日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

"根拠病"という不信の病について・・・自分の我見に執着する人々

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科学は外道の現代版です。幸福とは何の関係もありません。

1 不信は外道への入り口

日蓮正宗の信仰から道を外れていくと、最終的に人は外道の穴に落ち込んでしまいます。

日蓮正宗の信徒は戒壇の大御本尊様と猊下様の血脈を信じ、毎日の勤行・唱題、各家庭の御本尊様への御給仕、寺院への参詣、折伏、御供養、総本山への御登山・・・を喜びの中で修行して、自然に成仏への道を歩んでいます。最期の時が来れば、日蓮正宗で葬儀を執行していただき、戒名を頂戴して後生善処の果報を得させていただくのです。

この道は決して楽な道ではないかもしれませんが、また、決して難行苦行でもありません。自分の心がけひとつで真っ当に歩んでいける道なのです。

成仏への道は一本道ですが、外道という迷いの道は幾千万もの道があり、幾億通りもの理屈が具わっている迷路です。一度道を踏み誤ると、なかなか正道へ戻ることはできなくなってしまいます。

 

2 根拠探しの旅の果ては・・・懈怠謗法

人間という生き物は自由を求める性質がありますが、その反面、自由には不安がつきまといます。信心の道から退転していく人は、なんらかの理由で自分の心に負い目を感じ、その言い訳を探すために日蓮正宗の信仰に根拠を求め始めます。

例えば勤行を例に考えてみます。

五座・三座の勤行を毎日続けることができない人がいるとします。

日蓮正宗の信徒であるならば、自分の修行が不完全であることを負い目に感じるでしょう。信心をしている家族から小言を言われるかもしれません。それでも、時間がある時はしっかりお勤めしようと努力していけば、それでよいわけですし、環境が良くなるよう御祈念していけばいいだけの話です。また、しっかりと五座・三座の勤行ができた日には、そのすがすがしい心を実感できますから、正しいものを忘れてしまうことはありません。

しかし、創価学会顕正会のように、凡夫の愚痴の心を基準に言い訳をはじめますと、いくらでも五座・三座の勤行をしなくてもいい理屈は見つかってきます。

「現代人の生活スタイルにはむいていない」

「宗門も勤行の形式に変遷がある」

「僧侶と在家の修行が同じというのは納得ができない」

「御書には十如是・自我偈でいいと書いてある」等々・・・

そして、最終的には自分たちで決めた形式の勤行を正式なものとしてしまい、一切、五座・三座の勤行をしなくなってしまいました。まあ、彼の者達は血脈が通ってきませんから、形式だけの問題ではありませんが。

これは、御供養・寺院参詣・登山・折伏、すべての修行に当てはまることだと思います。

3 憍慢"きょうまん”(驕り高ぶって正法を侮ること)は懐疑主義に転落する

インターネットを覗いてみますと、アンチ日蓮正宗・アンチ創価学会・アンチ顕正会という、アンチ系のサイトがにぎわっています。

アンチサイトの運営者は、基本、懐疑主義者の系譜に属しています。懐疑主義者は全てを疑います。誹謗しているのは、元の所属団体かもしれませんが、日蓮大聖人様の仏法への信心もなくしてしまっています。

そのようなアンチに共感を寄せる人々の数は多いのですが、その心の根底には現代の科学主義・客観主義による、憍慢の心が潜んでいます。

大聖人様の御悟りは、客観的な何かで実証などできません。

血脈の通った御本尊様に唱題し、境智冥合して実感するしか方法がないのです。

大聖人様の御内証とは、大聖人様ご自身のお言葉を借りれば以下のようになります。

「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、日蓮が所行は霊鷲山の禀承に介爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。(三大秘法禀承事)」

「第廿五建立御本尊等の事 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝巻下)」

釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す、其の後方便の諸の経教を捨てて正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕して其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸じ人一の法と名く一人が上の法なり、多人の綺えざる正しき文書を造つて慥かな御判の印あり三世諸仏の手継ぎの文書を釈迦仏より相伝せられし時に三千三百万億那由佗の国土の上の虚空の中に満ち塞がれる若干の菩薩達の頂を摩で尽して時を指して末法近来の我等衆生の為に慥かに此の由を説き聞かせて仏の譲状を以て末代の衆生に慥かに授与す可しと慇懃に三度まで同じ御語に説き給いしかば若干の菩薩達・各数を尽して躳を曲げ頭を低れ三度まで同じ言に各我も劣らじと事請を申し給いしかば仏・心安く思食して本覚の都に還えり給う、三世の諸仏の説法の儀式・作法には只同じ御言に時を指したる末代の譲状なれば只一向に後五百歳を指して此の妙法蓮華経を以て成仏す可き時なりと譲状の面に載せられたる手継ぎ証文なり。(三世諸仏総勘文教相廃立)」

