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1125夜:初信者に語るべき絶妙なたとえ話とは?

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SNSで交流のある方にお聞きしました

とても上手いたとえだと思いましたね。
これは私が昭和世代だから特に刺さったのかもしれません。
私の生きてきた世界は、物心ついたころには、ほぼほぼ現在の社会的インフラは整備されておりました。
電気・水道・ガス、飛行機・電車・自家用車、カラーテレビ・ビデオカメラ・CD・ファックス・コピー機、実用化されておりました。
パソコンも小学生頃から出回り始めましたね。
それでも、大学生の時に携帯電話が普及し始め、新卒の頃がWindows95インパクト。
携帯でメールが送れるようになって、PCインターネットの普及にスマホの普及、時代遅れになりそうなほどの進歩を目で見てきました。
ヘーゲル弁証法が唱えるのところの、量が質を向上させ螺旋状に進歩していくという、人間理性の発展航路が現実化するさまを追認したような気持ちです。

setractionさんの譬喩の素晴らしさは、科学と宗教の違いの本質を表現しているんです。
科学というのはまさに、目に見えないものや触れることのできないものを、形にしていき手の届く存在に落とし込んでいくことだと思っています。
先にあるのはあくまでも仮説や理論。
それらの観念を実験データをとりながら、合っているか間違っているか検証し、間違いは修正しつつ応用技術で実用化していくのです。
一方、宗教は超現実の証明不可能な事象を信じ、儀礼することです。
超現実を感得する者は、覚者か預言者で異能の存在です。
知覚を共有することは不可能です。
ですからその作法を受得するわけです。
スマホで語るなら、プロバイダー*1と契約して、定められた使用方法を実践するということです。
宗教も科学も現代の日本人が偏見を持つほど、大きな隔たりはないのです。
人間の営みですから。
ユーザーと信者の違いは、その原点が試行錯誤の科学的検証にあるか、悟りや啓示にあるかということだけです。

私であれば御本仏日蓮大聖人様が、法華経身読によって顕現された御悟りの当体を、正統な作法(所作仏事)で受け継がれてきた、日蓮正宗が定めた修行形式(御本尊受持と勤行唱題、謗法厳誡*2)で礼拝しているということになります。
卑近な喩えをすると、またクレームが来そうですが、私はそのように理解しています。

 

*1:プロバイダーとは、回線をインターネットと繋げる役割を担う接続事業者のことです。スマホなら携帯会社が兼任しています。

*2:

 「謗法厳誡」とは、謗法を厳しく誡めるということです。本宗においては日興上人の身延離山に見られるように、古来、宗是として堅く持ち続けられてきた信条であります。
 宗祖御聖誕八百年の記念事業として、総本山三門は大改修され、新設された「大石寺縁起」には身延離山の理由について、
「日興上人は大聖人の『地頭の不法ならん時は我も住むまじ』との御遺言」(大白法 第1044号)
と認められており、謗法厳誡の御精神をうかがい知ることができます。「地頭の不法」の不法は謗法に該当します。地頭にかかわらず不法である謗法があれば、日蓮大聖人の御心にかなった精神はなく、功徳を積むこともできません。つまり、たとえ当宗の御本尊を受持されていても功徳が流れ通わない道理でもあります。
 御法主日如上人猊下の三門通り初(ぞ)めの後から、大改修された三門を通り謗法厳誡・山法山規を規範とした霊地・聖域である総本山大石寺の境内に参詣させていただくことが叶います。さらに奉安堂に御安置の本門戒壇の大御本尊を眼前に拝し奉るには、未入信等の方は謗法払いを済ませてから御授戒や勧誡を末寺に願い出て内拝を許されます。それにより富山の蘭室の友に交わることができます。

 今から六年前の平成二十七年(2015)三月八日は、第二祖日興上人の御生誕七百七十年をお迎え致しました。大改修された三門は、この六年間にわたる宗祖御聖誕八百年を奉迎させていただくための尊い日蓮正宗僧俗の結晶でもあり、コロナ禍が収束し、安心して登山参詣させていただく折に三門を通る時には、謗法厳誡の精神を堅持するために、以下の御教示を心肝に染めて通らせていただくことが大切であります。

 日蓮大聖人は謗法について『顕謗法抄』に、
「謗法とは法に背くという事なり」(御書286)
と、また『真言見聞』に、
「謗法とは謗仏謗僧なり」(御書608)
等と仰せのように、単に正法を謗ることだけではなく、正法を信じないこと、正法に背くこと、仏や僧侶を毀ることなど、下種三宝に背く信仰や思想、言動、行動のすべてが謗法になります。
 ゆえに『戒体即身成仏義』に、
「謗と云ふは但口を以て誹(そし)り、心を以て謗(そし)るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(御書10)
と御指南であります。

 日興上人は『日興遺誡置文』に、
「富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事」(御書1884)
と、大聖人の仏法に微塵も違背してはならないことを、広宣流布への根本精神として門下一同に示されております。
 そして、この御遺誡のままに、大聖人の仏法は血脈付法の御歴代上人によって今日まで厳正に護り伝えられています。

