エセー Les Essais

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宗教2世の疑問に答えて:あなたは、どの程度信じているのですか?きっかけは何でしたか?

宗教2世*1の方から、メールをいただきました。

私は、顕正会の2世です。母親が顕正会の信者で、子供の頃からビデオ放映や集会などに、連れていかれていました。高校生の頃には、友人を折伏するように言われて、10人以上の同級生や後輩を入会させました。現在は、30代になり、親とも離れて暮らしています。一時期はかなり信じていたつもりでしたが、今ではよくわかりません。あなたのブログを時々見ています。あなたは、人に宗教をすすめていますが、どの程度信じているのですか?信じるようになったきっかけは何でしたか?教えて欲しいです。(30代女性)

ありがとうございます。

質問がある方は、ブログのコメント欄でも、メールでも結構ですので御相談ください。

メールアドレス:porigin@yahoo.co.jp

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宗教の家庭に生まれることってつらいですよね。

質問者さん(仮にUさんとします)は顕正会2世だそうですが、創価2世でも法華講2世でも、どんな宗派であろうと、特定の宗教を信仰する家庭に生まれた人は、よく似た悩みを持っているものだと思います。

そして、悩める宗教2世の方への回答も、どの宗教であろうと同じようなものであろうかと推測できるわけです。

Uさんが、顕正会員のサイトではなく、私のサイトに質問を寄せて下さったのは、私の宗教サーフィン履歴に、顕正会が含まれているからでしょう。

私はUさんの御期待に沿えるかどうか自信はないですが、正直な気持ちの変遷を綴ってみたいと思います。

目次

 

1 偏った性格と社会生活の破綻 

私の出発点は創価2世ですが、今から振り返ってみると何の2世でも同じです。ここで言う2世は3世でも4世でもいいんですが、偏狂的な宗教信者の家に生まれ育つということです。

独善的な一神教ですんで、知らない間に性格が偏っていきます。

また、他人を間違いを犯している人々として見るようになりますから、独善的なゴーマニストになってしまいます。

いわゆる十界論でいう修羅ですね。

真面目に信仰を励む性格は、学業成績には良い効果を生み出すようで、学校の成績は良かったです。試験は得意でした。

しかし、子供の頃から協調性は乏しく、自分は特別な存在だと勘違いしていますから、学校であれ職場であれ、自分の容認できない他者との折り合いはつかなくなります。

どんな場所であれ、人間関係の軋轢が生じ、居場所がなくなる状況を繰り返しました。

2 世界の意味を問う衝動

一方で、私には幼いころから人生の意味を知りたいという、哲学的な欲求がありました。これは物心ついたころから持っていたもので、生まれる前はなんだったんだろう?死んだらどうなるんだろう?神様はいるんだろうか?生きる意味とはなんだろう?

答えの出ない形而上学的問いを抱き続けて、五十路の坂が見えるところまで来てしまいました。

哲学病ですね。

学生時代に哲学科に進学したことで、一生の課題になってしまったのです。

3 答えは見つかった

いきなり答えは見つかりました。

進学先の哲学科の教授が、ハイデガーの世界的研究者でしたので。

これも運命かも知れないな。。。そんな風に思っています。

存在と時間」を読みました。

  • 存在とは時間である。
  • 人間とは世界=内(心)=存在である。

これがハイデガーの結論です。

この哲学的直観の論証には、ハイデガー本人が挫折してしまって、未完の大著になってしまった「存在と時間」ですが、仏法が説いていることを哲学的に解明しようとして、失敗しただけのことです。

逆に言えば、信心もしてないのに、この直観を得たというのは、ハイデガーが天才であることの証拠でもあるのですが。

4 包括的唯心論

哲学の議論に唯心論と唯物論の論争があります。

心が先か物質が先か?という永遠の議論ですが、心が先なのです。

心の中に物質があるというのが、この世界の実相です。

そして個々人の心は、包括的一者の心が生み出した、部分的存在です。

ですから、お互いに存在し関係しあうことが可能なのです。

単に自分の心しか存在しないのであれば、自分の意のままにならない他者や環境はあり得ません。

ハイデガーユング心理学を知っていたかどうかは謎ですが、人間の心は他者の心とも、永遠の時間ともつながっています。

過去を思い出すことは出来ても、過去に行くことは出来ません。過去は戻るべき場所を持たないからです。場所というのは人間の心であって、現在という現象が生じている場が心なのです。

ですから、現存在という言葉で、人間一般ではなく人間個性を表現しています。

そして、取り換えのきかない固有の心が抱える全てを、実存というふうに呼ぶのです。

実存=意味と呼んでもよいでしょう。

つまり人生の意味とは、この個々人の心がそれぞれ特別な固有のものとして、心を生じさせていることにあるのです。

5 信仰心とは何か?

