日蓮正宗のススメ

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1191夜:日興上人・遺戒置文廿六箇条[日達上人略解]

日興上人・遺戒置文廿六箇条[日達上人略解]

【日達上人・序】

宗祖日蓮大聖人滅後七百年、その門下は既に大聖人の仏法の正鵠を失ない、乱雑なる信仰と分派を形成している中に、独り我が日蓮正宗は大聖人の化法に於て化儀に於て、一糸の乱れもなく厳然として、そのまま正法を今日まで伝持して居ることは、実に二祖日興上人が大聖人に随身給仕して知らず知らずに大聖人の化儀を体得し、なお且つ大聖人の内証の御法門の付嘱を受け、それを厳格に師伝して金口嫡々に歴代の法主が相承して来た為めである。

日興上人は大聖人滅後七年にして、自ら別当たるべき身延山久遠寺を捨てざるを得なかった。その御心中は只だ大聖人の仏法を如何に正しく清く広宣流布の暁まで伝持するかにあったと推察申すのである。

そして富士に移られ大石の寺を建立し戒壇の大本尊を深く蔵して、広宣流布の時、富士戒壇の根拠とせられたのである。

そのことは宗祖大聖人の御本意であって、身延の御入山は大聖人の御本意ではない。「日本無雙の名山富士山に隠籠せんと欲すと雄も、檀那の請に依って今此の山に籠居す」云云(法華本門宗要抄)と仰せられている。

ことに「本門寺の戒壇の勅を申し請うて戒壇を建んと欲せば、すべからく富士山に築くべし」云云と同じ以下に仰せられているから、常時に大聖人の御心のまま働かれた、日興上人であるから、上人は身延を捨てて富士に戒壇建立をはげまれたことが伺われるのである。

その後、日興上人は大石寺に九年在住せられて、永仁六年、北山に御影堂を移され此処に三十六年在住せられたのである。

日興上人は、大石寺戒壇の本拠としてそこに大本尊を安置し、弟子日目上人を置かれて之れを守護せしめ、自らは北山に更に檀林(学校)を設置して万年救護の為に弟子の教育に当られたのである。

さしも御壮健なる日興上人も晩年に及んだので、後々の為に元徳二年正月に犬石寺の番帳を定められ正慶元年に日目上人に大本尊を相伝大石寺管領せしめた。更に正慶二年一月十三日弟子等の為に遺戒置文二十六箇条を書き遺され、二月七日安祥として御入滅せられたのである。

此の嚢の二十六箇条によって大聖人御入滅より二祖日興上人御入滅に到る五十一年の間に大聖人門下の他の人々が如何に大聖人の仏法を破り、化儀を乱したかを知ることが出来ると同時に日興上人は如何に厳格に之れを守って後世に伝えられたかを知ることが出来るのである。

此の遺戒置文の御真書は北山本門寺に有ったことはたしかであるが今は現存せず、我が本山には日時上人の写本、日亨上人所蔵の天文五年八月保田の日我の写本、天文年中の日辰の写本等が現存している。今、遺戒置文を披見するのに、先ず最初に二十六箇条を定めた因縁を書かれ而して二十六箇条を条書きにしている。

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富士山は最勝(最も景色のよい)地
その御文を略解すると、

[序文]
夫れ以れば末法弘通の恵日は極悪謗法の闇を照し、久遠寿量の妙風は伽耶始成の権門を吹き払う、於戯仏法に値うこと希にして喩を曇華の正蕋に仮り類を浮木の穴に比せん、尚以て足らざるものか、爰に我等宿縁深厚なるに依て幸に此の経に遇い奉ることを得たり、随って後学の為に条目を筆端に染むる事、偏えに広宣流布の金言を仰がんが為なり。

久遠の本仏たる日蓮大聖人が五濁悪世の末法の人々を救済する為に、始成正覚の権身を捨てて此の世に出現せられ、誹謗正法の不信者を開悟せしめ、末法不相応の権宗・権門を破折し給うことは、恰も太陽が諸の闇を照し赫々と輝き、栴檀の涼風が憂悩の熱気を祓い清浄の大地を作るが如くである。

「諸仏世に興出したもうこと懸遠にして値遇すること難し」と方便品にある如く、人々が正法に値うことは例えば三千年に一度咲くと云う優曇華の花に遇いがたく、又一眼の亀の浮木に会って其の穴に入り身を温めることは出来がたいが、それよりもっと値いがたいのである。

