日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

日蓮大聖人様の滅後、御書に登場されていた弟子檀那はどうなったのでしょうか?(列伝として)

日蓮大聖人弟子檀那列伝 

浄顕房・義浄房

日蓮大聖人が清澄寺で修行した時の兄弟子で立宗宣言後、日蓮大聖人に帰依きえする。師道善房が逝去すると日蓮は師を弔うために「報恩抄」を書き上げ、日向を使者に持たせて浄顕房・義浄房に送られる。さらに「御ま前へと義成房と二人、此の御房(浄顕房)をよ読みて手として嵩かさがもり森の頂にて二三遍、又故道善御房の御はか墓にて一遍よませさせ給いては此の御房にあづけさせ給いて、つねに御聴聞ちょうもん候へ」とご指南なされている。尚、道善房死去後、浄顕房は清澄寺の山主となったため、日蓮大聖人は清澄寺の代表として浄顕房に報恩抄を預けられた。

 

工藤左近尉吉隆

天津の人で大聖人の信者であった。文永元年十一月十一日、大聖人を華房はなぶさ蓮華寺より自宅に御招待した。その途中小松原で東条左衛門に要撃され、この急を聞いて吉隆が馳せつけ、景信と戦ったが衆しゅう寡か敵せず、吉隆は鏡忍房と共に身命を捨てて大聖人を御守りした強信者である。(日享)

 

三位房日行

 下総の出身にして早く大聖人の門に投じ、叡山に留学し秀才に任せてややもすれば宗祖の御意に背くことがあって屡しば屡しば訓戒を蒙こうむるといえども、然も門下に重きをなしていた。為に日興上人富士弘教の補助を命ぜられ、または諸宗問答の主任に当たらしめられたことがある。惜しいかな信念全からず、却かえって大聖人弘教の妨さまたげとなって晩年を全うしなかった。(日享)

 

宿屋左衛門入道光則

 幕府に仕えていた人であり、安国論はこの人によって献上された。その後極楽寺良観等の帰依をやめて大聖人の信仰に入った。(日享)

 

弥源太入道

 北条の一門で立正安国論当時より大聖人に心を寄せた者である。大石寺にある宗近の名刀は弥源太の奉納したものであるという。(日享)

 

富木常忍・大田乗明・曾谷教信 

富木常忍下総国葛西郡若宮に法華堂を建立する。法友・大田乗明の子息日高を後継者として迎え、後に大田乗明が中山に本妙寺を起こすと、日高は若宮の法華堂を本妙寺と合併させる。これが現在の中山法華経寺となる。富木常忍は千葉氏の文書官であったこともあり日蓮から送られた重要御書の厳護に努め、数多くの真筆が所蔵されている。そのなかでも国宝に指定された「立正安国論」と「観心本尊抄」の所蔵は特筆すべきものである。

 

大田乗明は、日蓮大聖人ご在世当時の信徒の中では最も法門の理解が深かったと思われ、大聖人の内証をしるされた重要御書を送られている。その一つが将来の本門の戒壇を遺命した「三大秘法稟承事」である。弘安二年二月十七日に四月二十六日卒。

 

曾谷教信は大田乗明同様、富木常忍の屋敷で開かれた「百座説法」で日蓮法話を聞き帰依したと伝えられている。富木常忍と同じ千葉氏の家臣で常忍は文官だったが教信は武将であった。また嫡男直秀、弟二人が日蓮のもとで出家しており、親子共々、曾谷・大野の自領に寺院を建立している。娘は千葉氏第九代当主千葉宗むね胤たねの長男千葉胤貞に嫁ぎ、姪も千葉氏の第十一代当主千葉貞胤に嫁ぐなど、千葉氏の有力家臣となって千葉氏を日蓮に帰依させる程の影響力を持っていた。教信に与えられた御書は七本伝えられているが、唯一真筆が残っている大田乗明と連名で与えられた「曾谷入道殿許御書」は、日蓮が楷書かいしょの漢文で書かれており、恐らく教信も、日蓮には当時の武士の習いとして楷書の漢文で消息を書いて送られたと推察される。

 

四条金吾頼基

 父親の代から北条氏一門の名越朝時・光時父子に執事として仕える。

文永八年(一二七一年)の竜の口法難では日蓮大聖人の乗った裸馬の手綱を引き、日蓮大聖人と殉死しようとした。そのことを機縁として日蓮佐渡で最初に述作した人本尊開顕の書『開目抄』を頼基に送られた。

日蓮大聖人は開目抄で「日蓮といゐし者は去年九月十二日子ね丑うしの時に頚くびはねられぬ、此れは魂魄こんぱく・佐土の国にいたりて返年の二月・雪中にしるして有縁の弟子へを贈くれば、を畏そろしくて・を怕そろしからず。み見ん人いかに・をぢぬらむ。此れ (本抄) は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国・当世をうつし給う明鏡なり、かたみともみるべし」と記されている。

