日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

大聖人様滅後の弟子・檀那はそれぞれどのようになったのか?(富木常忍)

sokadamedasi.blog27.fc2.com

私が読ませてもらっている、創価ダメ出しさんのブログに興味深い話が載っていました。以下、引用。

中山法華寺の「泣き銀杏」の話もあった。
凄くザックリいうと、日頂上人が大聖人の三回忌の法要に法論をしていた間に合わず、義父である富木日常に破門され生涯許されなかった。日常が許さなかったのは後世の弟子への戒め。
つまり「法論」と言う理由であっても、大聖人の法要に姿を見せないのは許されない。というお話。
お会式にはうってつけかつコテコテの話なんだけど、いたく感動しましたね~。
ただ一番の感動は、大聖人のご命日を弟子檀那が荘厳にお祝いする姿ですね。
「大作センセ~」みたいな気持ち悪いソレではなく、本当に心が晴れ晴れしました。
それに、ピンクとから黄色とか明らかににあっていない色のスーツを着たご婦人たちもいませんし、
全員が伸一カットの髪型の青年たちもいません(笑)

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中山法華寺

聞いたことはあるけれど、よくわからなかったので調べてみました。以下、引用。

法華経寺 - Wikipedia

法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれる。山号は正中山。日蓮(大聖人)の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めている。いわゆる中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。

歴史
日蓮(大聖人)はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、その際千葉氏に仕えていた富木常忍や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮(大聖人)を迎え入れ保護した。特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮(大聖人)のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮(大聖人)の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。

弘安5年(1282年)に日蓮(大聖人)が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法花寺と改め初代住持・常修院日常となり、日蓮(大聖人)の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。そして八幡庄の領主であり旧主である千葉胤貞の帰依を受け俗別当に迎え、胤貞猶子の日祐を3代目住持とした。

だが、肥前国小城郡においては胤貞の弟胤泰が九州千葉氏として存続したものの、下総国では敵対関係にあった貞胤流千葉氏が台頭し、胤貞流の千田氏は衰退して当寺も危機を迎えた。そのようななか、日祐は室町幕府との関係を強めこれを乗り切り、ここを拠点とする中山門流が成立することになった。

日高以来代々の住持は本妙寺と法花寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)古河公方足利晴氏より「諸法華宗之頂上」という称号が贈られ「法華経寺」という寺名が誕生し、法花寺と本妙寺の両寺を合わせた一つの寺院になった。

沿革
文応元年(1260年) 開基
昭和21年(1946年) 126世宇都宮日綱上人代に一部末寺と共に日蓮宗を離脱し「中山妙宗」を立ち上げる。
昭和47年(1972年) 132世武井日進上人代に日蓮宗に復帰する。

あちゃぁ~。富木常忍さんは、謗法のお寺の開基になってたんですね。

どうも法門の理解が正しくなかったようです。

本山で買った「教学歴史用語解説集」で調べてみますと、「真間釈迦仏御供養逐状」「四菩薩造立抄」「観心本尊得意抄」に、後の謗法の兆し(大黒天供養・釈迦像造立・四菩薩像造立・迹門不読)が読み取れると書かれておりました。中山法華経寺って鬼子母神信仰が有名ですものね。十界曼陀羅御本尊様の正しい意味が理解できてなかったんでしょう。

富木常忍さんほどの方でも、日興上人様と疎遠になってしまい、最期は悪しく敬う異流儀に堕ちているんですか。。。皮肉なことに「泣き銀杏」に出てくる、日頂上人は富士重須の日興上人様のもとに身を寄せたと記載されております。最期は重須談所で入寂とありますので、五老僧の中では一番マシだったのでは?詳しくは知りませんが。

大聖人様の仏法を正しく受持し続けることの難しさが、少しわかるような気がします。私も創価学会顕正会日蓮正宗と似て非なる信仰をしてしまいましたから。

真間釈迦仏御供養逐状 文永七年九月 四十九歳御作

 釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや、「欲令衆生開仏知見乃至然我実成仏已来」は是なり、但し仏の御開眼の御事はいそぎいそぎ伊よ房(日頂上人)をもてはたしまいらせさせ給い候へ、法華経一部御仏の御六根によみ入れまいらせて生身の教主釈尊になしまいらせてかへりて迎い入れまいらせさせ給へ、自身並に子にあらずばいかんがと存じ候、御所領の堂の事等は大進の阿闍梨がききて候、かへすがへすをがみ結縁しまいらせ候べし、いつぞや大黒を供養して候いし其後より世間なげかずしておはするか、此度は大海のしほの満つるがごとく月の満ずるが如く福きたり命ながく後生は霊山とおぼしめせ。
 九月二十六日 日 蓮花押
 進上 富木殿御返事

