日蓮正宗のススメ

この世に生まれてきた意味を成し遂げるために

勤行の大事(一)

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『日曜講話』第四号(昭和63年9月1日発行)
勤行の大事(一)

 皆さん、お早ようございます。こうやって毎週日曜日の朝、皆様と共に早朝勤行会を奉修させて頂いております。また皆さんも毎日毎日、朝夕、五座三座の勤行を、一年を通じて貫くということは非常に大変なことでございます。一日二日の勤行というと簡単なことでごさいますし、誰でも出来るように思います。しかし、その最も基本的な最も平凡なことを、三百六十五日これを通して、ずっと続ける。これを五年、十年、三十年と続けることが、また如何に大変なことかということをお考え頂きたいと思います。非凡と平凡という言葉がありますが、非凡ということは何も特別なことを、大層なことをしたから非凡なのだということでは実はないのであります。一番基本的な、日常で一番大事な、誰でも出来るということを疎(おろそ)かにしないで、それを毎日毎日、営々と貫くということが実は一番大切であり、それが出来るということが非凡に通じていくのでございます。日蓮正宗におきましても、この一日の勤行ということが一番基本でありまして、一番大切なことなのでございます。この「勤行」という毎日の信心修行というものに対して、法義的に大聖人様の教えの意味から、どのような意義を持っているのかということにつきまして、今週と来週に亙ってお話しを申し上げたいと思うのであります。

 第一の勤行を貫くという理由は、皆様方が五座三座の観念文を通してよく御理解頂けると思いますが、それは御本尊様、そして大聖人・日興上人・日目上人等々、三宝尊に対しての御供養のために勤行をするということが先ず最も基本的な理由でございます。そのことを考えます時に、初座は諸天善神に対して南無妙法蓮華経の法味を供養するという意味があるのです。そして二座は御承知のように御本尊に対する御供養であります。三座は観念文の通り、大聖人様・日興上人・日目上人等、総本山の御歴代の御正師に対するところの御供養のために、三座の勤行というものが行なわれるのであります。四座は世界の広宣流布ということを願う、広宣流布の御祈念であります。世界中に、この上(かみ)は御法主上人猊下に始まって、そして全国の寺院において、又全信徒の御家庭において、日本と言いわず、アメリカと言いわず、ヨーロッパと言わず、全世界の正宗の御信徒が、心を一つにして広宣流布誓願している。そのために具体的な実践をし、そして日夜この勤行をしている、御祈念をしておるというような宗旨は世界中どこを探してもないのであります。従って、その四座の広宣流布の御祈念というものは、自分だけが今やっているのではなくて、御法主上人猊下も毎朝、丑寅の勤行の時に御祈念をされ、世界中の御信徒が心を一つにして御祈念しておる、というその意味をよくお考えになって心に置いて勤行をして頂きたいと思います。五座は法界の一切の精霊に対する供養であります。皆様方の先祖代々の精霊と言わず、お世話になった人と言わず、総ての御縁のあった有縁無縁の人々の法界の精霊に対する供養という意味で五座の勤行が行われるわけであります。このように御本尊様を中心にして三宝尊に始まって、一切の人々に対して、法界に対して御供養を申し上げるために勤行というものがあるわけです。御本尊様の相貌(そうみょう)の中に、その讃文(さんもん)の中に、大聖人様が、はっきりと、

 「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)

 「若悩乱者頭破七分」(若し悩乱する者は頭七分に破る)

 とお認めになっておられます。その故に私達は、御本尊様に対して御供養を申し上げる、そうした意味で勤行というものが行われるわけであります。しかも大聖人は、『法蓮抄』という御書の中に、

 「一劫(いっこう)が間、生身(しょうしん)の仏を供 養し奉るには百千万億倍すぐべし」(全一〇四四)

