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石原慎太郎 〜 優しさが生んだ強さ

 

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1985.10.20 三里塚十字路決戦

 


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国際派日本人養成講座

人物探訪: 石原慎太郎 〜 優しさが生んだ強さ

すでに人気作家の地位を築いていた石原氏が、なぜ政治の道に足を踏み入れたのか。
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■1.強さと優しさと、どちらが本当の石原慎太郎氏なのか?

 石原慎太郎氏が逝去されました。石原氏の足跡で、強く心に残っていることが二つあります。

 一つは、2012年に尖閣列島を東京都が購入すると発表して、寄付金を募り、賛同する国民から10万件以上、15億円近い寄付を集めたこと。

 その2年前に中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりしたのを国民からひた隠しにし、なおかつその船長を釈放してしまう、という民主党政権の法も国際常識も、そして一国の体面も無視したやり方[JOG(701)]に比べて、石原氏の強いリーダーシップを感じました。同じように感じた人が多かったので、これだけの寄付が集まったのでしょう。

 もう一つは、東日本大震災で福島第1原発冷却のための放水作業を行って無事帰還した東京消防庁ハイパーレスキュー隊員139名の面前で深々と頭を下げ、涙声で「本当にありがとうございました。この国の運命を決めてくださった」と語った姿です。[TOKYO MX]

 当時、隊員らに出動を命じた消防総監はこう証言しています。「知事は決して『やれ』とは命令しなかった。『本当に大丈夫か、できるならやってくれ。頼む』と。隊員への気遣いを感じた」[産経、R040201]

 この時には、菅直人氏にまつわる舞台裏も語られています。

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だが、実は石原氏は首相官邸からの隊派遣要請をいったん断っている。菅氏に隊員を預けると、どんな危険で無謀な任務を強いられるか分からないと判断していたのだった。

このときは結局、菅政権では物事を動かせないとの事務方の相談を受けた安倍晋三元首相が、石原氏の長男である自民党石原伸晃幹事長(当時)を介して説得し、石原氏も最終的に派遣要請を受け入れた。[産経、R040203]
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 こういう点にも、石原氏の消防隊員たちを思う優しさを感じます。しかし、尖閣諸島を寄付金を募って東京都で買ってしまおうという強さと、隊員たちを心配する優しさとが、同じ人間のなかでどのように同居しているのか、が、もう一つ、ピンと来ませんでした。どちらが本当の石原氏なのか、と。


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■2.「殺された若い警官に世間の同情が向かぬという風潮は狂っている」

『国家なる幻影 わが政治への反幻想』には、もう一つ、石原氏の優しさがよくわかるエピソードが語られていました。昭和44(1969)年の学園紛争の頃です。

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日大での騒動で殉職した西条という若い巡査部長は建物と建物の間のわずか五十センチの通路を走り抜ける時、五階の屋上から落とされた、花壇を壊して作った煉瓦のついたままの重さ十キロのコンクリートブロックを、躓(つまづ)いて倒れた部下を助け起こそうと盾を外してかがんだ頭に受けて亡くなった。

 その近くの教室の黒板には、石の礫(つぶて)を警官に命中させた者には煙草一本、怪我させた者には五本、殺した者には一箱と書いてあったそうな。

 ある記事でそれを読んだ私には、新婚間もなく幼い乳飲み子を残して殺された若い警官に世間の同情が向かぬという風潮は狂っているとしか思えなかった。そこで当時警視庁にいた友人の佐々淳行氏に諮って、仲間の志も集め私が代表して西条巡査部長のお宅を見舞い、残された未亡人と幼い遺児の写真を添えて週刊誌の『女性自身』のグラビアとして掲載してもらった。

 当然世間の耳目は遺族たちに集まり同情の声も高まり、それが他の機動隊員の励みにもなった。そしてそれが引き金にもなって民間企業の有志たちが醵金(きょきん)し合っての『機動隊を励ます会』が発足し今日まで続いている。[石原H13、1497]
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 10キロのコンクリートブロックを警官の頭上に落とす過激派学生の冷酷さは、「どんな危険で無謀な任務を強いられるか分からない」菅直人元首相の非情さと、根は一緒です。左翼思想が人間に対する思いやりを失わせる、というのは、世界の共産主義国で例外なく起こっている人民虐殺からも明らかです。

「新婚間もなく幼い乳飲み子を残して殺された若い警官に世間の同情が向かぬという風潮」も、それだけ世の中が左翼思想に染まっていたからでしょう。


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■3.「働いている人間たちの努力を、国家のためなのだから使い捨てにしてもいい」!?

