回答があったのはツィッターでした。
世界の片隅で生きてます(仮)さん(以後:片隅さん)のツィートを貼り付けさせていただきます。
①「五陰和合を名づけて衆生と為す」。「末那識(第七識)は常に第八識を縁じて、自我という錯覚を生じる。」衆生が死ねば「五陰」の「色・受・想・行・識」(たぶん第七識も)が夢散して残るのは第八識(阿頼耶識)。現世の自我である六識と七識は死とともに薄れて行きます。
— 世界の片隅で生きてます(仮) (@CoKumakuma) 2020年10月4日
②本体である八識は中有を経て、過去世の罪障の縁に従って来世の生を地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天に五陰を和合して現します。この生死の中間である中有を、人は「死後の世界」「魂」と勘違いをしています。現世の記憶は六識とともに消えて残るのは八識と罪障のみ。
— 世界の片隅で生きてます(仮) (@CoKumakuma) 2020年10月4日
③生命は、中有経て、必ず九界の何れかに生を受けています。生死という迷いがある状態では六界からは離れられないでしょう。極端な話をすれば死後の世界とは次の生まれ変わった姿。過去の記憶がない記憶喪失の状態で生まれ変わったと思えば理解しやすいかもしれません。
— 世界の片隅で生きてます(仮) (@CoKumakuma) 2020年10月4日
④来世に人として生まれるのは稀です。仮に生まれたとしても、今現在よりも境涯は悪くなっています。現在の罪障は八識に溜まります。当然人生一つ分罪障が増えています。謗法があれば更に膨大な罪障を積んでいます。罪障に塗れた八識の奥に「九識心王真如の都」があります。罪障の無い八識の姿が九識
— 世界の片隅で生きてます(仮) (@CoKumakuma) 2020年10月4日
そうですね。過去世については八識から神通力を以て見ること可能ですね。凡夫には無理ですが。過去世を感じる事が出来る人は若干通力をあるんでしょう。
— 世界の片隅で生きてます(仮) (@CoKumakuma) 2020年10月4日
⑤罪障を消滅して「九識心王真如の都」にたどり着くのは日蓮大聖人の三大秘法でしか叶いません。死して後の生命は迷いの九界と悟りの仏界の二つに分類されます。そこに日蓮正宗の葬儀や供養の意義があります。
— 世界の片隅で生きてます(仮) (@CoKumakuma) 2020年10月4日
片隅さん、丁寧かつ分かりやすい説明をくださって、心からお礼申し上げます。
ありがとうございました。
キタ━(゚∀゚)━!
インターネットで広がる仏法の輪!
ありがたい時代です。
今生きていて、必死でもがいているこの自分。実は錯覚なんですね。
でも、無意味な偶然の産物でもない。
ずっと続いていく神秘。
実存主義哲学者は、被投性という言葉で、この世にいきなり放り出されて来たかのように、人生の現世面のみを強調し様々な苦悩に沈みます。神がいないとしたら、倫理が崩壊し人生は無意味・無目的だと青ざめます。
無理やり人生の生き方を構築しようとしたのが、キルケゴール、ニーチェ、ドストエフスキー、ハイデガー、サルトルでしたが、いずれも人類を自力本願的に救済しようとして挫折しています。
自力では無理なんです。
私たちも無我を頭で理解しても、腹は減るし、スケベな心は出てくるし、激怒することや悲嘆にくれることからは逃れることはできません。
日蓮正宗の三大秘法を受持し、朝夕の勤行唱題を修行していくことでしか、阿頼耶識に埋蔵された業をクリーンにできないのです。
詳しいことは、
に譲りますが、生まれ変わりについて、思い出したエピソードがありましたので、ご紹介いたします。
二人とも、今世では人を殺したり、殺されたりという悲惨な人生を送らないよう、心から祈ります。
外国ですので、日蓮正宗に縁が薄いでしょうが、このブログを縁として二人に仏様の慈悲が届きますように。