宗教を熱心に信じるようになると、性格が悪くなるのはなぜだろうか?
今日のテーマは、宗教を信じると性格が悪くなる、ということについて考えてみようというものです。
なぜ、こんなことを断定的に語るのか、疑問に思う人も多いでしょう。
その理由について、簡単に説明しておきたいと思います。
きっかけは、今年の1月3日の新年勤行会に参詣したときのことです。
お寺で御供養の準備をしていたら、いつも明るく新来者や、葬儀時に参列している未入信遺族のお世話をしているおばさんが、私の目の前に来たのです。
私は、久しぶりに会ったので、「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。お久しぶりですね。」と、声を掛けました。
この時点で、もしも私に何らかの落ち度があると思われる方がおいででしたら、コメント欄にご意見をご記入ください。私には、未だ以て不明なものですから。
ここからはおばさんの返答です。私のほうを睨みつけ、眉間にしわを寄せて、「何?久しぶりなのはあなたでしょ?全然、お寺に来ないじゃない。前はよく来てたのに。奥さんも全然来てないでしょ?どうしたの?駄目じゃない。もう、信じられないわ。」との、いきなりの口撃に唖然。
私は、「いや、コロナでしたし、仕事もカレンダー通りじゃないので。。今日も、年末年始でやっと休みになったから。。。」と、自分の状況を話している途中に、おばさんは、大きなため息を吐き捨てながら、どっかに去ってしまいました。。
そんなのが周囲に何人かいます。
やれやれ。
そんな感想を持ったものです。
これは、創価学会・顕正会など、宗教やイデオロギーの種類を問わず、活動に熱心な人間とそうでない人間との温度差があれば、どこでも目にする、活動家あるあるだと思うのです。
でも、放置しておくのはよくないな。。。
そう思ったので、冷静に分析してみたいと思います。
で、その前に、私が想定する性格の悪い人の定義を示しておきましょう。
- 弱い者に強く強い者に弱い
- 人の話を聞かない
- 悪口と愚痴が多い
- 話し方が上から目線
- 秘密を守らない
- 「ありがとう」が言えない
- 嫉妬深い
- 自分の非を認められない
- 人の欠点ばかりを探す
こんなところでしょうか?
ほかにもあるでしょうが、私が創価・顕正・法華講で見たり感じたりした、うざい人の特徴は以上のような感じでした。
そして、このテーマが普遍性を持っていることについては、モンテーニュ・ドストエフスキー・ニーチェ・カミュなど、人間について深い思索を巡らせた思想家たちが、一様に疑問を呈しその答えを探求していることからも、信じる宗教や思想の種類によって変わるものではないことを教えてくれます。
「なぜ、正しいはずの宗教や思想を信奉しているはずの人が、他人に害をなすのか?」
法華講のおばちゃんは、人類共通の人間性に潜む深淵を垣間見せてくれたのです。
目次
1 道徳感情という怪物
人類は生存率を上げるため、言葉による<評判>を媒介とした協力関係システム<間接互恵性>を進化の過程で身に着けました。<間接互恵性>とは、助け合いの感情が進化の産物として、人間の無意識に植え付けられていることをいいます。
助け合いの感情は、利己心(生存欲求)が底にありますので、見返りを求めるのが前提になっています。つまり、助けてあげたのだから、助けてほしいというギブアンドテイクですね。ですから、自分だけ助けてもらって、人のことを助けない人間を悪とみなすようになります。
つまり、良きことをした者には報酬を、悪しきことをした者には罰を与えたいという欲求が高まり、そのために発達したのが<道徳感情>です。
<道徳感情>は<宗教感情>よりも進化の過程では古層に位置します。
進化の古層に位置しているということは、より強力で根源的な力を持っているということです。
2 宗教を脳内で生み出した理由
人間には<共感>や<道徳感情>が備わっているはずなのに、なぜかうまく行かないことも多い。それはどうしてなんでしょうか。<間接互恵性>は、ほとんどが見えないところで起るからです。
言葉の伝言ゲームによる<評判>のやり取りは、ただでさえ間違いが入りやすい。さらにその上に、意図的に嘘の情報を流す者までいます。自分の<評判>を実際よりも高めて、競争相手である他人の<評判>を実際よりも落とすためです。