四菩薩造立抄 弘安二年五月 五十八歳御作

白小袖一・薄墨染衣一・同色の袈裟一帖・鵞目一貫文給び候、今に始めざる御志言を以て宣べがたし何れの日を期してか対面を遂げ心中の朦朧を申し披や。

 一御状に云く本門久成の教主釈尊を造り奉り脇士には久成地涌の四菩薩を造立し奉るべしと兼て聴聞仕り候いき、然れば聴聞の如くんば何の時かと云云、夫れ仏・世を去らせ給いて二千余年に成りぬ、其の間・月氏・漢土・日本国・一閻浮提の内に仏法の流布する事・僧は稲麻のごとく法は竹葦の如し、然るに・いまだ本門の教主釈尊並に本化の菩薩を造り奉りたる寺は一処も無し三朝の間に未だ聞かず、日本国に数万の寺寺を建立せし人人も本門の教主・脇士を造るべき事を知らず上宮太子・仏法最初の寺と号して四天王寺を造立せしかども阿弥陀仏を本尊として脇士には観音等・四天王を造り副えたり、伝教大師延暦寺を立て給うに中堂には東方の鵞王の相貌を造りて本尊として久成の教主・脇士をば建立し給はず、南京七大寺の中にも此の事を未だ聞かず田舎の寺寺以て爾なり、かたがた不審なりし間・法華経の文を拝見し奉りしかば其の旨顕然なり、末法・闘諍堅固の時にいたらずんば造るべからざる旨分明なり、正像に出世せし論師・人師の造らざりしは仏の禁を重んずる故なり、若し正法・像法の中に久成の教主釈尊・並びに脇士を造るならば夜中に日輪出で日中に月輪の出でたるが如くなるべし、末法に入つて始めの五百年に上行菩薩の出でさせ給いて造り給うべき故に正法・像法の四依の論師・人師は言にも出させ給はず、竜樹・天親こそ知らせ給いたりしかども口より外へ出させ給はず、天台智者大師も知らせ給いたりしかども迹化の菩薩の一分なれば一端は仰せ出させ給いたりしかども其の実義をば宣べ出させ給はず、但ねざめの枕に時鳥の一音を聞きしが如くにして夢のさめて止ぬるやうに弘め給い候ぬ、夫れより已外の人師はまして一言をも仰せ出し給う事なし、此等の論師・人師は霊山にして迹化の衆は末法に入らざらんに正像二千年の論師・人師は本門久成の教主釈尊並に久成の脇士・地涌上行等の四菩薩を影ほども申出すべからずと御禁ありし故ぞかし。
 今末法に入れば尤も仏の金言の如くんば造るべき時なれば本仏・本脇士造り奉るべき時なり、当時は其の時に相当れば地涌の菩薩やがて出でさせ給はんずらん、先ず其れ程に四菩薩を建立し奉るべし尤も今は然るべき時なりと云云、されば天台大師は後の五百歳遠く妙道に沾わんとしたひ、伝教大師は正像稍過ぎ已て末法太だ近きに有り法華一乗の機今正に是れ其の時なりと恋いさせ給う、日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり、是れ時の然らしむる故なりと思へば喜び身にあまり感涙押へ難く教主釈尊の御恩報じ奉り難し、恐らくは付法蔵の人人も日蓮には果報は劣らせ給いたり天台智者大師・伝教大師等も及び給うべからず最も四菩薩を建立すべき時なり云云、問うて云く四菩薩を造立すべき証文之れ有りや、答えて云く涌出品に云く「四の導師有り一をば上行と名け二をば無辺行と名け三をば浄行と名け四をば安立行と名く」等云云、問うて云く後五百歳に限るといへる経文之れ有りや、答えて云く薬王品に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して断絶せしむること無けん」等云云。
 一御状に云く大田方の人人一向に迹門に得道あるべからずと申され候由・其の聞え候と是は以ての外の謬なり、御得意候へ本・迹二門の浅深・勝劣・与奪・傍正は時と機とに依るべし、一代聖教を弘むべき時に三あり機もつて爾なり、仏滅後・正法の始の五百年は一向小乗・後の五百年は権大乗・像法一千年は法華経の迹門等なり、末法の始には一向に本門なり一向に本門の時なればとて迹門を捨つべきにあらず、法華経一部に於て前の十四品を捨つべき経文之れ無し本迹の所判は一代聖教を三重に配当する時・爾前・迹門は正法・像法或は末法は本門の弘まらせ給うべき時なり、今の時は正には本門・傍には迹門なり、迹門無得道と云つて迹門を捨てて一向本門に心を入れさせ給う人人はいまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ以ての外の僻見なり、私ならざる法門を僻案せん人は偏に天魔波旬の其の身に入り替りて人をして自身ともに無間大城に堕つべきにて候つたなしつたなし、此の法門は年来貴辺に申し含めたる様に人人にも披露あるべき者なり総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ、さだにも候はば釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし、其れさへ尚人人の御心中は量りがたし。
 一日行房死去の事不便に候、是にて法華経の文読み進らせて南無妙法蓮華経と唱へ進らせ願くは日行を釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山へ迎へ取らせ給へと申し上げ候いぬ、身の所労いまだきらきらしからず候間省略せしめ候、又又申す可く候、恐恐謹言。
 弘安二年五月十七日 日 蓮花押
 富木殿御返事