上記のような御内証を、文献学や考証学で証明または反証できると勘違いしているのが、そもそもの心得違いの慢心なのです。

御本仏~釈尊~羅什訳法華経~天台・伝教~日蓮大聖人様=戒壇の大御本尊様~御歴代上人猊下様~御僧侶~我々信徒~と流れ通ってくる信心の血脈を、何らかの方法で客観的に確かめようというのは、心法ではなく外側の世界に中心を置く外法なのです。

穏健派はせいぜい相対主義者になり、極端な人々は懐疑主義から虚無主義に転落し、唯一正しい信仰に反発するだけで、建設的な考えや信仰は欠片すら形成できずに終わっているのです。

4 逸話や伝説を軽んずるなかれ

鳩摩羅什三蔵

私たちが朝夕に読誦する法華経鳩摩羅什が翻訳したものです。臨終を前に鳩摩羅什は、「私の翻訳に誤りのない証拠に、火葬したときに舌だけは焼けないで残るであろう」と言い遺し、実際にその通りになったことが「高僧傳」にあります。

梵名クマーラジーヴァ。三四四年~弘始十一年(四○九)。中国姚よう秦しん(後秦)代の訳経僧。鳩摩羅耆婆くまらぎば・鳩摩羅什くまらじゅう婆ばとも書き、羅什三蔵とも呼ばれる。童寿と訳す。父はインドの一国の宰相・鳩摩羅炎、母は亀き茲じ国王の妹・耆婆。七歳の時、母と共に出家し、諸国を遊歴して仏法を学び、国に帰って大乗仏教を弘めた。亀茲を攻略した中国の前秦ぜんしん王おう・符ふ堅けんに迎えられ中国へ行く途中、前秦が滅亡したため、前秦の将軍・呂光父子の保護を受けて涼州に留とどまった。その後、後秦王・姚興に迎えられて弘始三年(四○一)長安に入り、その保護の下に国師の待遇を得て、多くの訳経に従事した。その訳経数は出三蔵記集によると三五部二九四巻(開元釈教録によると七四部三八四巻)にのぼり、代表的なものに「妙法蓮華経」八巻などがある。その訳文は内容の秀抜と文体の簡潔とによって、後世まで重用された。羅什は死に際して、訳経の正しさを証明するため、我が身を焼いて、もし舌が焼けたなら、我が経を捨てよと遺言していた。そこで火葬にしたところ、予言どおり舌だけは焼けなかったと伝えられる。

「羅什三蔵の云はく、我漢土の一切経を見るに皆梵語ぼんごのごとくならず。いかでか此の事を顕はすべき。但し一つの大願あり。身を不浄になして妻を帯たいすべし。舌計り清浄になして仏法に妄語せじ。我死せば必ずやくべし。焼かん時、舌焼くるならば我が経をすてよと、常に高座こうざにしてと説かせ給ひしなり。上一人より下万民にいたるまで願して云はく、願はくは羅什三蔵より後に死せんと。終に死し給ひて後、焼きたてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ。御舌計り火中に青しょう蓮華生れんげおひて其の上にあり。五色の光明を放ちて夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給ひき。さてこそ一切の訳人の経々は軽くなりて羅什三蔵の訳し給へる経々、殊に法華経は漢土にはやすやすとひろまり候ひしか。」 『撰時抄』

日寛上人

「ああ面白きかな寂光の都は」(日寛上人伝30)との御言葉は、総本山大石寺第26世日寛上人が、今生での最後に述べられた御一声であります。
 その後、うがいをなされ大曼荼羅に向かわれて、合掌一心に題目を異口同音に唱えつつ、翌日の8月19日辰の刻(午前8時)半眼半口にして眠るごとく安祥として御遷化あそばされました。
 享保11年(1726)5月26日、法を第28世日詳上人に付嘱され、御遷化の1ヶ月前から日寛上人は、臨終を迎えられるまで用意周到に準備なさっておられた様子が、日寛上人第250遠忌に記念出版された『日寛上人伝』(昭和50年9月27日発行)の「出生より遷化までの大要」に記録されています。
 御遷化までの様子を紹介しますと、普段から好まれていた蕎麦にまつわる有名な話があります。『日寛上人伝』に、

「かの羅什三蔵の舌の焼けざりし故事にちなみ、いま日寛も一つ言い残すことあり、すなわち平生に好む蕎麦を臨終の時に食し唱題のうちに臨終すべし。この云う処若し後に当たらぬときは信ずるに足らざるも、若し違わざるときは日寛の語りし法門は宗祖大聖人の御意に寸分も異ならずと知るべし」(日寛上人伝17)

と仰せられたとのことであります。
 また五重塔建立発願と常唱堂建立完成をはじめ、8月1日には、お持ちの資具財物を悉く取り出され、一々に帳面に記され、また一つ一つに人別あて遺品わけの札をつけて、後々のことを綿密に処置なされました。
 その時に日寛上人は、

「丸はだか 露の身こそは 蓮の葉に をくもをかぬも 自由自在に」(日寛上人伝22)

と詠じられました。この詩歌は、丁度、蓮が咲き葉が生い茂る様子を御覧になっての詩歌と拝し奉ります。
 また日蓮大聖人の『崇峻天皇御書』に説かれた、

「人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。」(御書1173)