ということをおっしゃっておられます。末法衆生は大聖人様の命を留(とど)められた、魂を留められたこの御本尊様を御供養申し上げるということの功徳が、釈尊の在世の時代に生身の釈尊に対して供養することよりも、百千万億倍大きな功徳が、この御本尊様に具わっておるということを、大聖人様は御本尊様の相貌の中に、お認めになっていらっしゃる。そうした意義から私達は先ず三宝尊、御本尊様への御供養のために勤行をするんだという、これが第一の理由であります。

 二つ目の理由は御供養と同時に、三宝尊に対して御報恩申し上げるために勤行をするということなのであります。大聖人様は『開目抄』の中に、

 「仏弟子は必ず四恩をしって(三宝の恩・師匠の恩・父母の恩・一切衆生の恩の四つの恩を知って)知恩報恩をいたすべし」(全一九二)

ということをおっしゃっておられます。三宝尊に対して御本尊様に対して、報恩のために二座の勤行があり、また、大聖人・日興上人・日目上人等、御歴代の御正師に対する報恩のためにまた、三座の勤行があり、皆様方のお父さんお母さん、先祖代々の人々の報恩のために五座の勤行があり、折伏を通して一切衆生を救済し、一切衆生に報恩申し上げるという意味において、四座の広宣流布の御祈念があるわけであります。

 人間は、今年一年なら一年生きていくためには、一年に約十五万人位の人々のお世話になっているのだということが言われております。実際、今、皆様方がお召しになっている洋服に致しましても、あるいは皆様方が今日お召し上がりになる朝の食事に致しましても、お昼の食事に致しましても、皆様が履いておられる靴に致しましても、みんなそれは自分が作った物ではありません。みんな世の中の世界中の誰かが、どなたかが丹精して作って下さった物でございます。尊い汗を流して、労働を通して世界の誰かが作って下さった、そうした食物を皆様方が召し上がっておられるのでありますし、皆様方の洋服に致しましても、世界の誰かが作って下さった、世の中の誰かが丹精して作って下さった洋服を着ている。また、世の中の誰かが作って下さったその車に乗り、電車に乗り、あるいは歩いて、こうやって皆様方が参詣し、毎日の生活が成り立っているわけであります。ですから世の中で「俺が働いてやっているからお前らが食えるんだ」とか、「俺が苦労しているからお前達は安穏と生活が出来るんだ」とか言って、大層なことをよくお父さんがおっしゃいますけれども、それは若い時は自分の力が、会社においても、また自分の一家においても、それを支えており、あるいはまた何等かの形で貢献しているということが誇りに出来る時代は、そうやって威張ることも結構でありましょうけれども、しかし段々、六十歳近くなって、停年も間近になって「この会社は俺がいるから持っているんだ。俺が働いてやっているからお前達が食えるんだ」とか、そんな偉そうなことは段々、言えなくなってくるわけです。もう自分の仕事さえも危なくなってくる。自分の立場や自分の地位さえ、もはやいつまでも、その場に止どまることは出来ない、許されないということが分かってくると、人間は段々とそういう高慢なことは言わなくなって参ります。しかし、いずれに致しましても、私達は決して一人で、南海の孤島に生きているのではない。やっぱり大勢の人々のお世話になって今日の自分の命というものが支えられているわけであります。そういう世間の人に対して、どうやって報いていくか。道を歩くごとに、会う人ごとに「有り難うございます。有り難うございます」と言って歩くわけにもいかない。そんなことをしたって、一切衆生の恩を報ずる道には、つながらない。本当の意味で一切衆生の恩を報ずる道は何かというと、結局それは、その人を救うということ、世の中の人々を折伏を通して、一人残らず救っていく、広宣流布を実現する。そのために折伏の実践をするということが真実の一切衆生に対する報恩なのであります。そのことを大聖人様は教えておられるわけです。大聖人様以来、私達は四座の勤行を通して世界の広布を願い、一切衆生の幸せを願い、又一切衆生の幸せのために、広宣流布のために、折伏を行じて一切衆生の恩を報じているわけであります。そのように勤行というものは三宝尊に始まって、父母の恩と言わず、師匠の恩と言わず一切衆生の恩と言わず、そうした報恩のために毎日の勤行があるのだということを知って頂きたいと思います。

