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説会の四衆について

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
説会の四衆について

 皆さん、お早うございます。インドの釈尊は五十年という長い年月を経て、インドの各地を転々と布教し、又、御説法を重ねられまして、その生涯を通して説かれた法門は八万四千の法門と言われておりますし、五十年の一切の経経が、色々な形で翻訳され、今日、日本にもたくさん伝わって、一切経蔵としてとどめられているわけであります。

 そうした、たくさんの経文の中にも、色々な説かれ方といいますか、説き方、そして又、その経説の中に出てくる役割を担った色々な人が、そこに登場をしてきております。そうした御説法の中に出てくる四衆ということで、説会の四衆ということが昔から言われております。これはどういうことかと申しますと、この釈尊の御説法を助ける役割をする人、あるいは釈尊の御説法の起縁となる、その発端をつくる役割を担う人とか、あるいはその御説法の座において証明役となって、真実なることを証明していく役割を担った人々であるとか、色々な働きの方々が、そこに現れて参ります。

 これは何も経文だけのことではありませんで、我々が一つの会合を持ったり、あるいは勉強会をしたり、座談会をしたりというような時でも、やはり、その機縁となる、発端となる質問を起こしたり、あるいは疑問を投げかけたり、そういうところから、それによって、それに基づいて、その一座の説法が始まったり、あるいは勉強が始まったり、研鑽が始まったりというようなこともあるわけであります。折伏ということも、また考えてみますと、そういう疑問なり、そのきっかけというものが必ずあって、そこから仏法の対話が始まるということがあるわけです。 

 経文の、そうした問答だとか、質問だとか、そういう機縁、発端となる意味で、「発起衆」(ほっきしゅう)という方がいらっしゃるのでございます。例えば、普賢と文殊が長く問答をして、その問答の暁に、釈尊がその問答に対して諄々(じゅんじゅん)と法を説かれるというような形態、あるいは弥勒が疑問をいだいて釈尊に質問をする。その動執生疑に基づいて、そこから釈尊の真実の説法が始まるというような形態が、色々な経文でみられます。そういう形、そこに発起衆としての役割を担う人が必ずあるわけであります。皆様方も会合の中においても、どなたかが質問をし、どなたかが疑問を投げかけ、そうして、そこから色々な発言が相次いで現れて、そこに識者が真実を説きあしていく。そうして、その一座の大衆が、ことごとくその真意をつかんで納得し、理解して、そして喜んで仏法に随従していくということがあるわけであります。そうした姿が最も望ましいわけであります。ですから疑問があるならば、恥ずかしがらないで、堂々と手を上げて、質問をしていく方もいなければ、盛り上がった良い会合、良い座談会が出来ないのだということを深く心において、大いに発言をし、そうしてそういう機縁を切り開いていっていだきたいと思うのであります。

 その次の役割を担う人は、「影響衆」(ようごうしゅう)と申しまして、私達の日常の言葉で言いますと影響(えいきょう)という字を書きます。仏法では、これを「ようごう」と読みますが、仏のその説法を讃歎し、「確かにそうでございます」「確かにそうだ」と、ありのままの姿、心根において、仏の説法を讃歎したり、あるいは真実を証明する。「確かに私もそういうことを体験したことがあります」「私もそのように思いました」「そう感じました」「全くそうです」と、やっぱりそういう賛同をする。あるいは、それを又、更に敷衍(ふえん)して、重ねて法を説かれる起縁となる人達がいなければ、一座の説法は盛り上がってこないわけであります。やっぱり「そうだ、そうだ」「賛成だ、賛成だ」と、又、疑問なら、それに対して「こういう風な疑問がある」「こういう考えもある」と言って、その一座の、そういう座談会なら座談会を盛り上げる人、賛同する人、証明する人、感動する人、更にもう一歩突っ込んで質問する人、そういう人が出てきて、始めて、みんなも更に深く学び、更に深くその真意をつかんで、そうして喜んで身につけて、お帰りいただくことが出来るわけであります。そういう影響、良き影響です。悪い影響を与える人があっては困ります。良き影響、盛り上げる、そういう働きをする人が、その中にいないと困るわけであります。

