創価学会の折伏大行進をモノマネしそこなった顕正会
昭和の新宗教の中でも最大、最強と言えるのは、創価学会であろう。公称800万世帯という巨大化の原点は、終戦直後に行われた“折伏大行進”にあった。
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昭和26年当時、2000~3000世帯だった信者が、6年後には75万世帯。この異常な拡大を支えたのが、第2代会長・戸田城聖の号令で行われた勧誘キャンペーン“折伏大行進”だ。当時の様子を語るのは、創価学会の元職員・原島昭氏。
「昭和26年に会長に就任した戸田は、自分が死ぬまでに75万世帯を達成するとの目標を掲げ、“達成できなかったら自分の葬儀はいらない。遺骨は品川の沖に流せ”という趣旨のことまで言っていました。また当時、創刊されたばかりの機関紙『聖教新聞』でも、戸田自身が書いていたと言われるコラム“寸鉄”で、信仰しても折伏しないのはびっこだなどと、口汚い言葉で信者を煽っていました」
入信直後の信者も折伏に駆り出される。座談会場には信者ごとの勧誘成績表が張り出され、聖教新聞には支部ごとの成績が掲載された。
「支部内では、自己目標を達成できないと、立ったまま目上の信者から延々と罵られ、座りこむと“立て!”と、さらに吊るし上げられる。保険会社が勧誘員にハッパをかける手法は、学会のやり方を真似たものと言われています」(同)
当時の学会では、日蓮正宗の寺院で御本尊を受け取ることで、入信したとみなされた。ノルマが達成できず困り果てたある信者は、友人信者同伴で、紹介者に連れられた新規入信者を装って寺に行き、日を置いて、今度は自分がその友人信者を折伏したと称して寺に連れて行くということも。信者が互いに二重入信することで、折伏成績を稼いでいたのである。
ある女性の元信者は、幼少時に母親に背負われて折伏に同行させられたという。
「母は毎朝、新聞をチェックして、不幸があった家をターゲットにする。行った先では、入信すれば病気が治る、貧乏から抜け出せるなどと言い、反発されると“罰(ばち)が当たるぞ”と言う。母が相手から罵られ塩をまかれているのを、今でも覚えています」
「スカーフをかぶって街頭に立ち、道行く男たちに“楽しいところ行かない?”などと声をかける。ところが連れて行く先は日蓮正宗の寺。当然、そういうことかとわかった時点で男は逃げていってしまう。実際に入信にこぎつけたケースはほとんどなかったようで、妹のその手口は長続きしませんでしたが」(原島氏)
ある地区部長の自宅は、いつも浮浪者でごったがえしていた。
「地区部長と地区員たちが上野の浮浪者を連れてくる。きれいな衣類を与えて床屋に行かせ、寺で御本尊を受けさせて入信させる。でも窮屈な勤行をさせるので、浮浪者たちは2、3日もすると御本尊を置いたまま、みんないなくなっちゃう。それでまた、地区部長らは上野まで浮浪者を探しに行く」(同)
こうした証言について、当の創価学会はこう語る。
「ご指摘のようなことは承知しておりません」
昭和32年、学会が目標の75万世帯獲得を達成し、折伏大行進は幕を閉じた。翌年、戸田が死去。池田大作氏が第3代会長に就き、昭和39年には宗教政党・公明党が創立された。強引な折伏は鳴りを潜めたものの、池田氏への個人崇拝が進む一方、言論出版妨害事件、盗聴事件などのスキャンダルが次々と噴出した。
創価学会が未だに世間から警戒心を解かれていない理由はここにある。
特集「雨後の筍『新興宗教』裏面史」より
上記のデイリー新潮の記事を、元顕正会員が読めば顕正会のことかと思ったのではないだろうか。
少なくとも、私が活動家だった新横浜時代(1992~1994)の頃の、男子部第3隊・第10隊・第5隊はそんなノリだった。学生だった私は、先輩会員が仕事で会合に遅れてきて、トミーに「いつまで仕事なんかやってんだよぅ。あぁ?」って叱られているのを見たことがある。
同時期の女子部も、記事と同じような女を使った呼び出しで、もてないクンを入会させていたな。
浮浪者みたいなのに声かけて、連れ出してたのを見たのは、長野で行われる男子部ナンチャッテ3万人大会に出席するために、一度新横浜に集合した時だった。2009年頃だったっけ。この大会の欺瞞性にホトホト呆れてしまって、動執生疑(どうしゅうしょうぎ)が起きました。
その頃から「あっつぁの顕正会体験記」を読み始め出したんですよ。
nichirendaihonin.hatenablog.com
私がネットでの声掛けを大切にしているのは、自分自身がネットから情報を得て、顕正会の間違いに気づくことが出来たからなんです。
王仏冥合を誤解していたことが原因だと思います。
日蓮正宗の見解はコチラ↓↓↓
大白法・平成17年6月16日刊(第671号より転載)教学用語解説(99)
王仏冥合の語源
「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、
王仏冥合とは
王仏冥合の王法とは、国王の施す法令や政治を意味しますが、
そして王法と仏法が冥合するということは、この両者が深いところで合一する、知らず知らずに一つになるという意味です。
まず、王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の教えと慈悲の精神に
次に、仏法が王法に合するというのは、仏法の教えと慈悲の精神が、仏法を持った人々のあらゆる社会での活動の場で現れ、仏法の精神が世間法に契合していく相をいうのです。
大聖人が、
「仏法やうやく
と示されるように、仏法と世法とは本来、一体であるが故に、正しい仏法を打ち立てることによってはじめて理想的な社会の姿が現れるのです。
深く合一するとは、生命の奥深いところで合一するということで、宗教としての仏法が直接政治に働きかける、いわゆる政教一致というものではありません。王仏冥合は、仏法が仏法の使命に生き、王法が、その理想実現に専心していくとき、結果として自然に冥合するということです。
つまり王仏冥合とは、御遺命の戒壇が建立される広宣流布の
大聖人の御在世当時は、戒壇建立を独自に行うということは不可能であり、
故に、ただ単に為政者のみが三大秘法を持てばよいのではなく、政治家を含めたあらゆる職業に従事する人々が皆一様に大聖人の弟子・信徒となり、三大秘法を持った時に、自ずと王仏冥合が実現されてくるのです。
戒壇建立の御遺命とその御聖意
さて、先の『三大秘法抄』の「勅宣並びに御教書を申し下して云云」の御文には、戒壇建立のための手続きと場所が述べられていますが、大聖人は過去の戒壇建立の歴史や当時の鎌倉幕府の政治状況から「勅宣」「御教書」と仰せられたのであり、この手続きは時代により変化し得るものです。
したがって、これらの御文をもって(この表現にとらわれ)、現時において御遺命の戒壇が「国立」でなければならないなどと
『三大秘法抄』や『一期弘法抄』に示された王仏冥合による戒壇建立の御遺命は、あくまで事相の問題であって、実際の相というものは、その時に至ってはじめて明確になるのですから、現在の私たちが軽々に未来を予測して論ずるべきものではなく、また現時点で限定できるものでもありません。ただ御仏意に任せ、時の御法主上人の御指南を拝していくことが肝要です。
『立正安国論』に、
「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土
と仰せのように、大聖人の御聖意は正法による民衆一人ひとりの救済と、国家の
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