我々は過去世の縁が深く且つ厚い為に幸にも此の宗祖大聖人の妙法蓮華経に遇い奉ることが出来たのであります。そこで後世の門弟の為に二十六箇の条書をつくりその拠るべき所を定めたのは、唯だ宗祖大聖人の末法広宣流布のお言葉を信ずる故である。との趣旨を前置せられ、次に箇条を定められたのである。今の所に喩を曇華の蕋(ハナシベリ)に仮りとあるは、此の蕋とは蕊(ずい)であって此処では、はなと訓みます。

[01]
一、富士の立義柳も先師の御払通に違せざる事。
日興上人の末葉は皆な富士門流で、大石寺北山本門寺小泉久遠寺、下条妙蓮寺、西山本門寺伊豆実成寺保田妙本寺、京都要法寺等の門末を云うのである。

此の富士門流の宗義は少しも大聖人の御弘通せられた御法門に相違してはならぬと定められているのであって、此の時代に於ては日興上人以外の五老僧系は既に謗法になって大聖人の御法門に違反して居ったことを知ることが出来る。

[02]
一、五人の立義一一に先師の御弘通に違する事。
大聖人の御相承を承けない、日昭、日朗、日向、日頂、日持の五人の門流の宗義は大聖人の御法門に違反して居ることを明確に示されたのである。

今は富士門流に於ても下条妙蓮寺、保田妙本寺西山本門寺大石寺に合流したが、四寺の系統はかえって五人の門流の謗法に流入したことは悲しむべきことである。

[03]
一、御抄何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者これあるべし、若し加様の悪侶出来せば親近すべからざる事。
大聖人の滅後五人は直ちに師敵対の心を起し、「大聖人の御書はないもので、たとい少々あっても在家の人の為に仮名字を以て仏法の因縁を粗示したにすぎないと称し、大聖人の御書を偽書として日興上人が御書を講義するのを毀謗して、事実ある所の御書を紙にすきかえしたり、又は火に焼いたり(富士一跡門徒存知事)などとした。

依って日興上人は御書の後世に於て絶無する事を恐れられて、取り敢えず御書十大部を集録せられたのである。之れ御書集録の最初である。此の様に御書を偽書と称する風習は彼等は今日でも同様で、自宗に不利な御書は偽書と称している。かような謗法者には親近してはならぬと定められたのである。与同罪を恐れる故である。

[04]
一、偽書を造って御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得べき書。
彼等五人の系統の人々は自分に都合の悪い御書は偽書と云いながら、今度は勝手に自分に都合のよい偽書を造って御書と偽称しているのである。その著名な例は日朗御譲状である。それには「迹に本無くんば本を顕すことを得ず、本に迹無ば何に依て迹を垂れん、本迹殊なりと雖も不思議一也」などと偽作して、大聖人の「本迹の相違は水火天地の違目なり云云、本迹を混合すれば水火を弁えざるものなり」云云、(治病大小権実違目九九六頁)の御金言に背いて本迹一致の修行する者で、実に彼等は城者破城の師子身中の虫と云うべきである。

[05]
一、謗法を呵責せずして遊戯雑談の化儀並に外書歌道を好むべからざる事。
末法折伏正意であるから、自己の遊戯雑談や外典の書や和歌や唄の趣味・娯楽等は後にして、第一に謗法を呵責しなければならない。

大聖人は「仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を着たる畜生なリ」(松野殿御返事)とお諌めになっている。広宣流布の時までは「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案せよ」云云(富木殿御書)又「行学の二道をはげみ候べし、行学絶えなば仏法はあるべからず」云云(諸法実相抄)等と特に御教訓になって居る。

[06]
一、檀那の社参物詣を禁ずべし、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ずべけんや返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己が義に非ず、経文御抄等に任す云云。
富士門流の信徒は神社、仏閣へ参詣をしてはいけない。又、信徒が見物と云ってもそれ等謗法の神社や仏閣へ参詣してはいけない。与同罪となるからである。

