エセー Les Essais

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1111夜:不信心者の言い訳

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私の言い訳だって負けないぞ

気が付けばお盆が終わってた。
時期外れの盆休みが、今日と明日。
墓参は昨日、妻がしてくれた。
ありがとぉー!
塔婆供養は寺納で。
六柱建立させていただきました。
お寺様、ありがとぉーございます。

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本来なら、参詣して、三師塔参詣して、墓を掃除して、墓前で読経唱題して、塔婆を立てる!
これが正式な盂蘭盆会法要&墓参。
今の仕事になってから、めっきり寺院参詣が減っている。
コロナになってさらに加速。
不信心者です。
でも、休みの日には五座三座の勤行に、しっかりと唱題行をさせて頂いております。
全然違うんだよね。
コンプリート出来た時は。
何が?って?
う~ん。
スカッとするんだよね。
気持ちが。
これが究極奥義、作法受得の本門戒であります。

応受持    持戒清潔にして作法受得の義なり。
斯経     三大秘法の中の本門戒。
是人於仏道  持戒の人、決定成仏是なり。
決定無有疑
受持即受戒なり。経に云はく、是を持戒と名づく。釈に云はく、持経即理戒に順ず。
    中  持経の処即戒壇なり、法界道場云云。『上行所伝三大秘法口決』

それにもう一つ。

不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。『崇峻天皇御書』

有名な御金言ですね。短気の誡め。
「教主釈尊(御本仏大聖人)の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。」 はいろんな会通があります。
「忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是偏に過去の宿習なるか。( 最蓮房御返事)」とありますように、御本仏日蓮大聖人様の唱えられた本門の題目であり、法華経を身で読まれたお振舞であります。
しかし、人の宿業や因縁はさまざま。
論語のような道徳を学んで実践せよという意味ではないかと。
もちろん、大聖人様は儒教の教えを尊重されておりますが、末法の凡夫の正式な修行ではありません。
やはり、三大秘法の受持と修行になります。
それが作法受得。
マナー、礼儀作法、行儀作法のことです。
この正しい作法の実践が、「人の振る舞ひ」の最高峰ですよという教えなんです。
本門の本尊(大石寺末寺様から貸与された本尊)・本門の戒壇(御授戒を受けて、自宅の御仏壇に御本尊様を安置)・本門の題目(戒壇の大御本尊様を信じて唱える、南無妙法蓮華経)の三大秘法の修行が、即身成仏の姿と言われる所以です。
また、勤行・唱題には全ての修行が含まれている故に、総体の受持とされております。
参詣・登山・折伏・御供養などは、五種の妙行を敷衍して別体の受持とされております。
ですから、日蓮正宗の信徒であるならば、勤行唱題をして、その他の修行は力に応じてすればいいということになりまですから、私の塔婆供養も御本尊様を通じて、両親並びにご先祖様へ回向されたと思っております。
ただし、在家の最も大事な別体の修行は御供養であると思っております。
御僧侶にお寺を護っていただかなくてはなりません。
ここを外すと、本当に功徳が薄いです。
御僧侶は金銭目的の営利商売と誤解されないよう、滅多に御供養の話をされません。
葬儀ですらお金を請求しません。
だからこそ、御供養は大切ですし、望外の功徳が生じてくるのです。
多額の御供養を捻出できる人財になりたいものですね。
これら修行の総別を会通せられて日寛上人様は、以下のように御指南下されております。


観心本尊抄文段 上二九  末法今時の幼児は唯(ただ)仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力思惟(しゅい)の観察を借らんや。

一 我等の五字を受持すれば

此の文は正しく是れ受持即観心の義なり。是れすなわち「我が滅度の後において、まさの経を受持すべし」の文の意なり。「我等」と言うは「我が滅度の後に於て」の末法の我等なり。即ち長行の「の故になんだ如来の滅後に於て」の文是れなり。

「受持」と言うはまったく経文に同ず。即ち是れ観心なり。「此の五字」とは経文の「きょう」の両字、即ち是れ本尊なり。此の経文の「斯経」の二字は即ち長行の四句の要法なり。故にみょうらく此の文をしゃくして云く「にゃく能持のうじと言うは四法をたもつなり」と云云。宗祖の云う名体みょうたい宗用しゅうゆうきょうの南無妙法蓮華経」の意なり。故に滅後末法の我等衆生の五字の本尊を受持じゅじするを即ち観心と名づくるなり。

問う、何ぞ受持を以てすなわち観心と名づくるや。

答う、およそ当家の意はただ信心口唱を以て即ち観心と名づけ、而して受持とは正しく信心口唱にあたる。故に受持即観心と云うなり。

問う、何を以てか受持正しく信心口唱にあたることを知るを得んや。

答う、今つつしんで経文を案ずるに、受持に二義あり。一には総体の受持、二には別体べったいの受持なり。

総体の受持とは五種の妙行を総じて受持と名づくるなり。是れすなわち受持は五種の妙行に通じ、五種の妙行を総する故なり。今経処々しょしょの「く是の経をたもたん」の文及び「受持無行むぎょうぎょう徒然とねん」の文の意、く能く是れを思うべし。

