日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

一閻浮提第一の本尊

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『日曜講話』第一〇号(平成元年9月1日発行)
一閻浮提第一の本尊

 皆さん、おめでとうございます。年頭に当たりまして、皆様方御一同の過去遠々劫以来の謗法罪障消滅・家内安全・息災延命・信心倍増・現当二世心願満足ならびに皆様方の御一家の御健勝と御繁栄の御祈念を懇ろに申し上げました。

 既に皆様方も御承知の通り、日蓮正宗の信心を全うするためには、必ず正宗の寺院に詣でて御授戒を受け、そして御本尊を賜り、お互いが法華講か、あるいは学会かどちらかの組織について、どこまでも大聖人様の弟子檀那として、その正しい信心を全うするということが大切でございます。中には御本尊様を頂いた以上は、もはや私は日蓮正宗の信徒になりきったのだから、後は自分の自由で、自分が気が向いた時に勤行をし、気が向いた様に信心をし、そして又、何か必要があれば、その時点その時点で、お寺に詣でて住職の教導を受ければそれで良いのだという風に考える人もございます。一見それも正しい様には思えます。未だに謗法の教えに執着している人から比べれば、遥かに進んだ信仰であるかもわかりません。しかし、大聖人様の御指南の通りの信心を全うしようと思うならば、やはり法華講法華講の正しい組織に則って、学会の皆さんは又学会の組織に則って、正師の教導を受けながらどこまでも正しく、そして、すがすがしい大聖人様の弟子檀那らしい信心を、一日の修行の中に、実践の中に貫くということを忘れてはならないと思うのであります。 

 幼い子供さんにとっては、我が家になまじっか大聖人様の御本尊様があるから勤行をしなければならない。あるいは「登山や会合だ、なんだかんだと言って、お父さんお母さんが、しょっちゅう留守をして、私は淋しい幼い時代を淋しい気持ちで送らなければならなかった」という様なことから「私は、こんな信心は嫌いだ。なまじっか御本尊様があるから、お母さんが“勤行をしたか、勤行をしたか”と言ってうるさくてしょうがない」と言って愚痴をこぼす子供さんも中にはあるのであります。しかし、この大聖人様の教えは、私達がどこまでも心に信じ、そうして口に唱え、身に行ずるという実践の世界なのでございます。

 本年の『大白法』における日顕上人の御指南の中に、「世間の人々は自分の身を飾る、あるいは自分の顔形を飾るという上において、品物をもって、あるいはお金をもって、地位や財産をもって、自分の身を飾るという人は多いけれども、この信心をもって正法の輝きをもって自分の心を荘厳するという人はいない」ということを御指南遊ばされて、大聖人様の信心を全うすることの尊さを日顕上人は教えて下さっております。私達が本当に心の底から世間の人々に優れている、その果報の上において、実践の上において、その世界の何者にも、どなたにも負けないものを持っているというのは、それは、いつにかかって大聖人様の一閻浮提第一の正法を持ち、正法を信じ、この正法の題目を唱え、そして又身に折伏を行ずるという尊い仏の振る舞いをまさに実践するところに私達の誇りが、私達の身を荘厳する、心を荘厳する基があります。世間の人々に打ち勝って、あらゆる苦難といわず、あるいは一切の悩みといわず、苦しみといわず、その総てに打ち勝っていく道があるわけであります。その実践のところに私達の誇りがあり、実践のところに私達の大きな功徳を頂く基があるわけであります。その信じ難い、聞き難い、持ち難い、この正法を貫く。それを持ち実践するからこそ、大聖人様は私達を護って下さり、私達に功徳を与えて下さるのでございます。

 『法華経』の宝塔品に、

 「此の経は持ち難し。若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す。三世の諸仏も亦然なり」(開結四一九)