観心本尊得意抄 建治元年十一月 五十四歳御作

 鵞目一貫文厚綿の白小袖一つ筆十管墨五丁給び畢んぬ。
 身延山は知食如く冬は嵐はげしくふり積む雪は消えず極寒の処にて候間・昼夜の行法もはだうすにては堪え難く辛苦にて候に此の小袖を著ては思い有る可からず候なり、商那和修は付法蔵の第三の聖人なり、此の因位を仏説いて云く「乃往過去に病の比丘に衣を与うる故に生生・世世に不思議自在の衣を得たり」、今の御小袖は彼に似たり此の功徳は日蓮は之を知る可からず併ながら釈迦仏に任せ奉り畢んぬ。
 抑も今の御状に云く教信の御房・観心本尊抄の未得等の文字に付て迹門をよまじと疑心の候なる事・不相伝の僻見にて候か、去る文永年中に此の書の相伝は整足して貴辺に奉り候しが其の通りを以て御教訓有る可く候、所詮・在在・処処に迹門を捨てよと書きて候事は今我等が読む所の迹門にては候はず、叡山天台宗の過時の迹を破し候なり、設い天台伝教の如く法のままありとも今末法に至ては去年の暦の如し何に況や慈覚自り已来大小権実に迷いて大謗法に同じきをや、然る間・像法の時の利益も之無し増して末法に於けるをや。
 一北方の能化難じて云く爾前の経をば未顕真実と捨て乍ら安国論には爾前の経を引き文証とする事自語相違と不審の事・前前申せし如し、総じて一代聖教を大に分つて二と為す一には大綱二には網目なり、初の大綱とは成仏得道の教なり、成仏の教とは法華経なり、次に網目とは法華已前の諸経なり、彼の諸経等は不成仏の教なり、成仏得道の文言之を説くと雖も但名字のみ有て其の実義は法華に之有り、伝教大師の決権実論に云く「権智の所作は唯名のみ有て実義有ること無し」云云、但し権教に於ても成仏得道の外は説相空しかる可からず法華の為の網目なるが故に、所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり、其の上法華経にて実義有る可きを爾前の経にして名字計りののしる事全く法華の為なり、然る間尤も法華の証文となるべし。
 問う法華を大綱とする証如何、答う天台は当に知るべし此の経は唯如来説教の大綱を論じて網目を委細にせざるなりと、問う爾前を網目とする証如何、答う妙楽の云く「皮膚毛綵衆典に出在せり」云云、問う成仏は法華に限ると云う証如何、答う経に云く「唯一乗の法のみ有て二も無く亦三も無し」文問う爾前は法華の為との証如何答う経に云く「種種の道を示すと雖も仏乗の為なり」委細申し度く候と雖も心地違例して候程に省略せしめ候、恐恐謹言。
 十一月二十三日 日 蓮花押
 富木殿御返事
 帥殿の物語りしは下総に目連樹と云う木の候よし申し候し、其の木の根をほりて十両ばかり両方の切目には焼金を宛てて紙にあつく・つつみて風ひかぬ様にこしらへて大夫次郎が便宜に給び候べきよし御伝えあるべく候。