二には別体の受持じゅじとは、即ち五種の妙行の中の第一の受持是れなり。「信力の故に受け、念力の故にたもつ」「文をるをどくと為し、忘れざるをじゅと為す」等是れなり。所以ゆえ結要けっちょう付嘱ふぞくの文に若し長行の中には別体に約して説く、故に「に一心に受持し、読誦し、解説げせつし、書写し、説の如く修行すべし」と云うなり。是れすなわち要法五種の妙行なり。偈頌げじゅの中にいたっては総体に約して説く、故にただ「応の経を受持すべし」と云うなり。是れすなわち宗祖の所謂いわゆるただ受持の一行にして成仏すべし」とは是れなり。

しかるに当抄の意、正しくの文にる。故に今「受持」とは即ち是れの中の総体の受持なり。故に五種の妙行に通じ、五種の妙行を総するなり。

しかるに今、受持正しく信心口唱に当るとは、信心は即ち是れ受持がいえの受持なり。口唱は即ち是れ受持が家の読誦どくじゅなり。当に知るべし、受持が家の受持読誦はれ即ち自行なり。いま自行の観心を明かす故にただ自行の辺を取るなり。解説げせつ書写しょしゃは化他を面とる故に之を論ぜず。解説は知んぬべし。本尊書写しょしゃあにに非ずや。

またまたまさに知るべし、此の文の中に四種の力用りきゆうを明かすなり。いわく「我等受持」とはすなわち是れ信力・行力なり。「此の五字」とは即ち是れ法力なり。「自然じねん譲与じょうよ」はあに仏力に非ずや。

所謂「信力」とは一向にただ此の本尊を信じ、此の本尊のほかには全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち「信力」と名づくるなり。天台てんだい所謂いわゆるただ法性を信じて、もろもろを信ぜず」とは是れなり。

「行力」と云うは、日すればともしびせん無し、雨降るに露は詮無し。今末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし。故に余事をまじえず、ただ南無妙法蓮華経と唱うるはすなわち是れ「行力」なり。

「法力」と言うは、既に迹中しゃくちゅうの三世の諸仏の因果の功徳を以て、本地自行の妙法五字にそくす。故に此の本尊の力用りきゆう、化功広大・利潤りにんじんなるは即ち是れ「法力」なり。

「仏力」と言うは、久遠くおん元初がんじょの自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足ぐそく円満の妙法五字を「本立ほんりゅう誓願せいがん」の大悲力を以ての故に一幅いっぷくの本尊に図顕し、末法幼稚ようちに授与する時、我等此の本尊を受持すれば、自然にの自行化他の因果の功徳をゆずり与え、皆ことごとく我等が功徳と成し「にょ我等がとう無異むい」の悟りを開かしめたもうはひとえに是れ「仏力」なり。若し仏力、法力に依らずんば何ぞく我等が観心を成ぜんや。大論の第一に云く「譬えば蓮華の水に在って、若し日光を得ざれば翳死えいしすることを疑わざるが如く、衆生善根ぜんこんも若し仏にわざればじょうを得るによし無し」等云云。(注 翳死えいし:しぼみ枯れること)

今此の文を解して云く、華は信力の如し。蓮は行力の如し。水は法力の如し。日は仏力の如し。まさに知るべし、蓮華は水にって生じ、我等が信力・行力は必ず法力にって生ずるなり。し水無くんばすなわち蓮華生ぜず、し法力無くんば何ぞ信行を生ぜん。是の故に本尊をあおたてまつり法力を祈るべし。水に依って蓮華を生ずといえども、若し日光を得ざれば則ち翳死えいし疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得ざれば信行退転さらに疑うべからず。蓮華のし日光を得れば則ち必ずく栄えくが如く、我等仏力をこうむれば則ち信行成就じょうじゅしてすみやかに菩提を得るなり。故に末法今時の幼児はただ仏力・法力に依って能く観心を成ず。何ぞ自力ゆいの観察を借らんや。

止観しかん第五に云く「こうじょうに骨をくだき、せつれいに身を投ずるとも、また何ぞ以て徳に報いるに足らん」等云云。又第一に云く「常啼じょうたいは東にい、ぜんざいは南に求め、葉王は手を焼き、みょうこうべねらる。一日に三たび恒河沙ごうがしゃに身を捨つるとも、なお一句の力を報ずるあたわず。いわんや両肩に荷負かぶすること百千万劫まんこうすともいずくんぞ仏法の恩をむくいんをや」云云。之を思え、之を思え。