日蓮正宗のススメ

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正信による心の働きは強し

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正信による心の働きは強し

 皆さん、お早うございます。現代の社会を生きていくには、大人も子供も今は非常にストレスの多い時代と言われております。何がしかのストレスに人間は打勝っていかなければ、今日のこの五濁爛漫の世の中、厳しい世の中を生きていくことは出来ないという風に言われおります。大聖人様の御書の中にも、

 「身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり」(全一二二〇)

という御指南がございます。どんなに若さを誇り、体の頑健を誇っておりましても、その人の心というものが脆弱であったり、臆病であったり致しますと、如何に才能や色々な技術を持っておる人であったとしても、その半分も活かすことが出来ないということをお説きになっていらっしゃるのでございます。やはり人間の命は、心と体の両方が相俟って、一つの命というものが、生命の働きというものが成立っているのでありますから、心が弱ければ又、身体の活動や機能も段々と弱って参ります。又、身体が病むと、心というものが病んでくるのも当然でございまして、心と身体というものは一体のものでございます。

 年末の闘争とか、或はボーナスのシーズンになったり致しますと、資本家側と労働者の組合の代表の方とが、賃金闘争と言いますか夜中に長時間をかけて、何回も何回も話合いを致しまして、ボーナスを査定したり、給与体系を定めていくという攻めぎ合いがよくあります。その時に攻められる資本家側の代表者と、攻める労働者側の代表者と、徹夜の交渉を経て、どちらが疲れるかと言いますと、どうしても攻められる方がストレスが大きい、負担が大きい、ですからそうした徹夜の交渉を通して非常に疲れます。ところが攻める方は、十円でも百円でも千円でも多くを獲得いたしますと、同じ徹夜の交渉を長時間、同じ場所にいて同じ時間を経過いたしましても、攻めた方が、勝った方がそうストレスは感じない、疲れないということがございます。

 これはどういうことかと言いますと、人間の体の中には、特に肝臓を中心と致しましてエピネフリンという一つの酵素が体の中で造られるのでございます。そのエピネフリンという酵素の働きは、人間の肺の機能だとか呼吸器であるとか、或は血液の循環であるとか、体の持っておるところの免疫の働きであるとか、そういう色々な活動を活性化して機能を促進させて、しかもその免疫を造っていく。そういう働きを司る酵素が、ストレスに打勝つ人に対して、楽しく積極的に生きている時に強く働く、あるいはは体の中でそういう酵素をより沢山に、造ることが出来ると言われているのであります。そんなこと言われても皆さんはピンとこないかも判りませんけれども、食事をなさって、口を通して食道から段々と食物が送られていきますと、胃の中で消化酵素やそういうものが自然と分泌されて、色々な消化の働きが促進されていきます。その時に、誰でも気がつくことは、怒って食べた場合と、泣きながら物を食べた場合と、こんな不味いものと言ってけちをつけて食べた場合と、そして一家がみんな、団欒のもとに穏やかな心で笑いながら食べた時と、同じ物を食べてもやはり胃の中の働きや、酵素の働きは、全然違うのです。そう言われてこそ何となく判るのですね。ですから人間は積極的に生きるか、消極的に生きるか、ある一つの目的を持って楽しく生きるか、嫌々生きるか、そのことによって心と体と、あるいはその体の中の色々な働き、色々な分泌物、そういう総てのものに関わってくるということを知らなければいけないのであります。特に積極的に生きて、しかもそこに信心を通して、大きなバックボーンを持ち、大きな広宣流布という目的を持ち、誓願を持って生きる人とそうでない人の働きというものは、自らそこに違ってくるのであります。

 そこを大聖人様は、どんなに身強き人であったとしても、心かいなければ多くの用も、又その働きは、どんなに才能があったとしても、力があったとしても、本来、我が身に具わっていても、そういう一切の働きが、信心のない人や、或は又、積極的に生きようとしない人や、希望をもって生きようと、立上がっていこうという志のない人には一切の働きがそこで止まってしまうということを教えていらっしゃるのであります。

 天台大師の『法華文句』という厖大な書物がありますが、その文句の中にも、

 「能生・能養・能成・能栄は法に過ぎたるは莫(な)し」(大正蔵三十四−一四三・C、全一四七四)