中山法華経寺のHPで「泣き銀杏」の話を拾いました。HPを見ると雑乱勧請の恐ろしさが伝わってきます。変なものを拝みまくり。

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泣き銀杏

法華経寺初代貫主日常聖人像とその子日頂上人ゆかり泣き公孫樹

泣き公孫樹縁起
黄金色に輝く泣き銀杏中山法華経寺泣き銀杏の碑
日蓮聖人(大聖人)がご遷化(亡くなられて)された2年後の弘安7年の10月13日の第3回忌の法要の折です。現在の東京都・池上 に、鎌倉の日朗さま、身延の日向さま、富士の日興さま、下総(千葉中山)の富木日常さま、そして上足の日昭さま等、全国よりお弟子さんたちは檀越(檀家や 信者)を連れて一同に会しました。しかし、日頂上人という方は一向に姿をあらわしません。このお上人は日蓮上人(大聖人)が特別に指導者として指名された6老僧のお 一人です。日頂さまの父でもある、中山(千葉県法華経寺)の日常上人は、日頂さまのご到着をいまかいまかとご心配でしたがとうとう定刻2時となり、法要が 始まってしまいました。

日頂さまは、鎌倉から法要に向かう途中、他宗と法論になっていたのです。法論は10日に始まり13日明け方ま で続きました。夜を徹しての法論、終に他宗の僧侶たちを説き伏せ、喜び勇んで池上にはせ参じました。しかし、時既に遅し、父日常の姿はなく、怒り心頭で池 上の地を離れ中山に戻ってしまったことを聞かされました。

すぐに父日常の姿を追い中山に向かいました。そして遅参の理由を述べて許しを乞うたのです。しかし他宗の僧侶たちを論破したことを喜んでくれるあろうはず の父日常はおっしゃいました。「他宗の法論はいつでもできるが、三回忌は二度とないことである。大聖人報恩の御会式に姿をみせないということはお師匠さま (日蓮大菩薩)(大聖人)にたいしての最大の不義理ではないのか」とさらに叱りつけたのです。

日頂さまは深く反省をいたしました。そして「此経難持 若暫持者 ・・南無妙法蓮華経」とその銀杏の木の周りをぐるぐる回り泣きながら唱えて許しを乞いた そうです。懺悔のお題目を唱えること7日、7夜を超えそれでも許し叶わず、終に突然と日頂さまは姿を消したそうです。(この銀杏の木のことを「日頂の泣き 銀杏」と呼びます。)

17年の歳月が流れて、日頂さまは日常さまが危篤になられた知らせを受けました。直ちに中山に参上し再び許 しを乞うたのですが日常さまからの許しはいただけません。この親子のことを不憫に思われたのでしょう6老僧の日朗さまは深く反省する日頂さまのお口添えを してくださいました。しかし「後の世の弟子や檀那への誡(いまし)め也」と日常さまは父の苦しい胸の内を日朗さまに打ち明け、結局お姿すらもお見せになり ませんでした。父の肌着を抱きしめ涙する日頂さま、外で父の臨終を妹より伝えられたそうです。生涯許しをいただけなかった日頂さまは、その後、富士のお山に隠棲し一切世に出ることはありませんでした。
 
このお話はお会式の大切さを伝えるお教えであるだけでなく、みなさんが年回忌やご命日の折にご先祖さまへのご報恩の法事をお努めになるときの誡めとも受け 留めていただきたいと存じます。お会式は日蓮聖人(大聖人)へのご報恩、ご法事はご先祖さまへのご報恩です。日頃の忙しさを忘れて静かにつとめることが出来たら幸い ではないでしょうか。うっかりなど無きように願います。


日蓮宗尾張伝道センターホームページ「ここが知りたい日頂の泣き銀杏」より

雑司ヶ谷、入谷、中山の鬼子母神は、江戸三大鬼子母神と呼ばれているそうです。みんな日蓮宗ですね。日蓮正宗信徒からすればなんで???って思うばかりです。 

大聖人様の御意志は、下記の経王殿御返事を拝読すれば一目瞭然ですね。

あくまでも御本尊様に御題目を唱えなさいとの仰せです。鬼子母神毘沙門天(四天王の一人)は御本尊様を持つ者を守護する存在であると御指南下さってます。拝む対象ではありません。富木常忍が大黒さんを祀ったのはなぜだかわかりませんが、本尊に迷うのは御法度です。

日蓮守護たる処の御本尊を・したため参らせ候事も師子王に・をとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや、鬼子母神十羅刹女法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり、さいはいは愛染の如く福は毘沙門の如くなるべし、いかなる処にて遊びたはぶるとも・つつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし、十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかかるべきなり、但し御信心によるべし、つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし、法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼に・かなぼうたるべし、日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし、妙楽云く「顕本遠寿を以て其の命と為す」と釈し給う。(経王殿御返事)