 大聖人様は『御義口伝』に、

 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は求男求女を満足して父母の成仏決定するなり」(全七七七)

ということをおっしゃっておられます。父母の成仏も、皆様方の毎日の勤行を通して初めてなし得る。皆様方が両の手を合わせ、御本尊のもとに端座されるということは我が手は父母の手であり、我が口は父母の口である。ですから皆様方が唱えている時、父母も唱えておる。皆様方が合掌する時、又父母の手が合掌しているのだという風にお考えを頂きたいと思うのであります。成仏は自分だけの成仏ではありません。父子一体となっての成仏だということを心して頂きたいと思うのであります。

 そして三つ目の理由は、この勤行こそが末法正意の、大聖人様以来の相伝に基づく、正しい末法の如説修行の信心、その正意の修行であるがために、毎日の勤行というものが行われるのであります。大聖人様は『十八円満抄』という御書の中に、

 「予が弟子等は我が如く正理を修行し給え。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき。所詮、時時念念に南無妙法蓮華経と唱うべし」(全一三六七)

ということを仰せになっておられます。この五座の勤行ということは、昔は「方便品」でも総本山におきましては「十如」の所で切らないで、「方便品」というのは実はもっともっと「寿量品」よりも長いのでございまして、その「十如」の「本末究竟等」の後に、「世雄不可量」に始まって諸仏道同と申しまして、諸仏は何のために世の中に御出現になるか、それは仏知見を開かしめんがためであり、仏知見を示さんがためであり、仏知見に入らしめんがためであり、仏知見を悟らしめんがために仏は出現するというような、非常に大切な経文が、この「方便品」(開結一六七)

にあり、「十如」の後に説かれているのであります。昔は総本山におきましても五座の勤行を通して、その部分まで奉読をしておりました。そしてまた今日、二座を除きましては「寿量品」の長行を読みませんけれども、やはりこれもまた昔、総本山におきましては、それぞれの二座も三座四座、五座を通じて、「自我偈」だけではなくて、「寿量品」の長行を全部読んでいたのであります。そうしますと勤行というのは二時間位かかってしまう。それでは総本山ではいいかも分かりませんけれども、全御信徒が毎日毎日の勤行に、とてもそういうことは出来ませんので、いつの時代からか、今の形に整足をしていったのでございます。今でも大変だ大変だと思っている人は、もっと昔は大変だったということを考えて頂きたい。今は、むしろ半分に減ったんだと思って、一つ勤行を全うして頂きたいと思うのであります。いずれにしても多少の変遷はありますけれども、大聖人様以来の日蓮正宗における相伝に基づく本宗の修行、本宗の化儀に則って今日の勤行というものが行われている。これが末法の総本山における相伝に基づく如説修行の信心であります。末法正意の修行であるから、勤行というものが行われるのだということが三つ目の理由として考えられると思うのであります。

 四つ目に大切なことは、この勤行こそが功徳の源泉であるということであります。功徳の本は、やはり勤行に始まるということを御理解頂きたいと思います。大聖人は『聖愚問答抄』という御書の中に、

 「只、南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあ るべき、来らぬ福(さいわい)や有るべき、真実なり甚深なり、是を信受すべし」(全四九七)

ということをおっしゃっております。この御本尊を通して勤行を通しての信行の題目というものが、それがやはり、

 「信は道の元(みなもと)功徳の母と為す」(華厳経∥大正蔵九ー四三三・A、全一二四四)

ということが言われますように、一切のあらゆる功徳の大本が、やはりこの勤行に始まる。勤行・唱題から一切の功徳が、その源がそこにあるということをしっかりと心に置いて、これからも営々として基本的な一番大切な勤行に挑戦するということを、一つ心に置いて頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年八月九日)