ということを言われております。人々が何事かを生み出そうとし、何事かを成し遂げようとし、何事かを達成しようとし、そして又栄えていく。能生というのは能く生み出す、能養というのは能く養う、能成というのは能く成し遂げる、能栄というのは能く栄える、やはりそこには正しい信心のもとに、又積極的なそうした希望を持って生きていく、常に前向きの、常に前進していく、常に向上していく、そういう志をもって信心を通して、それを根本にして、生きていくか生きていかないかによって物事は大きな開きがある。大きく違ってくるということを知らなければいけないということを、天台大師も『文句』の中に教えていらっしゃるのであります。昔の人の言葉の中にも「万能足りて一心足らず」というのがあります。どんなに才能が豊かであったとしても、力があったと言いましても、その人の心がなければ、心というのは、自分の一日の命の中に具わるところの、本当の純真な心、又そこから立上がっていく心、常に前進していくという心、それに総てのものに打勝っていこうという心、そういうものがなかったならば、又、人の痛みや、あるいは人の苦しみや、人の悩みや、そういうものを感ずる大きな慈悲の心というものがなかったならば、人間というものは、どんなに才能があったとしても、ある種の片輪でしかないということを昔の人も言っておるのであります。そこに私達の尊い信心を通して、自分の人生における一切の悩みや苦しみや、生老病死の一切に打勝っていく、そうした積極的な人間としての生きていく道があるのであります。

 変な話でございますけれども、先日、皆様方も御存知だと思いますが石原裕次郎さんという方が慶応病院でお亡くなりになりました。そのお隣の病室に、この正宗の信心を持った川端さんという私の知っている方のお父さんでありますが、同じ慶応病院で同じ時期に、実はお亡くなりになった人でございます。片一方の方は、その最期の最期まで娘さんが付添って、そして心の中で、又、本人の耳元でお父さんの呼吸に合せてお題目を唱えてあげた。そして本当に、最期の臨終まで自分の力でアイスクリームを食べたり、ジュースを頂いたりということが出来た。同じ肝臓癌で亡くなっても、片一方は何一つ最期の最期まで苦しむこともなく、穏やかに安祥として自分の命を全うすることが出来た。不幸にして裕次郎さんの方は最期の最期まで苦しんで、痛んで、わめいて呪って苦しみ続けた。やはり、どんなに有名人であっても、どんなに権力者であっても、どんなにお金があっても、その臨終というものは、人の最期というところに、その人の一生の値打ちが出てくるのであります。片一方の方は信心を通して同じ病でありながら、何一つ苦しまず悠然として最期の臨終を全う出来る。片一方は、そんなことを言っては悪いですけれども、苦しんで苦しんで七転八倒の苦しみの中で、正に地獄の形相として臨終を迎えている。そこに正しい信心を持った人と、そうでない人との違いが現れてくるのでございます。そこを良く考えて頂きたい。正宗の人は必ず病を、かつての持病を立派に克服して、一旦はそれを凌いで又、寿命を更に延ばして、そしてその臨終を安祥として迎えることが出来るという、そこに大きな違いがあるということを一つ々の実証を通して、良く考えて、良く観察していって頂きたいと思うのでございます。そこで慶応病院の先生が、あまりにも痛まない、あまりにも悠然と亡くなるものですから、その部分だけでも結構ですから、何とか病理解剖をさせて頂きたいということで解剖をしたそうであります。ところが、やはり生身の体でありますから、癌は癌、臓器は臓器として侵されていた、同じ様に病んでいながら、何故、片一方は安祥として何等痛まず、しかも自分の力で亡くなる直前まで、アイスクリ−ムを食べたり、ジュ−スを飲んだりということが出来るのか、結局、最後までお医者さんは判らない。これは正に不思議としか言えないとということを言われたそうであります。たった一人の臨終であっても、それほどの大きな違いが出るというところを、正宗の信心の、大聖人様の仏法の功徳の一つの実証として、皆様方の心の隅に置いて、しっかりとした、普段から信心を全うしていって頂きたいということを申上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年七月二十六日)