日蓮正宗のススメ

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総罰・別罰・顕罰・冥罰

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尖閣諸島が中国の海軍基地になる時は近い?

2020-08-06 | 御住職指導
正林寺御住職指導(R2.8月 第199号)

 

 人間社会での日常的な罰は、法律の下に罰則・罰金・刑罰などがあり、企業や学校においてもあります。時として罰は、秩序を維持するために必要となり、その時の社会情勢により罰則等は法改正などによって変動があります。現コロナ過では、早急な法改正が求められているところもあります。
 また各国にも法律があります。日本では合法なことでも海外では違法であったり、海外では合法なことが、日本では違法である場合もあります。事前に他国へ行く場合には、国情を知ることが大事であります。
 日本で生活する場合、日本の法律(ルール)に遵守して行けば、法令に触れることなく快適に生活していくことができます。ところが、法律を犯せば罪の軽重により罰せられます。不服な場合は、法廷で裁判になり諍うことにもなります。まさに、末法の様相である闘諍言頌(御書1019)・闘諍堅固(御書1400)であります。

 しかし、一切衆生を救済する仏法の観点から、宗祖日蓮大聖人は『南部六郎三郎殿御返事』に、
「末代の悪人等の成仏不成仏は、罪の軽重に依らず但此の経の信不信に任すべし。」(御書684)
と仰せであります。一見、相反するような印象を持ちますが、末法時代に生まれ合わせたすべての人を救済し、広宣流布を実現するためには当然のことであります。成仏不成仏は、法律を犯した罪の軽重には依らず、三大秘法の大御本尊への信不信に依ります。
 過去世からの因縁である本未有善の衆生は、誰もが草の上の露との人身の特徴があるために、時として良識的な智人善人も悪縁により「悪人に親近すれば」(御書586)、法律を犯しやすく三障四魔が必ず競う機根であります。今世犯した法律上の罪は、罪として法律により裁かれて罪を償いながら、同時に一生成仏を目指していくことを御指南である御書と拝します。
 時折、法律を犯す人が信仰している宗教は如何なものかとの批判を耳にすることがあります。入信以前の本未有善特有の習気と三障四魔が強く、その人自身の過去世からの罪障消滅のためには通過点として必ず通るべき転重軽受の道である定業です。さらなる懺悔滅罪の一念心を心肝に染めて一生成仏を堅持すべき境界にあります。
 大聖人は『星名五郎太郎殿御返事』に、
「凡(およ)そ仏法と云ふは、善悪の人をゑらばず、皆仏になすを以て最第一に定むべし。」(御書364)
と仰せであります。

 仏法の観点から罰は過去に原因があり、または今現在、罰につながる原因を作れば、その報いとして罰を受けます。罰につながる原因がなければ受けることはありません。つまり、因果応報によります。仏法の観点からの罰は法律という物差しでは測れない場合があります。法律には仏法的な罪と罰の要素は政教一致などの課題があり反映されていないでしょう。末法万年尽未来際での広宣流布の暁にはわかりませんが、実相として拝しゆくことを心得て行くべきです。
 大聖人は『聖人御難事』に、
「罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。」(御書1397)
と仰せであります。罰には四つの種類があります。それが「総罰・別罰・顕罰・冥罰」です。幸せな人生を過ごすためには、罰は受けたくないものであります。しかし、知らぬ間に罰(結果)につながる罪(原因)を作れば、未来に必ず罰を受けます。
 罰の現れ方も様々であり、期間も区々であります。直ちに現れる罰、明日以降、もしくは一週間後、一ヶ月後、一年後、十年後など、場合により命終後の順次生(次世)に、順後生(三生以後)に、罰が現れる時があります。
 その現れ方が「総罰・別罰・顕罰・冥罰」と大別されます。
 大聖人は『開目抄』に、
「順次生(じゅんじしょう)に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。」(御書571)
と仰せであり、仏法上では重罪とされる罰は、今世で現れず命終して未来世に罰が現れるケースがあります。そのケースの一端について、大聖人は『佐渡御書』に、
「一には『或は軽易(きょうい)せらる』、二には『或は形状醜陋(ぎょうじょうしゅうる)』、三には『衣服足(えぶくた)らず』、四には『飲食麁疎(おんじきそそ)』、五には『財を求むるに利あらず』、六には『貧賤の家に生まる』、七には『及び邪見の家』、八には『或は王難に遭(あ)ふ』等云云。此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。高山に登る者は必ず下(くだ)り、我人(ひと)を軽(かろ)しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳(ぎょうじょうたんごん)をそし(謗)れば醜陋(しゅうる)の報いを得。人の衣服飲食をうば(奪)へば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず。正法の家をそし(謗)れば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値(あ)ふ。是は常の因果の定まれる法なり。」(御書582)
と、順次生に現れる罰の現証を御指南であります。まさしく大聖人が『開目抄』に、
「心地観経に云はく『過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』」(御書571)
と、三世にわたる罰の存在を御指南であると拝します。さらに大聖人は『小乗大乗分別抄』に、
「世間の罪よりも、仏法の失に依って無間地獄に堕つる者数をしらず。」(御書709)
と仰せであります。また謗法者の未来世について、大聖人は『呵責謗法滅罪抄』に、
「謗法の者は多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生を受く。人間に生ずる時は貧窮下賤(びんぐげせん)等、白癩病等と見えたり。日蓮法華経の明鏡をも(以)て自身に引き向かへたるに都(すべ)てくもりなし。過去の謗法の我が身にある事疑ひなし。此の罪を今生に消さずば未来に争(いか)でか地獄の苦をば免(まぬか)るべき。」(御書711)
と仰せであります。

