一切の末法万年の衆生を救済していく。そのために私達一人一人は、その外護の任に起っていかなければならない。私達はそうした「外護の善知識」になり切っていかなければいけないと思うのであります。そのように「善知識」とたった三文字で出来た言葉でありますけれども、そこに含まれる意義は、法門は非常に深いのだということを心に置いて、しっかりと、日蓮大聖人様の弟子らしく、大聖人様の御信徒らしく、又、大聖人様の御義に適う信心をこれからも全うしていって頂きたい。そしてしっかりと功徳を受けきって頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年八月二日)