 このエピドードには、続きがあります。

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・・・ある時佐藤総理にそれら(伊勢注: 上記の警官へのお見舞い)の報告も兼ねて、見れば総理の代沢の私邸から官邸までの途中の淡島通り脇に、殉職した西条巡査部長の所属とは違うが第三機動隊の本部があるのだから、一度是非立ち寄って簡単でいいから国を代表して彼等を激励されてはどうかと献言してみた。

 前にも記したが総理は立ちどころにうなずいて、ついでに、「そんなことをなんで今まで誰もいってこなかったのだ」、むしろ急に不興そうだった。

 翌日すぐに佐藤総理は往路第三機動隊に立ち寄って隊員たちを激励感謝してくれた。すぐ後に佐々氏から電話が入り、
「あれはあなたからの献言と聞いたが、お陰で他の機動隊をももの凄く勇気づけました。心から感謝します」
 ということだった。[石原H13、1508]
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 優しい心を持っているからこそ、こういう事も気がつくのでしょう。このエピソードを、石原氏は次の言葉で締めくくっています。

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 機動隊員に限らず働いている人間たちの努力を、国家のためなのだから使い捨てにしてもいいというような認識がもしあるとするなら、それにのっとったいかなる手段方法も人間として生きている国民のどんな共感を得ることもありはしまい。[石原H13、1518]
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「働いている人間たちの努力を、国家のためなのだから使い捨てにしてもいい」どころか、反革命分子は殺してもよいとするのが、左翼思想の非人間性です。人情に厚い石原氏は、そういう思想、風潮を「狂っているとしか思えなかった」のです。


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■4.「自分の国家と民族の未来についての無関心さにショックを受けた」

 石原氏の政治家としての自伝とも言うべき『国家なる幻影』は、昭和41(1966)年当時、すでに「日本で一番高い原稿料を貰って流行作家」だった氏が、なぜ政治家の道に足を踏み入れたのたかを語るところから始まっています。

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 その年の暮れに、読売新聞からの依頼で、クリスマス休戦時のベトナムに取材に行くことになりました。「いずれにせよあの時あのベトナム行きの申し出を引き受けたことこそが、私にとってのことの始まりだった」[石原H13、68]
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 石原氏は、クリスマス休戦に入る前に、米軍のヘリで前線に出ました。まだ戦闘中で、石原氏の乗ったヘリも地上からの銃撃を受けましたが、無事でした。ヘリが目的地の町に近づくと、そこで思いがけない光景が見えてきました。

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鉄条網の張り巡らされた陣地のすぐ隣の小学校の庭で、女の先生の指揮で子供たちがバスケットボールに興じていた。ヘリの爆音に加えてすぐ脇からは殷々(いんいん)たる銃声が響いているのに、その一つ隣の校庭には一見平和で楽しい学園風景があるのだった。

 ヘリは子供たちの頭上をかすめるようにして舞い降りていったが、子供たちの誰も振り仰きもしなかった。・・・
ひとことにしていえばそれは、南ベトナムの大方の大衆国民のあの戦争に対する無関心さだった。[石原H13、125]
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 この無関心さは大衆国民だけでなく、迫り来る共産主義の非人間性を察知している知識人たちも共有していました。

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しかしそんな彼等の、何より大切なはずの自分の国家と民族の未来についての、もはや慨嘆を超えて強く装われた無関心さに私はショックを受けた。そしてこの国は近く間違いなく北側との戦いに敗れて共産化され、ベトナムとしては滅びるだろうと確信していた。[石原H13、266]
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 この確信は7年後の1973年、米軍の撤退により、現実のものとなりました。その結果、共産軍の支配を逃れようと、30万人とも言われるベトナム人ボートピープルとなって南シナ海に逃げ出し、その多くが海の藻屑となってしまいました。


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■5.「自分の国家と民族の未来についての無関心さ」は他人事ではなかった

