日蓮正宗のススメ

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【苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ】  自受法楽の人生

【苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ】
 自受法楽の人生 

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 本日は、大聖人様の御書の中でも有名な『四条金吾殿御返事』、別名『衆生所遊楽御書』を元に、お話しをさせていただきます。

 一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽(ゆうらく)なきなり。経に云はく「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)」云云。此の文あに自受法楽(じじゅほうらく)にあらずや。衆生のうちに貴殿もれ給ふべきや。所とは一閻浮提(いちえんぶだい)なり。日本国は閻浮提の内なり。遊楽とは我等が色心依正(しきしんえしょう)ともに一念三千自受用身(じじゅゆうしん)の仏にあらずや。法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)とは是なり。たゞ世間の留難(るなん)来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。たゞ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。恐々謹言。
 建治二年 丙子(ひのえね) 六月二十七日  日蓮花 押
 四条金吾殿御返事(御書991頁)


四条金吾について】

 四条金吾の父は頼員(よりかず)といい、執権北条氏の一族に仕えていましたが、金吾の大聖人様への帰依の三年前、建長5年に没しています。
 母は妙心尼で、池上氏の娘と伝えられています。また兄弟は、四条金吾を入れて男四人、妹も複数いたといわれています。
 四条金吾の妻は日眼女で、その間に、月満御前と、経王御前の二人のお子様がいました。
 四条金吾は、江馬氏に仕えた武士で、武術に優れ、医学にも通じていたといわれています。
 性格ば非常に真面目で、入信以来、日蓮大聖人様をお慕いし、数々の御供養、外護をされ、特に竜の口法難の際には、決死の覚悟で刑場までお供をしたことは有名です。
 また四条金吾は、極楽寺良観の強盛な信者であった主君・江馬光時を折伏しました。
 その事によって、同僚から憎まれ、主君・江馬氏から冷遇され、苦境のどん底にあった時に賜ったのが、このお手紙です。
 大聖人様は四条金吾に対し、人生の真実の幸福は、妙法の信仰に生きることであると教え、激励されるのです。


【一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり】

 はじめに大聖人様は、あらゆる衆生は南無妙法蓮華経と唱えるよりほかに遊楽はないと仰せになられました。
 皆さんは「遊楽」と聞くと、楽しく遊ぶと書くので、趣味や遊びに興じると捉える方もいらっしゃるかも知れません。例えば、映画やコンサートや芝居を見に行く、また旅行やグルメなど様々な娯楽の中にも、確かに楽しみは存在します。
 けれどもその一番元として南無妙法蓮華経と唱える事が、本当の意味での遊楽であると御本仏大聖人様は言われるのです。

 この「遊楽」ということは「自我偈」に、
衆生所遊楽(衆生の遊楽する所なり)」
法華経 441頁)
とあります。
 遊び楽しみということは、心を本当にゆったりとさせて、本当の意味での安穏の心を成ずるということが遊楽ということなのです。
 ですから、趣味や娯楽における部分的な遊楽では、人生の喜怒哀楽は払拭(ふっしょく)できません。ところが南無妙法蓮華経の御題目を信心を持って徹底して唱えるときには、そういうものが一切無くなります。そして心の奥底、生命の一番奥底から来る安楽、遊楽があるのです。
 これは、雑念無く真剣にお題目を唱えれば、誰でも体感出来ます。そこで重要なのが、お題目を唱える姿勢です。
 御隠尊日顕上人は、
『勤行の姿勢において、手をひざの辺まで下げてしまっている人が時々いますが、きちんと胸の所で手を合わせる。手の指の方向は、御本尊様に向かっているのが一番いいと思います。そして、お題目を唱える時には「御本尊様がそのまま、この胸中に宿り給う」という気持ちをもって、真剣にお題目を唱えることです。すると、八識以下、特に六識等で過去からの業因(ごういん)によって癖(くせ)になっている色々な妄念・雑念が浄化されてきます。
 常に御本尊様を拝して、その尊い清浄な御当体が、そのまま身中の肉団に存在する故に、お題目を唱えるところに、三世を貫く真の安楽が積まれます。』(『妙法七字拝仰』下60頁)
と仰せです。
 また、五十九世堀日亨上人は、
「御題目の唱へ方は、身に油断・怠り無きよう、意に余念・雑念無きようにありたい。(略)身体中が歓喜(よろこび)で踊躍(ぞくぞく)するようにありたい。御本尊と吾等(われら)と一体不二に成るまで励まねばならぬ。」
(『日蓮正宗綱要』47頁)
と御指南くださっています。
 お題目を自分の胸中に取り込んで、命をお題目で洗うような感覚で、真剣に唱えるのです。
 一遍一遍のお題目を正確に発音し、真心から御本尊様にお題目をお供えするという気持ちが大切です。
 皆さんが本堂へ入ってお題目三唱をしている姿を拝見すると、その方の信仰状態が一発で分かります。「なみょれきょっ なみょれきょっ なみょれきょっ」と超特急でとりあえず唱える人、上着も脱がず小声で形だけ唱える人、厳(おごそ)かな所作でゆったりと朗々と唱える人など実に様々ですが、今述べた御指南を、それぞれがしっかりと身に体してください。