根源の心を希求する思い。

現時点では、私はそのように思っています。

仏様とは何かといえば、心の根源ではないかと。

この不可思議な世界の源流でしょうか?

日蓮正宗の教学を学ぶことで、その意味が自分なりに分かってくると思います。

たしかに、現世利益的なことも日常に感じることは多いです。

でも、信仰心の芯をそこに置くことは、的外れであるように思うのです。

境智冥合。

聞きなれた言葉かもしれませんが、仏様の心に自分の心を一体化していく。。。

これが信仰の根源だと思います。

6 私の好きな言葉

日寛上人様の法華取要抄文段、三七、に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止(ただ)唱題のみならんやというのがあります。
 

 第六  本門の題目を明かす 

 夫それ本門の題目とは即ち是れ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊ようけい、唯ただ此の事に在り。豈あに池に臨んで魚を観み、肯あえて網を結ばず、糧かてを裹つつみて足を束つかね、安座して行かざるべけんや。故に宜よろしく妙行を励むべき者なり。

当に知るべし、行に始終有り。謂いわく、信心は是れ唱題の始めなり。唱題は是れ信心の終りなり。是れ則ち刹那せつなの始終、一念の因果なり。妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。亦云く「一念信解とは即ち是これ本門立行の首はじめ」等云云。譬ひ喩ゆを以て之を言わば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光に趣おもむくなり。天台云く「智目ちもく行ぎょう足そくをもって清涼しょうりょう池ちに到いたる」等云云。

当体義抄に云く「当体蓮華を証得して常じょう寂光じゃっこうの当体の妙みょう理りを顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。
 此の一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染しみ、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色しき心しん何ぞ別ならんや。十界互ご具ぐ・百界千如せんにょ・一念三千・事行の南無妙法蓮華経是れなり。

当流深秘の血脈抄に云く「宗しゅうとは所作しょさの究竟くきょうなり、受持本因の所作に由よって口く唱しょうに本果の究竟を得」等云云。
 甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止ただ唱題のみならんや。若し他流の輩やからは口に妙法を唱うと雖も只ただ是れ宝山の空手なり。是れ即ち本門の本尊を信ぜざるが故なり。
 法蓮抄に云く「信な無くして此の経を行ぜんは手な無くして宝山に入り、足なくして千里の道を企くわだつるが如し」等云云。何いかに況んや本迹一致の大だい僻見びゃっけん、蓮師違背の大罪をや。何ぞ無間むけんを免まぬかれん。悲しむべし、悲しむべし。

赤い大きな文字の部分、ここが信心ということの意味を、みごとに表現された言葉だと思うのです。

日蓮正宗の御授戒を受けて、戒壇の大御本尊様を直接に拝し、寺院や自宅で御本尊様に向かって御題目を唱えていけば、仏様の心が染み込んでくるのが実感できます。

心で感じるほかないのが信仰心です。

当流深秘の血脈抄に云く「宗しゅうとは所作しょさの究竟くきょうなり、受持本因の所作に由よって口く唱しょうに本果の究竟を得」等云云。

宗教とは所作の究極の教えです。観念論ではありません。所作によってということは、口の業が身の業に及び、身の業が心に及ぶということです。

ですから、信じさせてくれと言われても、私にはあなたに信仰心を起こさせることはできません。

御本仏様でも、教え諭しただけでは、言うことを信じさせることができず、法難に遭われているのです。

求道心があるのであれば、根源を探しなさい。

顕正会の根源とは、戒壇の大御本尊様だったはずです。

異流儀の中では、一番、近い信仰を持っていたはずです。

しかし、受持本因はかなっていません。

本因とは戒壇の大御本尊様ですから。

御授戒も受けず、拝することも叶わず、血脈は流れ通ったことはないのです。

血脈とは仏の心のことです。

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お待ちしてます

 

*1:幼い時から家族が信仰する宗教の下で育てられた人のこと。