他宗の仏閣は勿論、謗法であるから、参詣しては堕地獄の根元であることは明白であるが神社もなぜいけないかと云うと大聖人は「此の国は謗法の土なれば守護の善神法味にうえて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く、仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費、民の嘆きにていらかを並べたる計り也。是れ私の言にあらず経文にこれあり習ふべし」云々。(新池御書)と示されてある如く、魔縁の神社に参詣して魔に誑かされることは残念のことである。現今は神社は明らかに一宗派をなして居るので、本宗の信徒が他宗派へ参詣する謗法の愚を敢えてすべきではない。

[07]
一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し擱き御抄以下の諸の聖教を教学すぺき事。
才能ある弟子に対しては、師匠は自分に仕える用事を許して十分に習学すべき時間を与えて、御書その他の教学を勉強せしめなければならない。

大聖人は「仏法を習い極めんとおもはば、いとまあらずば叶うべからず、いとまあらんとをもはば父母・師匠・国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまえへざらんほどは父母師匠等の心に随うべからず」云々。(報恩抄)と教えられて居るから、人の師となる者は大いに弟子教養に心掛けなければならない。

[08]
一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶うべからざる事。
学問が未だ十分完成しないのに名聞名利を思う僧は禿人トクニンであり、又狗犬の僧であって、日興上人の末弟となることは出来ない。

大聖人は「名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくうべき心なき人を食法餓鬼とて法を食う餓鬼と申すなり」云云。(四条金吾殿御書)とも又「末世には狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ結いて候なり、文の意は末世の僧・比丘尼は名聞名利に著し上には袈裟衣を着たれば、形は僧・.比丘尼に似たれども、内心には邪見の剣を提げ」云云。(松野殿御返事)等と名聞名利を厳重に諌められている。

[09]
一、予が後代の徒衆等権実を弁えざるの間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文すべき事。
日興上人の末弟たる者は、仏法の権教・実教の二教を明確に知り得ない間は、出世間法を極め報恩の大道を尽す為に、一時の父母師匠の恩愛を捨てて総本山に在勤して、大聖人の法門を勉強しなくてはならない。大聖人は「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母をすくはんがためなり」云々(開目抄)と教えられている。

[10]
一、義道の落居無くして天台の学文すべからざる事。
義道とは、すじみちの正しき道、即ち大聖人の仏法。落居とは成就せること。大聖人の仏法たる富士の宗義を十分に勉強してから天台の学文をすべきことを教えられたのである。

大聖人は立正観抄に「当世天台の教法を習学する輩、多く観心修行を貴で法華本迹二門を捨つ」云々。とある如く大聖人当時も即ち止観の明静に囚われ、大聖人の法門には人々は信じがたかったのである。しかも大聖人滅後五老僧は天台沙門と称して居る。「五人一同に云く日蓮聖人の法門は天台宗なり、仍って公所に捧ぐる状に云く天台沙門と云云(富士一跡門徒存知事)故に日興上人門流以外は天台化しているので、彼等は大聖人の末流と云えない。後世の学衆はどこまでも大聖人の法門を学習して、信念が確固となってから、その後に於て天台の学問をなすべきである。それ以外の学問は更にその後にすべきである。

[11]
一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して若し間あらば台家を聞くべき事。
大石寺門流は大聖人からの相伝の宗旨であるから、御書を十分に心に留め、その文底の法門は、歴代の法主が相承している法門の至極の理は師から教わり、かりにも己義をかまえてはならない。しかる後に天台の宗義聞くべきである。

此の箇条は前の箇条と同意であるが、要するに前条は総の義で此の条は別の義である。

[12]
一、論議講説等を好み自余を交ゆべからざる事。
大聖人の仏法をそのまま竪に論義し説法すべきであって、例えば神本説の如く学問研究などと称し自分勝手に説を立ててはならない、と諌められたのである。

後に日有上人は化儀抄に「一、当家には談義あるべからず、其の故は談義とは其文段を横に沙汰する故に智者の所作なリ、当宗は信の宗旨なる故に而るべからず、但竪に一宗の建立の様を一筋云ひ立るは説法なり、是をば当家にゆるすぺきなり愚者の聞く耳をるが故に云云」と明瞭に示されたのである。

[13]
一、未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事。
三大秘法の広宣流布は大聖人の御本懐で大聖人の末弟は唯だ身命を賭して折伏に従い広宣流布の大軍に加わるべきである。「法華経(南無妙法蓮華経)を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」云云(法華初心成仏抄)とあれば、末法の人々には強いて妙法蓮華経を説かなくてはならない。