 総罰・別罰・顕罰・冥罰の意味

①総罰とは、すべての人々が受ける罰。

②別罰とは、個別に受ける罰。

③顕罰とは、明らかに顕れる罰。

④冥罰とは、冥々のうちに受ける罰。

 信心である仏道修行が必要な理由には、罰を受けないためと、罰を受けても乗り越えるために行います。そして、罰は何故起こるのか、罰はどうすれば回避できるのかを大聖人の仏法のもと信行学により探究し、実現するための大切なことであります。
 罰を受けないためには、罪障消滅を意識した御本尊への祈りと、罰を受けた場合は転重軽受による護法の功徳力を堅持することが大事であります。
 大聖人は『種々御振舞御書』に、
「今の世の人々は皆頭(こうべ)阿梨樹の枝のごとくにわ(割)れたれども、悪業ふかくしてしらざるなり。例せばてを(手負)いたる人の、或は酒にゑ(酔)ひ、或はねい(寝入)りぬれば、をぼえざるが如し。又頭破作七分と申すは或は心破作七分とも申して、頂(いただき)の皮の底にある骨のひヾた(狂)ぶるなり。死ぬる時はわるヽ事もあり。今の世の人々は去ぬる正嘉の大地震、文永の大彗星(すいせい)に皆頭われて候なり。其の頭のわれし時ぜひぜひ(喘息)やみ、五蔵の損ぜし時あかき(赤痢)腹をやみしなり。これは法華経の行者をそし(謗)りしゆへにあたりし罰とはし(知)らずや」(御書1071)
と仰せであります。仏法で説かれる罰は、邪宗邪義の害毒が起因した悪業が深すぎるために、理解できる人は稀であるとのことです。現実に、仏法で説かれるところの罰を折伏弘教で話した時に、悪業深き機根を目の当たりにし、様々な反応があります。実際に折伏させていただく時に誰もが必ず直面し、本未有善といわれる衆生折伏する時の道理であります。そのために逆縁成仏が説かれる理由もあるでしょう。
 以上の状況を折伏の時に直面した場合、御法主日如上人猊下の「令和二年 元旦勤行の砌」での御指南を思い出して頂きたいと存じます。
 御法主上人猊下は、
「世間では『縁なき衆生は度し難し』と言いますが、逆説的に言えば『縁を結べば度し易し』でありますから、折伏は根気よく、仏縁を結ぶことが大事でありまして、誠心誠意、心を込めて、根気よく妙法の広大無辺なる功徳を説き、慈悲の心をもって折伏を続けていけば、相手はやがて入信に至ることができるのであります。要するに、折伏は根気よく続けていくことが肝要なのであります。」(大日蓮 第888号 R2.2)
と御指南であります。末法の修行は、折伏を根気よく続けることであり、末法万年尽未来際まで続く修行であります。
 その続けていくことが「日蓮が一門は師子の吼ゆるなり」(御書1397)へと通じていくことを心肝に染めるべきであります。

 

宗祖日蓮大聖人『聖人御難事』に曰く、
「罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病(やくびょう)と大けかち(飢渇)とど(同)し(士)う(討)ちと他国よりせめらるゝは総ばち(罰)なり。やく(疫)びゃう(病)は冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばち(罰)なり。各々師子王の心を取り出だして、いかに人をど(嚇)すともを(怖)づる事なかれ。師子王は百獣にを(怖)ぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野(や)干(かん)のほ(吠)うるなり、日蓮が一門は師子の吼ゆるなり。」(御書1397)

 

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