ということが、はっきりと説かれているのであります。従って、皆様方も、ただ単に御本尊を持って、そして自分の気の向くままにだけ信心をすれば良いというものではないのです。どこまでも大聖人様の教えを自分の生活の信条として、信心のモットーとして、そして大聖人様の御義にかなう信心を貫かなければ、本当の功徳は我が身にはつかない。我が家の上には妙法の輝きはないのだと、知って頂きたいと思うのでございます。

 大聖人様は『観心本尊抄』の一番の最後のところに、

「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(全二五四)

と御指南遊ばされて、実際に私達に本門戒壇の大御本尊様を末法万年の総与の御本尊として残して下さったのであります。今日は、一体「一閻浮提第一」ということはいかなる意味をもっているのか。何故に「第一」なのかということを考えてみたいと思うのであります。難しい法義のことは省略いたしまして、本日はその要点だけを申し上げますと、「一閻浮提第一」の「第一」ということはどういうことかと申しますと、それは御本尊様の讃文にも、大聖人様御自身が「仏滅後二千二百二十余年」乃至「二千二百三十余年未曾有の大曼茶羅也」ということを認め遊ばされています。この法界に未だかつてない未曾有なるが故に、大聖人様は「一閻浮提第一」と仰せになっていらっしゃるのでございます。

 第二番目に「第一」とは、これは最極、法華経の極理、一切の仏法の奥底、究竟の意味において、大聖人は「一閻浮提第一」と仰せになっておられるのであります。

 そして、第三番目に申し上げたいことは、第一ということは最勝、つまり最も勝れておる。最も勝れておるが故に、それが無上の妙法であるが故に、「第一」と仰せだと拝するのであります。

 その次に考えられますことは「一閻浮提第一」とは、その功徳の広大なること。世界に、いかなる宗教、宗旨があったといたしましても、その本尊の功能(くのう)の上において、この妙法蓮華経の御本尊様をしのぐ法、法体は、いずこにもないのであります。その末法万年の衆生を悉く救いきると、しかも三世に亙って救いきるという広大な功徳の上において「一閻浮第一」と大聖人様は仰せなのでございます。

 その次に考えられますことは真正、つまり最も正しいという意味でございます。正しいが故にこそ、大聖人様は「第一」と仰せだと思うのであります。

 その次は御承知の様に、大聖人様の久遠の開顕の上におけるこの妙法の奥底、その本源を大聖人様が、はっきりと御開顕遊ばされている。しかもなお、その上に立てられた御本尊として、その法義の内容が、大聖人様御自身のお悟りに基づくところの一念三千の法門が、きちっと整足している。三大秘法の実義がきちっと御本尊様に具わっている。あるいは久遠の元初の仏法僧の三宝が、きちっと、この大聖人様の御本尊様に相整足している。又、大聖人様御自身が「名体宗用教の五重玄」とおっしゃいます様に、この御本尊様は単なる偶像や単なる文字に顕わされた掛け軸ではないのであります。妙法の妙名とその法体と、その教え、その法門、功徳、一切の具わった名体宗用教の五重玄の本尊ということを、きちっと心に置いて頂きたいと思うのであります。一切の法義の深さ、法義の尊とさ、法義の働き、そのすべてが、この御本尊様に具わつております。その故において「一閻浮提第一」と大聖人様は御指南遊ばされていらっしゃると思うのであります。 

 そしてしかも「第一」とは、言葉を換えて言うのならば、最も尊いということ、最も善いという意味で、最善、大善という上において、大聖人様は「一閻浮提第一」と御指南遊ばされていらっしゃるのでございます。

 どうか、そうした意義において、大聖人様が魂を留どめられ、そうした一切の仏法の奥義、奥底、功能、働き、そうした上から大聖人様は末法の御本仏として、一閻浮提第一の聖人として顕わされたが故に、又「一閻浮提第一」と大聖人様が仰せなのだということを知って下さい。大聖人様の御指南のままに深く信をいたし、今年も堂々とした、すがすがしい、晴れやかな信心を全うして頂きたいということを申し上げまして、年頭に当たっての御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変おめでとうございました。

(平成元年一月一日)