大聖人は「身軽法重・死身弘法とのべて候ば身は軽ければ人は打ちはり悪むとも法は重ければ必ず弘まるべし」云云(乙御前御消息)と必ず広宣流布を示されているから大聖人の末弟たるもの力を尽くして妙法蓮華経を弘通しなければならない。

[14]
一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師たりと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致すべき事。
身軽法重・死身弘法の折伏の行者に対しては、設いその人の人格が余り感心出きなくても先輩諸師の如く敬わなくてはならない。

大聖人は「貴僧・高僧には依るべからず、賎しき者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし、是れ経文なり」云々(新池御書)と教えられて居る。又、日有上人化儀抄に「仏の行体をなす人は師範たりとも礼儀を致すべし」とある。

此処に日興上人が敢えて下劣の法師と云われ、法を重んじて人格を重要視しないのは末法は「人を原タズヌれば五濁の生」であるが故である。

[15]
一、弘通の法師に於ては下輩たりと雖も老僧の思いを為すべき事。
大聖人の仏法を弘める為に不自惜身命の人は、その法臘が少くて後輩であっても高僧老僧の如く敬わなくてはならない。

[16]
一、下劣の者たりと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とすべき事。
前前条の身軽法重の行者の条は信の法師を敬うべきを示し、前条の弘通の法師の条は行の法師を敬うべきを示し、是の条は学の法師を敬うべきことを示されたので、たとい下劣下賎の人でも自分より智が勝れ学問がある人は師匠と敬って学ばなければならない。

大聖人は「何に賎者イヤシキモノなりとも少し我より勝れて智慧ある人には此経のいはれを問い尋ね給うべし」云云(松野殿御
返事)と学者を敬いその人々について学問すべきことを教えられている。

[17]
一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して已義を構えば之を用うべからざる事。
時の貫主とは、その宗の頭、即ち現在の管長であり法主である。管長であるから宗門を運営するに当って、誰を採用し、任用してもよいのであるが、大聖人の仏法に違背して自分勝手な説を立て、しかも注意されても改めない人を用いてはならない。つまり、時の貫主の権限を示されているのである。

[18]
一、衆議たりと雄も仏法に相違有らば貫首之を擢くべき事。
この条は一般僧侶の横暴を誠められたのである。一般僧侶が協議して決定した事でも、もし大聖人の仏法に違背して居れば貫主は之の説を押し退けなければならない。今日の時代には一層大切なことであると思う。

[19]
衣の墨・黒くすべからざる事。
衣の色は太古に於て銅青色・.雑泥色・壊色との三色で、銅青色は銅から取り最上等の色で、壊色は木蘭の実をつぶして取った中等の色で、雑泥色はどぷに漬けた色で下等だが最も簡単に得られるのである。大聖人の御生活は常に御質素で、衣の色は雑泥色、今の薄墨色を用いられていたのである。昔は一般の僧侶も雑泥色(薄墨色)であった。

大聖人が常時薄墨色を用いられしことは四菩薩造立抄に「白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟衣一帖・鷲目一貫文給ぴ候」云々とある。之れは大聖人が薄墨染の衣を常に召して居られたから富木殿が供養したのである。又、総本山所蔵の鏡の御影は薄墨色の衣である。日興上人は後代の為に衣は墨黒(黒色)くすべからずと明らかに示されたので、我が門流に於ては宗祖大聖人の用いられたそのままの色たる薄墨の衣、白五条若しくは同色の袈裟である。

[20]
一、直綴ヂキトツを著すべからざる事。
直綴とは本宗以外で使用している僧侶の一般の衣で、単衣と裳モとを直ちにとぢつけ、腰より以下に襞をつけた衣である。衣としては派手である。我が正宗の衣は衣の裾に裳を付けてあって衣としては略であり、之れを裳付衣と云う。日有上人化儀鈔に一里とも他行の時は十徳を著べし裳付衣のままは然るべからざるなり、裳付衣は勤行の衣なるが故に」とある。