そんな状況でも、誰が悪いことをやったか突き止めて罰を与えるため、人間は因果関係の推察能力が発達しました。
しかし、どれほど発達しようが、因果推察にはどうしても間違いが生じることになります。むしろ、<共感>や<道徳感情>によって因果関係の推論がゆがまされてしまうことさえあるのです。また、因果推察でズルをしている人間を知り得たとして、その悪人が狡知に長けた人物で権力や財力を保持していることも多いでしょう。
罰したいと思っても、思う側が非力では手の出しようもありません。
そこで生まれたのが、宗教の起源ではないだろうかと論じたのが、哲学者のニーチェだったのです。
ルサンチマン、いわゆる脳内復讐の感情です。
あんな奴は、きっと死んだら地獄に堕ちるに決まってるさ。
そう考えることで、<間接互恵性>の恩恵からはじかれた貧者は、自分を慰めることにしたのではないか?そのようにニーチェは考えたのです。
ニーチェの批判はキリスト教を中心に展開されますが、彼は、共産主義や民主主義などユートピア的な思想全般に矛先を向けていました。啓蒙主義時代の哲学者が理想を妄想した、全ての思想がターゲットとなっています。
この批判は的確であったため、ニーチェは現代においても重要な思想家として影響力を持っているのです。
3 本来の仏教は違うのですが
宗教を批判しまくったニーチェが唯一認めていたのが仏教でした。
おそらく欧米列強が植民地支配していたインドから、原始仏典などが持ち帰られ研究されていたからでしょう。ニーチェの思想は仏教的と言われますが、思想の下敷きに上座部仏教の影響が大きく見られます。
釈尊も大聖人様も輪廻からの解脱について言及されていますが、一方で名聞名利からの解脱についても同じくらい強調されています。
- 未だ焦種の者作仏すべしとは説かず。かゝる重病をたやすくいやすは、独り法華の良薬なり。只須く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこをたをし、忿りの杖をすてゝ偏に一乗に帰すべし。名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。 (持妙法華問答抄296㌻)
- 凡そ成仏とは、我が身を知るを仏に成るとは申すなり。我が身を知るとは、本よりの仏と知るを云ふなり。一切衆生螻蟻蚊虻まで生を受くる程のもの、身体は六根・六境・六識の十八界をもて組み立てたる身なり。此の衆生は五陰和合の身なり。釈に云はく「五陰和合を名づけて衆生と為す」と。此の五陰は十二因縁なる故なり。(十二因縁御書53㌻)
- 一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬ひしはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振る舞ひにて候けるぞ。穴賢穴賢。賢きを人と云ひ、はかなきを畜という。(崇峻天皇御書1174㌻)
まさに、 「汝自身を知れ」ですね。
「汝自身を知れ」という言葉は、デルフォイのアポロン神殿の入口に刻まれた格言で、ソクラテスの言葉として知られていますが、「我が身を知るを仏に成るとは申すなり。」ですよ。この言葉を知ったときは、「持った湯飲みをばったと落とし、小膝たたいてニッコリ笑う。」悟りの境地を実感いたしました。
そうだったんだぁぁぁぁ。
てね。
4 おばちゃんに対して思うこと
人間には自由意思は存在しません。
阿頼耶識(蔵識)に蓄えられた種子(業因)が縁に触れて、発動することで種々の欲求が生まれてくるのが、日々の思考の原理だからです。
つまり如是作です。
如是作を善用するために日蓮正宗の御本尊様に御題目を唱え、末法の禅定修行をしているのが末法の観心修業なのです。
寺に顔を出さない人を目にした瞬間→道徳感情が発動し罰したくなる。
これでは、情けない限りのお粗末様なんです。
ですが、私はこうやって分析できる人間ですから大丈夫です。
心配なのは、信心が薄い人にやってしまうこと。
もう、その人は二度ときません。
信心すらも捨てるかもしれません。
信頼関係がない人間に、余計な負の感情をぶつけないこと。
これは、宗教以前の常識です。
折伏を一生懸命やる一方で、他人を退転させてしまっては、仏様の手伝いと第六天の魔王の手伝いの両天秤担いでるみたいなもんです。
門内摂受*1です。
まずは、相手の話位は冷静に聞くことができる人間になりたいですね。
お互いに。