気が付けばお盆が終わってた。
時期外れの盆休みが、今日と明日。
墓参は昨日、妻がしてくれた。
ありがとぉー!
塔婆供養は寺納で。
六柱建立させていただきました。
お寺様、ありがとぉーございます。
本来なら、参詣して、三師塔参詣して、墓を掃除して、墓前で読経唱題して、塔婆を立てる!
これが正式な盂蘭盆会法要&墓参。
今の仕事になってから、めっきり寺院参詣が減っている。
コロナになってさらに加速。
不信心者です。
でも、休みの日には五座三座の勤行に、しっかりと唱題行をさせて頂いております。
全然違うんだよね。
コンプリート出来た時は。
何が?って?
う~ん。
スカッとするんだよね。
気持ちが。
これが究極奥義、作法受得の本門戒であります。
応受持 持戒清潔にして作法受得の義なり。
斯経 三大秘法の中の本門戒。
是人於仏道 持戒の人、決定成仏是なり。
決定無有疑
受持即受戒なり。経に云はく、是を持戒と名づく。釈に云はく、持経即理戒に順ず。
中 持経の処即戒壇なり、法界道場云云。『上行所伝三大秘法口決』
それにもう一つ。
不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。『崇峻天皇御書』
有名な御金言ですね。短気の誡め。
「教主釈尊(御本仏大聖人)の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。」 はいろんな会通があります。
「忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是偏に過去の宿習なるか。( 最蓮房御返事)」とありますように、御本仏日蓮大聖人様の唱えられた本門の題目であり、法華経を身で読まれたお振舞であります。
しかし、人の宿業や因縁はさまざま。
論語のような道徳を学んで実践せよという意味ではないかと。
もちろん、大聖人様は儒教の教えを尊重されておりますが、末法の凡夫の正式な修行ではありません。
やはり、三大秘法の受持と修行になります。
それが作法受得。
マナー、礼儀作法、行儀作法のことです。
この正しい作法の実践が、「人の振る舞ひ」の最高峰ですよという教えなんです。
本門の本尊(大石寺末寺様から貸与された本尊)・本門の戒壇(御授戒を受けて、自宅の御仏壇に御本尊様を安置)・本門の題目(戒壇の大御本尊様を信じて唱える、南無妙法蓮華経)の三大秘法の修行が、即身成仏の姿と言われる所以です。
また、勤行・唱題には全ての修行が含まれている故に、総体の受持とされております。
参詣・登山・折伏・御供養などは、五種の妙行を敷衍して別体の受持とされております。
ですから、日蓮正宗の信徒であるならば、勤行唱題をして、その他の修行は力に応じてすればいいということになりまですから、私の塔婆供養も御本尊様を通じて、両親並びにご先祖様へ回向されたと思っております。
ただし、在家の最も大事な別体の修行は御供養であると思っております。
御僧侶にお寺を護っていただかなくてはなりません。
ここを外すと、本当に功徳が薄いです。
御僧侶は金銭目的の営利商売と誤解されないよう、滅多に御供養の話をされません。
葬儀ですらお金を請求しません。
だからこそ、御供養は大切ですし、望外の功徳が生じてくるのです。
多額の御供養を捻出できる人財になりたいものですね。
これら修行の総別を会通せられて日寛上人様は、以下のように御指南下されております。
観心本尊抄文段 上二九 末法今時の幼児は唯(ただ)仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟(しゅい)の観察を借らんや。
一 我等此の五字を受持すれば文。
此の文は正しく是れ受持即観心の義なり。是れ則ち「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし」の文の意なり。「我等」と言うは「我が滅度の後に於て」の末法の我等なり。即ち長行の「是の故に汝等、如来の滅後に於て」の文是れなり。
「受持」と言うは全く経文に同ず。即ち是れ観心なり。「此の五字」とは経文の「斯経」の両字、即ち是れ本尊なり。此の経文の「斯経」の二字は即ち長行の四句の要法なり。故に妙楽此の文を釈して云く「若能持と言うは四法を持つなり」と云云。宗祖の云う「名体宗用教の南無妙法蓮華経」の意なり。故に滅後末法の我等衆生、此の五字の本尊を受持するを即ち観心と名づくるなり。
問う、何ぞ受持を以て即ち観心と名づくるや。
答う、凡そ当家の意は唯信心口唱を以て即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱に当る。故に受持即観心と云うなり。
問う、何を以てか受持正しく信心口唱に当ることを知るを得んや。
答う、今謹んで経文を案ずるに、受持に二義あり。一には総体の受持、二には別体の受持なり。