大聖人は「かちん(褐色)の直綴をだにも著つればうち慢じて」云云(新池御書)と述べられてあって、かちんは褐色で即ち木蘭色壊色のこと、この褐色の腰に裳をつけた立派な衣を著れば慢心を起すと申して直綴は賛沢とされたのである。本宗は折伏の宗なるが故に衣も袈裟も質素簡単のものを用いたのである。

[21]
一、謗法と同座すべからず与同罪を恐るべき事。
謗法を折伏する宗でありながら謗法と同座すれば、謗法を認めることとなるから与同罪を蒙るのである。同座は禁物である。世間には付経フギンと云うこともあるが、之れも謗法と同座の内に入るから慎むべきである。

[22]
一、謗法の供養を請くべからざる事。

謗法の施を受けることは同じ与同罪である。本宗に賽銭箱を置かないのは此の金言を守るが故である。しかし世間一般を通じて見るときに恩田・悲田の違はあるが、あくまで直接に謗法の施を受け、謗法に施すことは慎まなければならない。

[23]
一、刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す、但し出仕の時節は帯すべからざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許すべきかの事。

大聖人は立正安国論に涅槃経の御文を引いて「刀杖を持すと雖も我是等を説いて名けて持戒と曰わん、刀杖を持すと雖も命を断ずべからず」云云と説かれている。大聖人は常に珠数丸の名刀を御所持せられたと云われる。又北条弥源太からも太刀一振献ぜられて居った(此の太刀は大石寺に所蔵してあったが終戦の時米軍に納め現在所在不明)。

しかし刀の所持を許すも法要に出仕する時は持ってはいけない。但し一般の衆僧に於ては論外であると定められたのである。之の事は日有上人化儀抄に「出仕の時は太刀を一つ中間に持たすべし、折伏修業の化儀なる故なり。但礼盤ライハンに登る時、御霊供へ参る時は刀をぬいて傍に置くべきなり」云云とあつて此の点を明確に示されている。今は刀の所持は無いから此の条の心配はいらないことになる。

[24]
一、若輩たりと雖も高位の檀那より末座に居くべからざる事。
若僧、小僧でも大聖人の末弟として大法弘通の任にあるのであるから、高位名門の信者より下の座に居てはならない。若僧、小僧の中に一間浮提の座主日目上人の再誕が居るからである。

[25]
一、先師の如く予が化儀も聖僧たるべし、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと難も衆徒に差し置くべき事。
日興上人の日常の御振舞は大聖人の如く聖者の御振舞で決して本門の大戒を犯すことはないのであるが、後学の人々は、一門を率いる貫主でも或は学問僧でも、たとい時に依って不邪婬戒を犯しても、そのまま僧侶としてよろしいの意である。日興上人の慈悲の偉大なる所が躍如として居るではないか。

[26]
一、難問答に巧みの行者に於ては先師の如く賞翫すべき事。

折伏の宗なるが故に他の宗と常に問答することを覚悟しなくてはならない。それ故に難かしい問答に巧みの僧侶は大切に敬わなければならない。大聖人は日目上人が二十三才の時に、二階堂伊勢入道の子、伊勢法印と問答して之を破ったので「さればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出したれ」(御伝土代)と賞せられたと云うことである。現今に於ても難問答に巧みな人を尊重しなくてはならないと思うのである。

右の条目大略此の如し、万年救護の為に二十六箇条を置く、後代の学侶敢て疑惑を生ずること勿れ此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず、仍て定むる所の条条件の如し、
元弘三年(癸酉)正月十三日 日興

以上二十六箇条を書き置かれ、後書として末法万年救護のために二十六箇条を遺し置くので後代の学問する僧侶等疑い迷うことなく先師日蓮大聖人の教を教の如く師伝しなくてはならない。若し二十六箇条の内一箇条でも違犯する人は日興の末流ではない。依って右の如く各条を定め置くと結ばれて、元弘三年(正慶二年)癸酉正月十三日 日興と書き遺されたのである。

要するに此の遺戒置文は大聖人の御書に少しも違わず、日興上人が大聖人に如何に常随給仕せられて居ったか知ることが出来る。第一条の「富士の立義聊かも先師の御弘通に達せず」とある如く日興上人の御一生を通じて先師大聖人の仏法に少しも違背していないので、しかもその法灯を伝持し富士大石寺の門流(日蓮正宗)こそ大聖人の仏法を聊かも違背せず今日に相伝しているのである。