 石原氏がベトナム人に見た「自分の国家と民族の未来についての無関心さ」は他人事ではありませんでした。「私はそこに私の故国日本との強い類似を見た気がした」のです。

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日本の現況に明らかに存在はしている瑕瑾(かきん)を声高に咎(とが)めて止まない手合いの数がますます増えて行った時、さらに下手をすればこの国が案外にもろくも躓いてしまう可能性は決してないとはいえないかも知れない、という気がしてならなかった。[石原H13、266]
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 そう思って過去を振り返ると、石原氏には思い当たることが多々ありました。たとえば、1960年の安保改訂のおりです。

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日本の代表的な作家たちが構成している文芸家協会の総会だか理事会で、当時の理事長の丹羽文雄丹羽文雄氏がその日の協議案件がすべて終わってしまったので、
「世間もあのことでいろいろ騒がしいようですから、我々もついでにここで安保反対の決議をしておきますか」
 ともちかけ、出席していた尾崎士郎氏と林房雄氏に反論され提案の論拠も説明出来ずに恥をさらして引っこめたなどという滑稽譚が他にいくつもあった。[石原H13、345]
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 こういう経験を振り返ると、ベトナムのように日本が「案外にもろくも躓いてしまう可能性」が胸を占めていきました。そして石原氏はこう思ったのです。

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そんな心配をするのならばそれを防ぐ手だてを自ら何も尽くさずにいられるものなのか、と自分を問いつめるように私は思うようになっていったのだ。[石原H13、420]
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 これが、政治の世界に足を踏み入れたきっかけでした。


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■6.子孫の運命への切実な情があるからこそ、卓越した戦略性も生み出されてくる

 日本人の「自分の国家と民族の未来についての無関心さ」の典型が、占領軍によって制定された日本国憲法をいつまでもそのまま抱いていた事だったでしょう。

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なぜこの国、そして日本人はここまでおかしくなってしまったか。それは根本的なこと、もっとも肝心な問題から目を逸らし続けてきたからです。
 その最たるものが、占領軍によって押し付けられた、醜い日本語で綴られた日本国憲法にほかならない。[石原H30、1362]
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「醜い日本語で綴られた日本国憲法」とは、こういうことです。

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例えば多くの問題を含む九条を導き出すための前文『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した』という文言の「公正と信義に信頼して」の一行の助詞の『に』だがこれは日本語としての慣用からすればあくまで『を』でなくてはならず誰かに高額の金を貸す時に君に信頼して貸そうとは言わず君を信頼してのはずだろう。
さらに後段の『全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ』云々の『から』なる助詞は『から』ではなしに慣用としては「恐怖『を』免かれ」のはずだが英語の原文の前置詞がfromとなっているために『から』とされたに違いない。[石原H30、2186]
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 憲法と言えば、一国を運営していくための国民が取り決めた政治の根基です。そして、その精神を述べたのが前文です。その前文が外国人に書かれた外国語の訳文として、おかしな文章になっている。これをほとんどの人が気がつかない、気づいても問題にしない。ということは、誰も憲法など、真剣に読んでおらず、信じてもいない、ということでしょう。


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■7.日本の弱さは、子孫に対する切実な優しさがないから

 これこそ「自分の国家と民族の未来についての無関心さ」の現れです。こういう状態では、自国の戦争をアメリカ人任せにしてしまって滅びた南ベトナムと同様、「この国が案外にもろくも躓いてしまう可能性」も否定できません。

 自分たちの子孫に亡国の憂き目を見せてよいものか、という石原氏の優しさからくる切実な思いが、尖閣購入という捨て身のアイデアを生んだのでしょう。こう考えると、国民を切実に思う優しさがあるからこそ、行動面の強さも生み出されてくるのです。

 これをひっくり返すと、現在の対中外交などでの弱さは、我々自身の子孫への切実な優しさがないから、ということになります。我々の子孫に、ウイグルチベットの人々の悲劇を味あわてはならない、という切実な思いこそ、現在の日本人に必要なものではないでしょうか。
                                        (文責 伊勢雅臣)


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■リンク■

・JOG(701)ある海上保安官の「報国」
「一人の日本人が日本のために、当たり前のことをやるだけ」と一色正春海上保安官尖閣ビデオ公開を決意した。
http://blog.jog-net.jp/201106/article_1.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