総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。是れ則ち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。今経処々の「能く是の経を持たん」の文及び「受持無行余行徒然」の文の意、能く能く是れを思うべし。
二には別体の受持とは、即ち五種の妙行の中の第一の受持是れなり。「信力の故に受け、念力の故に持つ」「文を看るを読と為し、忘れざるを誦と為す」等是れなり。所以に結要付嘱の文に若し長行の中には別体に約して説く、故に「応当に一心に受持し、読誦し、解説し、書写し、説の如く修行すべし」と云うなり。是れ則ち要法五種の妙行なり。偈頌の中に至っては総体に約して説く、故に但「応に斯の経を受持すべし」と云うなり。是れ則ち宗祖の所謂「但受持の一行にして成仏すべし」とは是れなり。
然るに当抄の意、正しく偈の文に拠る。故に今「受持」とは即ち是れ偈の中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。
然るに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ち是れ受持が家の受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦なり。当に知るべし、受持が家の受持読誦は此れ即ち自行なり。今自行の観心を明かす故に但自行の辺を取るなり。解説書写は化他を面と為る故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写豈化他に非ずや。
亦復当に知るべし、此の文の中に四種の力用を明かすなり。謂く「我等受持」とは即ち是れ信力・行力なり。「此の五字」とは即ち是れ法力なり。「自然譲与」は豈仏力に非ずや。
所謂「信力」とは一向に唯此の本尊を信じ、此の本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台の所謂「但法性を信じて、其の諸を信ぜず」とは是れなり。
「行力」と云うは、日出すれば灯詮無し、雨降るに露は詮無し。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ち是れ「行力」なり。
「法力」と言うは、既に迹中化他の三世の諸仏の因果の功徳を以て、本地自行の妙法五字に具足す。故に此の本尊の力用、化功広大・利潤弘深なるは即ち是れ「法力」なり。
「仏力」と言うは、久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を「我本立誓願」の大悲力を以ての故に一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等此の本尊を受持すれば、自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆咸く我等が功徳と成し「如我等無異」の悟りを開かしめたもうは偏に是れ「仏力」なり。若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能く我等が観心を成ぜんや。大論の第一に云く「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死することを疑わざるが如く、衆生の善根も若し仏に値わざれば成を得るに由無し」等云云。(注 翳死:しぼみ枯れること)
今此の文を解して云く、華は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水無くんば則ち蓮華生ぜず、若し法力無くんば何ぞ信行を生ぜん。是の故に本尊を仰ぎ奉り法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずと雖も、若し日光を得ざれば則ち翳死疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転更に疑うべからず。蓮華の若し日光を得れば則ち必ず能く栄え敷くが如く、我等仏力を蒙れば則ち信行成就して速かに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児は唯仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟の観察を借らんや。
止観第五に云く「香城に骨を粉き、雪嶺に身を投ずるとも、亦何ぞ以て徳に報いるに足らん」等云云。又第一に云く「常啼は東に請い、善財は南に求め、葉王は手を焼き、普明は頭を刎ねらる。一日に三たび恒河沙に身を捨つるとも、尚一句の力を報ずる能わず。況や両肩に荷負すること百千万劫すとも寧ぞ仏法の恩を報いんをや」云云。之を思え、之を思え。