と仰せの人身の尊さを、詩歌に秘めて詠じられ「人身は持ちがたし、草の上の露」を「丸はだか露の身こそは蓮の葉」にと、蓮が咲く時期を鑑みられて、草の上の露を蓮の葉の上に代えられてとも拝します。
 その詩歌を読まれたのちに「君子は死して財を残さず」と語られました。
崇峻天皇御書』に、

「蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。」(御書1173)

と大聖人が仰せの文意を秘められて仰ったとも拝します。

 また御病中、日寛上人は納所に対して臨終の時には直ちに蕎麦を作るよう命ぜられ、それについての心得も銘記するよう仰せられて、納所は毎日蕎麦粉の準備をしておいたということです。
 その時に戯れのうたを二首詠まれました。

「ふるそばこ ぼうのごとくは いなに候 とがなきわれを 打やころさん」(日寛上人伝26)

と、また、

「ひきたての 糸のごとくの 蕎麦ぞよく 我が命をば つなぎとどむれ」(日寛上人伝27)

との詩歌であります。

 大聖人が『食物三徳御書』に、

「食には三つの徳あり。一には命をつぎ、二にはいろ(色)をまし、三には力をそ(添)う。」(御書1321)

と仰せのように、御存命中に日寛上人が好まれた食物である蕎麦への感謝を詠まれた詩歌と拝します。

 御遷化の一両日前に暇乞いの為に、袈裟衣を着けられ、寝所より駕籠に乗られ陸尺4人伴僧2名外履物取を従えて出で立たれ、初めに御堂にお詣りになられました。輿のまま堂の外陣まで担ぎ昇られ暫く読経唱題なされ、終って御廟所に参詣され、次に寿命坊(現蓮葉庵の前方)御隠居所の日宥上人より学頭寮の日詳上人の所へ寄られ、何れも輿の中より懇ろに暇を乞い寺中を下られました。市場村に出て日永上人の妹妙養日信尼に逢われて別れを告げられ、門前通りを大坊まで還られたとの記録があります。

 引きつづき番匠桶工に命じられ急いで葬式の具を造らしめ、その棺桶の蓋にみずから筆を執られて、

「 以桶代棺(桶を以て棺に代う)
 囲 空 為 桶(空を囲みて桶と為す)
 空 即 是 空(空は即ち是れ空)
 桶 即 是 仮(桶は即ち是れ仮)
 吾 在 其 中(吾れ其の中に在り)」

「死ぬるとは たがいひそめし くれ竹の 世々はふるとも いきとまる身を」(日寛上人伝28)

と御認めになられ、出棺の時が来たならばこの文を高声に読んでから蓋をしめ釘を打つよう云いおかれました。御歌の「いきとまる」とは、息とまる死と、生き留まる生とを同時に詠まれた死即生、生即死、生死常住との大覚を御教示あそばされた御意と拝します。
 大聖人が『持妙法華問答抄』に、

「出る息は入る息をまたず。何なる時節ありてか、毎自作是念の悲願を忘れ、何なる月日ありてか、無一不成仏の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是期する処の余命にはあらざるをや。総て過ぎにし方をかぞへて、年の積るをば知るといへども、今行末にをいて、一日片時も誰か命の数に入るべき。臨終已に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養に著して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下にかひなし。」(御書298)

と、御書に仰せの御意が秘められた、出棺時における所作と拝します。同時に当時の僧俗と、後生の日蓮正宗僧俗に対して、我慢偏執名聞利養に執着して信心を疎かにしないようにと、戒めの御教示と拝します。

 8月18日の深夜になり、命じて床の前に大曼荼羅を掛け奉り、香華燈明を捧げしめて侍者に「吾れ間もなく死すべし」と告げられ、臨終の大事に際して指示を細かくあそばされた後、料紙と硯を取り寄せられ末期の一偈一句をお書きになりました。

「本地水風(本地の水風)
 凡聖常同(凡聖常に同じ)
 境智互薫(境智互に薫じ)
 朗然臨終(朗然として終に臨む)」

「末の世に 咲くは色香は 及ばねど 種はむかしに 替らざりけり」(日寛上人伝29)

 書き終わると直ちに蕎麦を作るよう侍者に命じられて、七箸蕎麦を召し上がってにっこりと笑みを含まれ、後生善処となる「ああ面白きかな寂光の都は」との御言葉を残されて、御年62歳で御遷化あそばされました。

 最後に、8月は日寛上人との由緒ある月に相成ります。
 その理由は、日寛上人の御生誕が寛文5年(1665)8月7日、上野国前橋(群馬県)で御出生され、御遷化は享保11年(1726)8月19日であるからです。まさに8月は日寛上人の死即生、生即死、生死常住との因縁深き月と拝します。

 日寛上人の御威徳を拝してさらなる精進に努めましょう。 

新編妙法蓮華經并開結

新編妙法蓮華經并開結

 

 

日寛上人御書文段

日寛上人御書文段

 
六巻抄

六巻抄