 謗法の罪は非常に重く、法華経『譬喩品』には、
「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば(中略)其の人命終して阿鼻獄に入らん」(法華経175)
と説かれ、『真言見聞』には、
「謗法は無量の五逆に過ぎたり」(御書609)
等と示されるように、五逆罪(父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身より血を出す・和合僧団を破る)にも勝る重罪であり、衆生の成仏の種子を断ずるだけでなく、地獄の因となります。
 また『阿仏房尼御前御返事』には、
「少しも謗法不信のとが(失)候はゞ、無間大城疑ひなかるべし(中略)なは(畷)て堅固なれども、蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたま(溜)らざるが如し」(御書906)
と御教示されています。
 この御教示は、たとえ正法である大聖人の仏法を信仰していても、同時に謗法を犯していたならば、必ず地獄に堕ちてしまうということです。
 なぜなら、田んぼの畷(なわて)に蟻(あり)が通るぐらいの穴が、たった一つ開いていても、そこから水が流れ出てしまって田んぼに水は溜(た)まりません。それと同様に、私たちがいかに正法の信仰をしていても、謗法という穴が開いていれば、せっかく積んだ功徳もすべて流れ出てしまうため、謗法は厳に誡めなければなりません。

 大聖人は『新池御書』に、
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし」(御書1458)
と仰せであります。仏法では、正法を誹謗する者に供養したり、その非を誡めることを怠れば、正法誹謗の者と同じ罪、即ち堕地獄の苦を受けることになります。
 具体的には、日蓮正宗の信心をしながら、他の宗教の本尊を祀ったり、お守りや神札を受けたり、あるいは他の宗教への寄付や布施をすることが、謗法与同罪を犯すことになります。
 したがって、謗法の罪の恐ろしさを肝に銘じ、謗法を厳に慎んで、妙法に余念なく帰依していくことが大切なのです。

 さらには、与同罪による堕地獄を恐れて、自ら折伏を実践することが大事です。
 『曽谷殿御返事』には、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(御書1040)
と示され、また『秋元御書』には、
「南岳大師の云はく『法華経の讐を見て呵責せざる者は謗法の者なり、無間地獄の上に堕ちん』と。見て申さぬ大智者は、無間の底に堕ちて彼の地獄の有らん限りは出づるべからず。日蓮此の禁めを恐るゝ故に、国中を責めて候程に、一度ならず流罪死罪に及びぬ」(御書1453)
と、大聖人は、たとえ弟子檀那であったとしても、謗法を見過ごして折伏を行じなければその罪は甚だ深く、無間地獄の存在する限り出獄することはできないであろうと仰せられ、大聖人御自身も折伏の動機の一つに、与同罪による堕獄への恐怖が存したことを機情に合わせて披露され、重ねて与同罪は恐るべき大罪であることを示されています。

 その他、『松野殿御返事』には、僧俗共に通じる謗法として、仏道修行を怠けたり、正信の僧侶や同志を恨んだり、悪口を言ったりするなど、正法を受持しながらも犯してしまいがちな「十四誹謗」が説かれています。私たちは、これらを日々、自身が誡めることも肝要です。

 したがって、一切の悪業の根本である謗法を自ら犯さないことはもちろん、進んで謗法を退治することが謗法厳誡の本義であり、真の平和な社会を実現する方途なのです。
 大聖人は『立正安国論』の最後の一文に、
「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(御書250)
と説かれています。

 総本山の三門を通らせていただく度に、以上の御指南を確認することが登山の時には非常に大事であります。法華講員八十万人体勢の一員に加えさせていただいた広布の精鋭は心がけるべき謗法厳誡の精神になります。なお、大石寺三門展が大石寺宝物殿にて開催されており、開館日時確認のうえ御覧になれます。

 さて、私たちは宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年の大佳節における法華講員八十万人体勢構築の御命題完遂にあたり、仏祖三宝尊の御加護と、御法主日如上人猊下の御威徳によることはもとより、微力ながら正林寺支部も異体同心・僧俗一致の折伏戦を展開させていただきました。同時に、今後の課題も多く発見することができました。その課題を克服しつつ、強靱な講中組織の構築を目指していくことが大事であります。
 課題の一端としては、特に折伏戦のために必要な武器であります。今後は折伏戦の武器を充実させた活動が、さらなる法華講員八十万人体勢を拡充するため必要不可欠となるでしょう。当支部の特色を活かした折伏戦のための武器を構築し、その武器を縦横無尽に使い熟せるように錬磨する道場が日蓮正宗寺院となります。その武器は、講員一人ひとりの長所を活かし異体同心・講中一結へとつなげるための武器であります。まさに「桜梅桃李の己が位己が体を改めずして無作の三身と開覚す」(御書1797)に通じます。
 武器とは、「弁舌を武器にする」という、何かをするための有力な手段となるものでの武器であり、身口意の三業にわたる振る舞いが武器となります。敵を攻撃したり自分を守ったりするための兵器や武具のことではありません。「武」は、戦って勝つ力がある。つよい。たけだけしいとの意。つまり、「仏法と申すは道理なり」(御書1179)との御指南から「仏法と申すは勝負をさきとし」(御書1175)との意味になります。「器」は、人物や能力などの大きさ。器量。その器には、覆・漏・汀・雑の四失を誡める意味も含まれます。
 御法主上人猊下の御指南を根本に、宗務院の方針のもとに錬磨拡充を構築することです。

 ここに平成二十一年より約十二年にわたる精進の功徳と歓喜をもって、謗法厳誡を宗是として広宣流布大願成就のため更なる勇猛精進を決意しましょう。