日蓮正宗のススメ

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御本尊に誓願をもって祈れ

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
御本尊に誓願をもって祈れ

 皆さん、お早うございます。ただ今も何人かの方が、御授戒をお受けになり、又、大聖人の御本尊様をいただかれたわけでございます。日蓮正宗の信徒にとって一番の幸せは何かと申しますと、私は、大聖人様御自身が命を留どめられた、魂を留どめられた御本尊様を、大聖人様以来の相伝に基づいて、時の御法主上人猊下のお許しをいただいて、我が家にまでも、大聖人様の本門の御本尊様を御安置申し上げるということが出来るということであります。そして、我が家でさえも義の戒壇として、信心の道場として、大聖人様の信心を全うすることが出来るということの幸せということを、お互いに一人一人が心にかみしめていただきたいと思うのであります。従って、一人一人が、御本尊様に託する願いというものを持っていただきたいと思うのであります。やはり信心する以上は、何等かのことが機縁になって、信心を求められたはずでございます。それが悩みであろうと、苦しみであろうと、どういうきっかけでありましょうとも、やはりそのことの解決を望み、また心に深く期するものがあって、入信を決意されたことと思うのであります。

 入信以来、既に十年、二十年、三十年になんなんとする方も、あるいは、おじいさんの代、あるいは、おばあさんの代から既にこの信心をなさっておられる、そういう宿縁の上に生まれた方もいらっしゃると思います。そういう人であったとしても、やはりお父さんはお父さんとして、お母さんはお母さんとして、子供は子供として、自分の一念心の上に深く何等かの形で心に期するものを持って、そうして毎日精進をしていただきたいと思うのであります。

 大聖人様も三大誓願ということを『開目抄』におしゃっています。

 「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」(全二三二)

という誓願を立てられておられますし、そして又、末法万年の人々を救済するという誓願を打ち立てられていらっしゃいます。世界の広宣流布が、必ずこの妙法の力によって、この功徳力によって、必ず成就することができるという大誓願を、大聖人様はお示しでございます。

 従って、私達も日蓮が弟子壇那と名乗る以上は、その大聖人様の深い広布の誓願に裏打ちされた、その誓願に立って、又その上に自らの願いを託して、そして一つでも二つでも、その解決のために、清らかな、堂々とした、すがすがしい信心を全うしていくことが大切だと思うのであります。何の願うこともなく、ただ闇雲にお題目を唱える、あるいは、お父さんお母さんがうるさいから勤行をするとか、そういう低次元の信心をしてもらっては困るのであります。師匠がうるさいから、あるいは、だれかが見ているからやるとかというのでなくて、自らが心に期して、自らが心に誓願をもって、そして自らの一念心で、祈り切っていく、信心をしていくことが大切なのであります。その心なくして、功徳もあり得ないということを深く心に銘記していただきたいと思うのであります。

 皆様方が御本尊様に託する願いが、ことごとく、大聖人様は叶うと、諸願は成就するということをお示しになっていらしゃるのであります。そのいくつかの文証を申しあげますと、『法華経』の「薬王品」に、

 「この経は能く大いに一切衆生を饒益(にょうやく)して、其の願を充満せしめたもう」(開結六〇二)

と、諸願は必ず満足する、諸願は叶うということを『法華経』の「薬王品」に、三世の諸仏が、お互いに妙法の信心を貫く人を守り切って、又、諸天善神がその人を守護して、必ずその諸願は叶うということをお示しなのでございます。

 又、大聖人様御自身も『祈祷抄』という御書に、これは有名なお言葉であります。

 「大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(全一三五一)

ということをおしゃっておられます。これは私が申し上げるのではありません。日蓮大聖人様が、一閻浮提第一の智者が、末法万年の人々を救済するところの仏様が、そのことをおしゃって、そのことを保証して下さっているということを信じて、確信をしていただきたいと思うのであります。

ただし、その御本尊に諸願を託すると申しましても、そこには、祈り方が当然あるということを忘れてはならないと思うのであります。どういうことに気を付けたら良いかと、具体的なことを申し上げますと、それは、とてもとても実現が叶うはずもないことを願っても、これは何の意味もないのであります。たとえば、今日ここに集っていらしゃる何百人の方が、全員、総理大臣になりたいといって祈っても、それは無理です。もともと、その時代には総理大臣は一人しか立てることは出来ない。あるいは、皆が確かに大学を目指し、高校を目指し、中学を目指して勉強する。その時に、もともと定員が百人しかいない所に千人が詰め掛けて、全員が入学出来ますようにと祈っても、それは不可能であります。そんなばかなことを祈ってもそれは意味がない。ですから、自分の生活の中で、自分の家庭の中で、自分の人生の中で、自分の仕事の上で、やはり何等かの形で願える可能性がある、又、自分がそこに一身を堵して、大聖人様にお願いしたいと深く心に期するものがあって、そのことを託するということが大切だと思うのであります。

 それともう一つは、信心は自分だけの我欲のことをもって、がりがり亡者のように自分だけのことでもって祈っても意味がない。それはとても叶いません。やはり、そこには大聖人様の本誓願に叶った信心の上に、それを願うことが大切であります。どういうことかといいますと、それは広宣流布の志ということを深く心において、その上に願っていくことが大切であります。五座の勤行の中にも、まず四座において広宣流布ということを御祈念し、そのことをお誓い申し上げる上において、自分の小さな願い、自分の願いというものを、そこに託していくことが大切だと思います。

 それと同時に、また勤行の中において観念文の中にも、久遠以来の一切の罪障の消滅を祈るということがあります。罪障消滅を深く心に期する。それも自分だけの罪障消滅ではなくて、一家、一族、皆の罪障消滅を深く御祈念申し上げていくことが大切であります。

 それと、やはり三宝の恩と言わず、一切衆生の恩といわず、父母の恩といわず、知恩報恩の志を失って、その心を失って、不平不満、愚痴の上に、自分の願いだけ、ひたすら我欲をむきだしにして祈っても意味がない。それはとても叶いません。やはり、その報恩の志、どんなに厳しくしつけられた親であったとしても、親らしいことをしてもらったことがないような親であったとしても、その親があって今日の自分があり、そして今幸いにこの大聖人様の一閻浮提第一の正法に巡り会うことも出来たのでありますから、やはりそこには師匠の恩といわず、三宝の恩の恩といわず、一切衆生の恩といわず、父母の恩といわず、その深い報恩の気持ちを失って、そして自分のがりがりの我欲だけで祈っても、そういう偏ぱな祈りは、また叶うはずもないのであります。

それと信心は自分だけの心、自分の心に叶う、自分の心にそうことだけはやるけれども、一度自分の心にそぐわないことはやらない、気に入った時に、気に入ったように、気に入ったことだけをやる。そういう我がままな信心であってはいけないのであります。やはり自行化他にわたって、どこまでも大聖人様の御義に叶う信心をする。大聖人様の教えに叶った信心をして、本当に日蓮が弟子旦那として恥ずかしくない自分に日々成長していく。その過程において、大聖人様の御認可をいただいて、そして過去、現在、未来と、三世にわたっての命を改革するほどの大功徳をいただくことが出来るんだということを、深く心に固く信じていただきたいと思うのであります。

この御本尊が一閻浮提第一ならば、この功徳も又、一閻浮提第一だということを、しっかり心において、頑張っていっていただきたいということを申し上げて、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年五月十五日)