【経に云はく「衆生所遊楽」云云。此の文あに自受法楽にあらずや。】

 日蓮大聖人は『自我偈』に説かれる「衆生所遊楽」の文が、法を享受(きょうじゅ)して楽しむ「自受法楽」、すなわち自ら広大なる法楽を受け用(もち)いる自受用身の境地であることを示されています。
 すなわち「自受法楽」とは、法の楽しみを自らの身に受けることで、仏様の境界のことです。
 したがって、私たちも、「苦しみも楽しみも別の命の中にあるのではなく、一人ひとりの命の中にあるのだ」と知り、御本尊様にお題目を唱えることが成仏の境界である、と教えて下さるのです。


衆生のうちに貴殿もれ給ふべきや。所とは一閻浮提なり。日本国は閻浮提の内なり。遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや】

 そして、この文の「衆生」とは妙法を持つ末法の私たち凡夫であり、「所」とは日本国を含む一閻浮提すべての国土であり、「遊楽」とは私たち衆生の色心(しきしん)・依正(えしょう)が共に事の一念三千・自受用身の仏であると御教示です。
 これは、正しい法を中心として信心修行していくところに、その大きな功徳によって自他共に仏の境界に至り、色心二法の上に自受用身としての自受法楽の境界が顕れるということです。
 先ほど説明しました「自受用身」には、自由自在に法界のあらゆるものを受け用いていくところの仏という意味もあります。受け用いるとは、身体と心との関係、他の人や物と自己の関係において、障(さわ)りや滞(とどこお)りがなく、円満自在に自らの生命を最高に発揮することと言えます。
 つまり南無妙法蓮華経と唱えるところに我々の安楽の境界が生ずるのです。
 私達が生きていく上で、いろいろなことがありますが、それらはすべて迷いの世界の上からの業苦の内容と知るべきです。 
 しかし、それが南無妙法蓮華経を根本とした功徳から照らされてくると、それがそのまま全部、遊楽に変わってくるという意義があります。

 それで「我等が色心依正」とありますが「色心」とは、色は「肉体」であり、心は「こころ」であります。我々の生活は、肉体と心によって成り立っています。
 しかし、我々の生命は、ただ単に一つの存在として単独にあるわけではなく、必ずそれを取り巻く環境によって存在しています。
 つまり、それが正報の我々に対しての環境、つまり依報ということなのです。 
 したがって「依報」とは、我々が生活するために絶対に必要なあらゆる環境です。ですから、まず大きく国土世間が我々の依報になるわけです。 
さらに詳しく言うならば、我々の生活している一軒の家が、依報の一番小さなかたちであり、また直接的なかたちで存在しています。
 それから「正報」とは、過去からの業によって正しい報いとして現れている我々自身のことを言うのです。
 ですから、この「依正」とは「依報」と「正報」ということで、「正しい報い」と、その生活基盤として「依るところの報い」ということです。
つまり「色心依正」とは、大きい広がりを持った我々の生命生活全体を示されるのです。
衆生」(正報)とは、私たち妙法を持つ末法の凡夫であり、「所」(依報)とは、私たちが住んでいるこの町、日本国を含む一閻浮提すべての国土であり、「遊楽」とは依正の二報が、共に十界互具・一念三千・因果倶時で相通じているということです。

 そこが解らないから、環境・外界ばかりを考えて、風水師や占い師に頼ったり、「ここでは幸せになれないから」と転居してみたり、職場を安易に変えたりするのです。もちろん、そういうことも必要な場合もありますが、根本的には、自分自身のいのちの中にある仏界を涌現していけば、依報たる環境はついてくるのです。


法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。】

 この「法華経」とは、もちろん一部八巻二十八品の法華経という意味も含まれますが、末法においては基本として南無妙法蓮華経の御本尊を受け持ち、その御本尊に向かって唱える御題目のことを言うのであり、それよりほかに遊楽はないということであります。
 そして、「現世安穏・後生善処」とは法華経の『薬草喩品』という品の中に説かれていますが、一言で言えば、即身成仏の大功徳の事です。
 「現世安穏」の「現世」というのは、今我々が住んでいる世界のことで、これが「安穏」になるということです。
 今の世の中は、絶えず事件や事故や災害があります。最近では、小学生の女の子が無慙に殺されたり、高校生が登山部の部活動で雪崩に巻き込まれるという痛ましい事件が起きています。
 しかし、御題目をしっかり唱えて信心をしていれば、仮にそういう災難に巻き込まれる因縁を持っていたとしても、自然に免れていくという法界の深い意味があるのです。
 前にも言いましたが現在、ネパールの方の入信が相次いでいますが、爆発的な広がりを見せた淵源は、一昨年に起きたネパール地震で、法華講の方々が護られるという数々の功徳の体験があったからです。
 また「後生善処」も非常に大事です。現在は善くても、最期まで気は抜けません。「後生」とは、亡くなった後、善処へ至ることを言うのです。
 亡くなった後も、それで終わりではなく、様々な境界に行きます。善処があれば悪処も厳然とあるのです。「後生」が遊楽になるためには、お題目を唱えることが大切です。