頼基は晩年、甲斐国内うつ船ぶさ(現、山梨県南部町)に内船寺、身延山中に端場坊(現、身延山久遠寺の最古の宿坊)を建立している。尚、鎌倉の頼基の屋敷跡は現在、四条山収玄寺となり、頼基が日蓮大聖人から俗日頼として授与された十界曼荼羅まんだらの御本尊を安置している。

永仁四年(一二九六年)六十八歳で卒。尚、妻の日眼女は頼基が死去した五年後の正安三年(一三〇一年)に亡くなっている。

 

池上宗仲

 日蓮大聖人御遷化後、日蓮大聖人門下に妙法蓮華経の文字数「六万九千三百四十八文字」分の坪数の土地を寄進し、伽藍がらんを建てる。母方の従兄弟であった日朗が開基住職となり、現在の池上本門寺の基礎を築いた。 

 

船守弥三郎

伊豆の国の伊東在の河名の住人で大聖人の流罪の時に河名の津に上がられた時、官憲の追放に苦しまれしを密ひそかに保護して遂に入信した人である。俗伝の俎まないた岩は大いなる誤りと思う。(日享)

 

日妙

 鎌倉に住した寡婦かふであり、大聖人の帰依者であった。乙おと御前という少女を携たずさえてはるばる佐渡に大聖人を訪ねたほどの純真者であった。日妙聖人の名はその信念の賜である。後に興師等の化を慕って乙御前と共に重須おもすに来る。(日享)

 

阿仏房日得・千日尼

承久の乱(一二二一年)の謀反により佐渡島流罪された順徳天皇の従者として佐渡に渡る。仁治三年(一二四二年)、順徳天皇崩御すると、妻と共に剃髪し自ら阿仏房と号する。浄土宗の熱心な信徒だったが、日蓮大聖人が佐渡流罪後、佐渡及び越後の念仏・真言の僧侶との「塚原問答」を聞き日蓮大聖人に帰依し、人目を忍んで妻千日尼共々、食料を塚原三昧堂に運び外護に励む。日蓮大聖人が赦免となり身延に入ると、老齢の身でありながら三度も身延の草菴を訪ね、時に一月程下働きをしながら日蓮大聖人の説法を学ぶ強信徒であった。弘安二年三月二十一日、九十一歳で亡くなるが、息子の藤九郎が同年七月、遺骨を首に下げ身延を訪ね、日蓮の草菴の宝殿に収めた。尚、阿仏房が自宅に開基した「妙宣寺」には、日蓮大聖人が阿仏房、千日尼に充てた直筆の御書三本と曼荼羅御本尊が五幅所蔵されている。

 

国府入道

 国府入道同尼御前は佐渡の国中の国府に住した人であり、夫妻ともに大聖人を外護した純真の信者である。(日享)

 

大進房

下総出身の長老で、大聖人が佐渡流罪中は法兄日昭と共に鎌倉を守っていた。

建治三年身延より大聖人の御名代として富士の鹿島に赴おもむき富士方面の弘教に当たられた。しかし富士地方は実相寺竜泉寺を始め、由比・南条・大内等の諸氏の外護を得て興師の教風が牢固としていた、興師より先輩の大進房は俗気の強い人で自分の活躍の場面がないことにより自負心を傷つけられたのであろう、弘安二年熱原法難の際には遂に叛逆して竜泉寺院主代行智の側に立ち、長崎次郎兵衛等と共に乗馬で暴徒を指揮し法華の信者を迫害したが、此の時誤って落馬しそれが原因で死去した。大聖人はこれを「法華の厳罰」と仰せられている。(日享)

 

高橋六郎兵衛入道

富士郡賀島荘(現今の富士町)の住であり、日興上人の叔母が其の妻である縁に依り興師の門より大聖への強信者であり、西山河合の由比一族は固もとより岩本実相寺内にも亦筑前房がをり、付近の熱原市庭寺の里民の信徒とも連絡し、遥か北方なる上野の南条家又は河西の人人とも共に四十九院の法難にも熱原の法難にも殆ど外げ護ごの本部となられたのであり、今現存する常諦寺は其の跡であろう。

 猶なお六郎次郎又は日厳尼等も不明ながら此の人の所縁であろう。(日享)

 

西山入道

 富士郡の西山(現今の芝富村)の柴川畔に住する人で人名が明確でない。俗伝尽く大内安浄とするのは恐らく誤りで、直近の柴川が富士河に合流する河合に住せし由比氏(興師の外戚)の老翁がそれであろう。