TOKYO MX東日本大震災 都知事東京消防庁隊員らの活動たたえる」
https://youtu.be/J8stjJypbgI

石原慎太郎『わが政治への反回想 国家なる幻影 上』★★、文春文庫(kindle版)、H13
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00AEKDZRG/japanontheg01-22/

石原慎太郎『日本よ、完全自立を』★★★、文春新書(kindle版)、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B07JK8X1KW/japanontheg01-22/

産経新聞、R040201「リーダーシップの裏の繊細さ、純粋さ 石原氏死去」
https://www.sankei.com/article/20220201-P4UYN6JZENJW3P7BC2DD2WMUIU/?428448

産経新聞、R040203「福島苦しめる菅直人氏ら5元首相」
https://www.sankei.com/article/20220203-YGDSMWHHKJMIZGOSKQLSAILESU/?705276&KAKINMODAL=1


■前号『佐渡金山 〜 400年間掘り続けた職人たちの姿』へのおたより

■「命を削り燃やしながら生きてきた方々への畏敬の念を忘れてはならない」(裕子さん)

この度の「佐渡金山 〜 400年間掘り続けた職人たちの姿」を拝受し、とても感動しました。

これまで観光目的で数カ所の銀山や坑道を見学してきました。今は観光用として立って歩けるような広さがありますが、そうではなかった当時、ひんやりと冷たく暗く狭すぎる坑道に身をかがめて入られていった当時の方々はいったいどういう気持ちでいらしたのだろうかと身震いしました。

ある場所では「女性が背負って険しい山道を登った石の重さです。背負ってみましょう」という体験コーナーが設けてありました。
腰が抜けそうに重いのですが、それを何キロもある山道を行ったり来たりしていたというので衝撃を受けました。加えて男性はその倍を背負ったとありました。

私がこの時代、この場所に生まれていたら、肉体的な力と精神力を私は持ちえたのだろうか・・。
このように命を削り燃やしながら生きてきた方々への畏敬の念を忘れてはならないとその時も強く思いました。

そしてこの度、佐渡金山のことを先生のメールから学ばせていただき、新たな感動と発見がありました。
その時代に生き、働いてきた先人たちの営みの証拠がこの金山であり、そこに「職人たちの姿、その偉大性、困難性、勇気、闘志などなどいろいろなこと」を見出すことができる それが文化であり、私たちの生きる基盤となる財産なのですね。世界遺産とはそういうことなのですね!とても納得しました。

横槍が入りましたが、岸田首相が申請する決断を表明してくださったことは本当に嬉しいです!

先生の「こういう事なかれ主義が、どれほど韓国を増長させ、日本の国際的名誉を傷つけてきたのか、を理解する人が、政府、官僚、自民党内でも、ようやく大勢を占めてきたのなら嬉しいことです」の言葉にも希望を持ちました☆
子供たちに我が国の先人たちの生き様をぜひとも知ってもらいたい!!と強く思います。

ありがとうございました!!

■伊勢雅臣より

 掘り出した鉱石の運搬も、女性も含めて、人が背負って行っていたのですね。無数の人々の、400年にわたる苦労の結集を、思い起こすことが、世界遺産登録の意義ですね。


■修学旅行は世界遺産に(裕史さん)

今回の佐渡金山の件、歴史の授業でも名前は出てきた記憶はありますが、これ程の凄い遺跡でたったとは初めて知りました。
また、遺跡ではなく、昭和まで採掘されていたことからも遺産と呼ぶに相応しいと感じました。

昨今、修学旅行と言えば、海外が多いと聞いておりますが、この様な世界遺産を回るものを文部科学省と各自治体で上手く出来ないものか?と考えます。
(歴史教育が、年号の暗記の世代向けにGOTOトラベルと組み合わせる、またはふるさと納税世界遺産の日本ツアーを組み込み、座学と郷土料理をセットにする、など。)

コロナ禍ですぐには難しいかも知れませんが、地方創成に貢献できれば、それが新たな日本発見にも繋がるかと。

■伊勢雅臣

 佐渡金山のような場所が世界遺産となり、日本の中学生たちが修学旅行で訪れるようになったら、中学生も元気が出て、かつ地方も活き活きとしてきますね。日本を元気にする名案です。

 読者からのご意見をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいは以下のブログのコメント欄に記入ください。
http://blog.jog-net.jp/