1024夜:御書耽読
今日は、久々に御書を読み耽ってしまいました。
気付けば深夜ですわ。
読めるときって、不思議なんですよ。
没頭できるんですよね。
なぜ没頭できたのか?
それは、やはり朝夕の勤行が充実していたということだと思います。
五座三座の勤行・唱題がベースですからね。
創価ダメ出しさんの記事も参考にしてください。
本日、拝読した御書は、「総在一念抄」「当体義抄」「三世諸仏総勘文教相廃立」です。
なぜ、この三つの御書を拝読しようと思ったのか?
自分で意図的に読んだのではありません。
導かれるように読んだのですが、読み終わってみると、「心」という言葉を鍵として、きれいに繋がっていたような気がするのです。
いや、勿論、御書は一つに繋がっているんですけどね。
ワンピース。
一つながりの財宝。
それは、戒壇の大御本尊様のことです。
一大秘法ですからね。
特に総勘文抄は奥が深くて、難解でした。
本抄は、弘安二年(西暦1279年)十月、日蓮大聖人が御歳58歳で身延において著されたものです。
御真筆が現存していないために、本抄成立の由来や御述作の経緯などは伝わっておらず、与えられた人についても不明です。
しかし、この弘安二年十月は、本門戒壇の大御本尊がまさに顕わされた時であり、世の中は、蒙古の襲来や熱原の法難など、まさに末法の様相を呈していた時期であるのです。
そこでこの御書において、釈迦牟尼仏の説いた法華経を始めとする、すべての教えが、末法では、白法隠没〔びゃくほうおんもつ〕して衆生を導く力がなくなり、ただ、末法の御本仏である日蓮大聖人の顕わされた三世諸仏の真実の悟りである、この本門戒壇の大御本尊によってこそ救われることを教えられているのです。
第三十一世日因上人は、この御書にある廃立とは、衆生の機根に応じて説く方便の教えを廃して、真実の仏の教えを立てることであると言われています。
つまりは、過去の遺物である何の力もなくなった邪宗を捨てて、ただしく、八百年にわたって日蓮正宗大石寺に厳護されて来た、この弘安二年に顕わされた本門戒壇の大御本尊を信じる事こそ、この御書の本意に適うことであるのです。
- 能く能く思惟すべし。波と云ひ泡と云ふも一水の所為なり、是は譬へなり。法に合せば、最初の一念展転して色報を成す、是を以て外に全く別に有るにあらず、心の全体が身体と成るなり。相構へて各別には意得べからず。譬へば是水の全体寒じて大小の氷となるが如し。仍って地獄の身と云ひて、洞然猛火の中の盛んなる焔となるも、乃至仏界の体と云ひて、色相荘厳の身となるも、只是一心の所作なり。之に依って悪を起こせば三悪の身を感じ、菩提心を発せば仏菩薩の身を感ずるなり。是を以て一心の業感の氷にとぢられて、十界とは別れたるなり。故に十界は源其の体一にして只是一心なり。(総在一念抄112㌻)
- 問うて云はく、一文不通の愚人南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。答ふ、文盲にして一字を覚悟せざる人も信を致して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先ず口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子むねの中に収めて必ず出離の人と成るなり。此の経の諸経に超過する事は誹謗すら尚逆縁と説く不軽軽毀の衆是なり。何に況んや信心を致す順縁の人をや。故に伝教大師云はく「信謗彼此決定成仏」等云云。(総在一念抄115㌻)
- 此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ。故に妙覚果満の如来と成り給ふなり。故に伝教大師云はく「一心の妙法蓮華とは因華果台倶時に増長する当体の蓮華なり。」(当体義抄695㌻)
- 是の故に心外無別法と云ふ。此を一切の法は皆是仏法なりと通達解了すと云ふなり。生と死と二つの理は生死の夢の理なり。妄想なり顛倒なり。本覚の寤を以て我が心性を糾さば、生ずべき始めも無きが故に、死すべき終はりも無し。既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども芥子も広からず、心法も縮まらず。虚空の中に満つれども虚空も広からず、心法も狭からず。善に背くを悪と云ひ、悪に背くを善と云ふ。故に心の外に善無く悪無し。此の善と悪とを離るゝを無記と云ふなり。善悪無記、此の外には心無く、心の外には法無きなり。(三世諸仏総勘文教相廃立1414㌻)
- 釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。其の後方便の諸の経教を捨てゝ正直の妙法蓮華経の五智の如来の種子の理を説き顕はして、其の中に四十二年の方便の諸経を丸かし納れて一仏乗と丸し、人一の法と名づく。(三世諸仏総勘文教相廃立1419㌻)
一念三千という言葉をよく耳にもしますし、口にもするのですが、なぜ本門戒壇の大御本尊様を信じてお題目を唱えることが大事なのか?
それは、自分の心を仏様の心と一つにするための作法だということなんですね。
名言集のような御書三篇でした。