 窪の尼・窪の妙心尼・持妙尼も西山由比の人で持妙尼の新しくて旧き墓が西山本門寺の門先で芝川を渡った所(字を窪という)に現存している。この墓より古器物が出土した事もある。

三沢房は三沢小次郎と云うとの事だが、明確な資料はない。三沢の地は現今の富士郡柚ゆず村大鹿窪の一部で西山の直北で三沢寺が其の跡といっている。(日享)

 

波木井六郎実長

甲斐源氏の南部の一門で四十九院の縁故にてか日興上人と道交ありて大聖の門に入る。波木井はきり三郷の地頭で波木井に常住していたので波木井殿が通称であった。大聖が鎌倉を引き上げられて身延山中に入られたのも実長と興師との合議の上の御誘導であった。其の後も深く興師に帰伏して大聖同然の院主と渇仰せしが、誘惑者の為に興師を富士に走らしむる程の宗運の不幸を惹起じゃっきせしめたのであるが、色法より量より観みれば別途である。但し此の間の史談は後世に大いに歪曲わいきょくせられている。

諸資料に残る南部六郎・六郎恒つね長ながは多分実さね長ながなるべく又波木井の一門に次郎・三郎兵衛・藤兵衛・右馬入道・弥三郎・弥六郎及び越前房・播磨公等の僧分もある。(日享)

 

下野坊日秀

熱原竜泉寺の寺家である。日興上人の御教化を受けて後大聖人の直弟に加えられ、弘教の効果甚大なるが為に熱原の法難に遭い且しばらく真間に避けられたが、日興上人身延離山後には師に随順して大石ヶ原に移り、理境坊を建てて護法の任に当られた。(日享)

 

少輔房日禅

 富士北部の人で日秀と共に竜泉寺の寺家であったが、法難の当初に熱原を去った。御離山後に西御大坊の前に南の坊を建てて住せられ静岡にも弘教されている。(日享)

 

神四郎・弥五郎・弥六郎

 此の三人の兄弟は富士郡下方熱原郷の里民で付近の市庭寺(今の伝法村三日市場か)に在りし竜泉寺の寺家僧日秀日弁(日興上人に改宗せし後)等に教化せられて強盛の法華衆となったので竜泉寺の院主代左近入道行智の弾圧に遭い、同士二十余人と鎌倉に拘引こういんせられて拷問ごうもんを受けたが、少しも信仰を曲げざるに依ってこの三人が張本と指されて斬罪に遇ひ余の十余人は追放の刑を受けた。

 猶なお資料に残る熱原福地ふちの神主こうぬし・六郎吉守・三郎太郎・江美弥次郎・市庭寺の太郎太夫入道・子息弥太郎・又次郎・弥や四郎入道・田中弥三郎等はこの追放の中で長く苦難をしのんだ人であろう。(日享)

 

光日房

 光日房は清澄山下の天津の人である。その子弥四郎が青年時代に大聖人に親近し、後に横死したが、その前大聖人に両親の事を申し上げて光日房及びその尼も大聖人の信徒となった。(日享)

 

妙一尼

 鎌倉に在りし老尼であり、昭師縁故の篤信者であって、佐渡にも一僕を遣わして大聖人の従者とした等の事がある。(日享)

 

新尼

長狭郡東条は北条の支族名越家の領である、その領家の尼を大尼と言い、その嫁が剃髪ていはつして新尼と言われており、新尼の方が信心強盛であった。(日享)

 

南条時光

父の南条兵衛七郎ともども親子二代に渡って日蓮大聖人に帰依する。所領が上野に在ったため上野殿とも呼ばれていた。日興上人が身延離山を決断すると南条家の領地、大石ヶ原に招聘しょうへいし大石寺の開基檀那となる。尚、日興上人の後継者、第三祖日目上人とは縁戚関係にあった。また時光の二人の娘は嫁いで日目上人の後継者、第四祖日道上人、さらに第五祖日行上人を産んでいる。

北条の家臣でありながらも弾圧された熱原の農民を守り通し、日蓮大聖人から「上野賢人」と称えられた時光の求道心なくして、今日の日蓮正宗総本山大石寺の興隆は考えられない。

 

松野六郎左衛門入道

駿河国庵原いはら郡松野に住していた強信徒。娘は南条時光の父、南条兵衛七郎に嫁いでいる。つまり南条時光は孫に当たる。また次男は後の六老僧の一人日持である。

松野殿及び妻へは合わせて十三通の消息が伝えられているが、その中でも日蓮大聖人に「聖人の唱えさせ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何いか程ほどの多少候べきや」と問いかけた手紙への返書「十四誹謗抄」が特筆される。