 そして三番目には、「当機衆」(とうきしゅう)という方がいらっしゃいます。これは、一座に連なるまでは、本当に心から仏を信じ、経説を信ずる心持ちがなかった人達、疑問をいだいて、色々と不遜な気持ちで参加したにもかかわらず、仏の説法を聞いている間に、皆さん方の貴い体験を聞いている間に、「ああ、なるほどそうか、自分の考えが間違っていた。自分の考えが愚であつた。自分が今までいだいていていた宗教感なり、あるいは仏に対する考え方というものが、やっぱり間違っていた」ということが、その当座の説法の中において、すでに、いち早くそれを察知して、理解をして、そして信心に立っていく、決意をしていく。一座のその中において、自分が入信まで至るというような人達を、これを「当機衆」。本当に純真な人といえば純真な人です。そういう真実の信に即座に立っていくことが出来る人を、「当機衆」というのであります。釈尊の説法の中にも、その説法に帰依して成仏の記別をいただいていくというような人達は、みんな「当機衆」としての役割を背負っているわけであります。

 そして最後には、「結縁衆」(けちえんしゅう)。その場では、自分は確信を持って信心に立つことは出来なかったけれども、しかし、それが機縁となって、やがて成熟して、未来において入信を決意し、又、得脱の境涯を得ていく人達を「結縁衆」というのであります。実際に皆様方が大勢の方々に下種をしていていて、素直に聞いて下さる人、素直に分かって下さる人、理解をして下さる人ばかりではありません。反対し反対し、又、皆様方に突っ掛かり、皆様方を恨みつらみ、色々な態度を示す方がいらっしゃいます。しかし、どうであっても、たとえ逆縁の人であったとしても、それも又、一つの機縁であります。

 ですから折伏と申しましても、まず一番大事なことは、その「結縁衆」をつくるということを考えていただきたいのであります。下種した人を、全部ことごとく、それを、「当機衆」にするなんていうことは、これは不可能であります。従って、まず大勢の「結縁衆」をつくる。種を蒔いて、何らかの結縁をつくっていく。そうすると、その「結縁衆」を、やがて「発起衆」に、「影響衆」に育てていけば良いわけであります。ですから、「折伏が出来ない」とか、「折伏は難しい」とか、「とても私のような者には出来ません」とか、色々なことをおっしゃったり、考えたりする人がありますが、そうではありません。まず、結縁を結ぶということならば、だれでも出来るはずです。「結縁衆」をつくるということだったら、気が楽になるはずです。「とにかく、折伏しなければ、折伏しなければ」と思うと、意気込みは大変であっても、なかなか、これは実ることは難しい。しかし、大勢の人に結縁する。たくさんの下種結縁をしていけばいいんだと思うと、お互いにこれは気楽になる。又、気楽に出来るはずであります。その「結縁衆」が出来たら、その「結縁衆」を繰り返し繰り返し訪問し、話をする過程において、その人達を「発起衆」にしたり、あるいは又「影響衆」に育てて、そうして最後に又「当機衆」に導いていくわけです。そうしたことを、一人一人が考えて、実践を是非していただきたいと思うのであります。

 そして、折伏が出来ないというのならば、折伏のお手伝いだったら出来るはずであります。折伏が出来る、そういう人達と行動を共にし、そして、その人の下種結縁した人、その人その人の幸せを願ってあげるということなら、出来るはずであります。御題目をあげてあげるということならば、又、出来るはずでありますし、そして又、折伏の出来る人達のお手伝いをし、その人から学ぶという事なら誰でも出来る筈であります。その尊い実践をなさっている方の、その機縁を知り、その道程を知り、その人の信心を学んでいくということならば、これ又、だれだって出来るはずであります。共に願い、共に参加し、共にお手伝いをし、共に学び、そして共に功徳を受けていく。一人で何もかも背負い込んでしまうと出来ませんけれども、お互いに、そうした気持ちの上に立って、連帯して信心をし、連帯し折伏をする。そうした姿で、ぜひ頑張っていっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年五月二十二日)