【たゞ世間の留難来たるとも、とりあへ給ふべからず。賢人聖人も此の事はのがれず。】

「留難」とは阻(はば)まれるということで、つまり行おうとすることが阻止されるという意味です。
 自分が何か善いことを一生懸命やろうとしても、それを妨害したり意地悪くしたりする人が出て来ることがあります。
 そこで、そういう時にはどうしたらいいのか?そのことを、ここで大聖人様は御指南下さっています。
 すなわち「留難来るとも、とりあへ給ふべからず」と。
この「とりあへ給ふべからず」とは、関わり合うなということです。関わり合うなという意味は、そのようなことに対し、心の中で悩み苦しみに落ち込んで、その苦しみに執われるなということです。
 生きていく上では様々な難がありますから、一々そういうことに執われたらきりがありません。 
 どしても許せない、仕返しをしてやりたい、というようなことであっても、それに執われると、逆に自分の心に貪・瞋・癡が充満してしまいます。
 そして、それによってかえって、自分の信心も命も汚れ、苦しい状態に追い込まれてしまうわけです。
 ですから大聖人様は「留難が来ても、あえて苦しみに惑わされず、御題目を唱えていけば絶対に大丈夫だぞ」ということを、ここで仰せなのです。
 また、「賢人聖人も此の事はのがれず」と、どんなに賢い人でも、または聖人であったとしても、留難はあるのです。お釈迦様にも「九横(くおう)の大難」といって九つの様々な難がありましたし、大聖人様も命に及ぶ大難が多数ありました。
 ですから、様々な災難ということは誰人も逃れられないと仰せなのです。
【たゞ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて、南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。】

 自分が信心に立った時に、起こることが魔です。 その時に「今こそ、御本尊様を根本に人生を送って行くんだ」と思い切ると、嘆きや愚痴の命が浄化され、真実が見えてくるようになります。
 四条金吾は、時に短気で直情径行(ちょくじょうけいこう)の人でした。その性急な性格が言動に表れていたようで、大聖人様から何度も注意されています。
 特に、お酒好きの四条金吾殿に対して、
「かまえてかまへて御用心候べし。いよいよにくむ人々ねらひ候らん。御さかもり夜は一向に止め給へ。只女房と酒うち飲んで、なにの御不足あるべき。」(『主君耳入此法門免与同罪事』744頁)
との御書を与えられ、
「あなたは同僚から憎まれ、狙われているようだから、夜の酒宴を慎んで、ただ奥さんとだけお酒を飲んで、何の不足があるでしょう」
と、用心を促されております。
 そして、今回のお手紙では「たゞ女房と酒うちのみて、南無妙法蓮華経ととなへ給へ。」と、難が来た時こそ、女房と酒を飲み交わして、南無妙法蓮華経と唱えていきなさいと仰せられているのです。
 大聖人様は四条金吾へ、お題目を唱えて、泰然とした境地になるよう諭されるのです。

「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思ひ合はせて」と、日蓮大聖人様は仰せです。
 信心をしていても、我々は過去世からの宿業を持って生まれています。日常の生活の中では、嬉しいこと、悲しいこと、辛いこと、どうしようもなく行き詰まってしまうことは誰にでもあります。三世の生命観から物事をみてゆく場合には、自分の現在を誰にうらむでもなく、ここに自ら反省し自覚して正しい信仰を持つことが大切となるのです。

 世の中で、自分ほど惨めで、苦しんでいる人間はいないと思っても、どんな人にも必ず悩みはあるのです。また、例え今は幸せで悩みなど無いと言う人でも、生きている限り悩みは出てくるものです。
 そんな私達のありふれた毎日を「全部、私、日蓮がひきうけるから、どうか南無妙法蓮華経とずっと唱えて生き抜いていくんだよ。忍ぶべきは忍び、行うべきは行い、あるいは広宣流布の為に努力していけば、必ず良くなって行くからね。」と仰せ下さっているのです。
 四条金吾殿がそうであったように、私たちも、経済的に、また健康面、人間関係で、自分一人ではどうにもならない状況におちいることもあるでしょう。しかし、この御本尊を信じて、しっかりとお題目を唱えていくと、必ず変化(へんげ)の人が現れて、私たちは守られていくのです。。
 我々の人生に苦楽は付き物であります。辛い時も悲しい時も、嬉しい時も御本尊の前で妙法を唱えて、歩んでいく信心の歓びを、世の人々に広く伝える折伏を、今こそ行じていきましょう。