この抄で日蓮は「勝劣あるべからず候、其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の然ともせる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり。(中略) 有る人此れを分つて云く『先さきに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり・一に憍慢きょうまん・二に懈怠けたい・三に計我・四に浅識・五に著じゃく欲よく・六に不解ふげ・七に不信・八に顰蹙ひんしゅく・九に疑惑・十に誹謗ひぼう・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉しつ善ぜん・十四に恨こん善ぜんなり』此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し」と諭されている。

 


五老僧のその後

 


日昭

五老僧の中で最も早くから日蓮大聖人門下に連なった最年長の日昭は、大聖人滅後鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。

現在、静岡県三島市玉沢にある妙法華寺が日昭門流の本山とされる。ここには日蓮大聖人が生涯所持していた法華経並びに法華経開結全十巻(注法華経)を所蔵している。

尚、この注法華経は、日興上人が記された「宗祖御遷化記録」に

一、御所持佛教事

   御遺言云

   佛者釈迦

     立像墓所傍可立置云々。

   経者私集最要文

     名注法花経

   同籠置墓所寺六人香花當番時

   可被見之。自餘聖教者非沙汰之限云々。

   仍任御遺言所記如件。

とあり、身延久遠寺墓所の寺に置くようにと、宗祖日蓮大聖人から遺言されているが、後日、日朗が偽りの遺言状を作り、身延久遠寺から持ち去ったものである。

 

日朗

縁戚関係にあった池上宗仲が寄進した土地に立てた仏閣の開山となる。これは現在池上本門寺となっている。日朗は重須おもすの日興上人を二度訪ねたと伝えられている。また叔父日昭から、「弟子を叡山の戒壇で得度させてもよいか」と問われ、「富士の戒壇で日興上人を戒師として得度させるのが良い」と返答している手紙が伝えられている。

日朗は、日興上人が日蓮大聖人の正当な後継者であると認識していたと思われる。

 

日頂

日蓮大聖人より「器用の弟子」と称えられた日頂は、日蓮大聖人滅後、養父の富木常忍と対立し、永仁元年(一二九三)日興に師事し、重須おもす本門寺で弟子の育成、弘教に励むことになる。尚、日頂の弟、日にっ澄ちょうも正安二年(一三〇〇)日向と義絶し日興に師事、日興が定めた新六老僧の一人となり、重須談所の学頭となる。また日興の命で「富士一跡門徒存知事」の草稿を書き上げている。

 

日持

南條家と姻戚関係にある松野六郎左衛門の次男として生を受け、当初日興の下で得度し日蓮大聖人門下に連なっていたが、大聖人滅後は日興と別れ海外布教を目指し北樺太に渡る。その後満州に渡ったとも、蝦夷地で没したとも伝えられているが消息は不明となっている。

 

日向

 弘安五年六上足の第四に列し、墓輪番に加わったが、漸ようやく弘安八年頃身延に上り院主日興上人より学頭職に補せられたのに、鎌倉方面の軟風をもって地頭波木井日円を誘惑し、自らも亦非行多く身延汚辱の因となった。ただし延山院主職は長からずして上総に退隠したと伝えられている。(日享)

 引用元:

nichirengs.exblog.jp

f:id:ekikyorongo:20181031203137j:plain

正しく日蓮大聖人様の仏法を行じて、一生を貫かれた方の少ないことに驚きます。

退転した人、異流儀を建立してしまった人、厳罰を被ってしまった人。

日蓮大聖人様からお手紙を頂戴できたような方々でさえ、上古の時代においては交通事情や、通信事情その他諸般の事情により、日興上人様、日目上人様、日道上人様と続く日蓮正宗の系譜に連なることができにくかったのでしょう。

私は現在、異流儀に迷った時期もございましたが、有り難いことに大石寺信徒の末席に連ならせていただくことができております。

これ以後は、大聖人様が大尼御前に賜った書を自分へのお手紙と思い、後生の堕獄を救っていただくことのみを念頭に、世間の名聞名利に気を取られることなく、信心修行に励んで行こうと改めて決意させていただきました。

大尼御前御返事

 ごくそつえんま王の長は十丁ばかり・面はすをさし・眼は日月のごとく・歯はまんぐわの子のやうに・くぶしは大石のごとく・大地は舟を海にうかべたるやうに・うごき・声はらいのごとく・はたはたと・なりわたらむにはよも南無妙法蓮華経とはをほせ候はじ、日蓮が弟子にてはをはせず・よくよく内をしたためて・をほせを・かほり候はん、なづきをわりみをせめて・いのりてみ候はん、たださきの・いのりと・をぼしめせ、これより後は・のちの事をよくよく御かため候へ、恐恐。
 九月二十日 日 蓮 在御判
 大尼御前御返事