日蓮正宗のススメ

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御本尊様の功徳

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
御本尊様の功徳

 皆さんお早うございます。最初に、本日御本尊をお受けになりました方々に、申し上げたいと思います。ただ今御授与申し上げました御本尊は、既にお聞き及びの通り、宗祖日蓮大聖人様の、本門の本尊と申し上げまして、大聖人様御自身『観心本尊抄』に、

 「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(全二五四)

とお書き遊ばされ、そして又、『草木成仏口決』という御書の中には、

 「一念三千の法門をふりすすぎ(振濯)たてたるは大 曼茶羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(全一三三九)

と、末法救済の御本仏として、その久遠元初の悟りの当体、大聖人様の魂を留められた御本尊でございますし、十界の衆生をことごとく、一切を成仏せしめるところの原理である十界互具一念三千の法門と、その功徳、働き、一切の整足した御本尊でございます。どうか皆様方は、大聖人様の閻浮第一という御言葉の通り、一閻浮提第一の御本尊を持ち、世界一の正法・正師の正義を貫く者だという強い誇りと確信と希望を持って、どこまでも大聖人様の弟子らしく、堂々とした、強い、逞しい、また清々しい信心を貫かれまして、一切の障魔に打ち勝って、揺るぎない幸せな境涯を、一歩一歩開拓していって頂きたいと念願する次第でございます。

 大聖人様の仏法は、一切の人々の煩悩を菩提へと転換し、生死を涅槃へと改革し、娑婆を寂光土と転じ現し、そして一人一人の禍いを幸へと転換していく。その転換していくところに、真実の勝利と功徳と、本当の信心の意義が開けてくるのだということを深く心に置いて、少々のことには負けない、強い人になっていって頂きたいということを申し上げまして、一言、御祝いと激励の言葉に代えさせて頂く次第でございます。

 その御本尊様の中に、(これは大聖人様から日興上人様への御相伝によるのでありますが)

 「若し悩乱する者は頭破作七分(こうべ七分にわれ)、供養すること有らん者は福十号に過ぐ(福過十号)」

ということを御認めになっておられます。この意義はどういうことかと申しますと、この御本尊様をしっかりと持って、そうして大聖人様の御指南の通りに正しい信心を全うするならば、その人の功徳というものは、遥かに仏の十号に優れるということを、御本尊様の左の、毘沙門天王と四菩薩の間に書写遊ばされておられます。そして反対に又、「若し悩乱する」この大聖人様の御本尊様に対して、仏法に対して、又仏法の弘通に対して、若し悩まし乱すことがあるならば、その人は頭七分に破れる「頭破作七分」ということであり、これは御本尊様の右の肩、大持国天王と四菩薩の間に書写遊ばされておられます。

 この「若し悩乱する者は頭七分に破れる」ということは、『法華経』の「陀羅尼品」に、

 「説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」(開結六四五)ということが説かれておりまして、この御文を受けて大聖人様は、そのように書写することを、御本尊の相伝の上に留め置かれておられるのであります。

 頭が七分に破れるということは生理学上どういうことを言うかと申しますと、正法の弘通を妨げ、御本尊様に対して不信を抱き、信心を退いていく、又、謗法を犯すという様なことをし続けていくならば、その人の罪障として、頭が必ず破れるということは、それは頭がひび割れるということもあるでしょうし、又、血が詰まってしまい脳血栓を起こしたり、あるいは血管が切れたり、そういう病に冒されることがあるということです。それと同時に、大聖人様は『種種御振舞御書』という御書の中に「頭七分に破れる」ということを、「或は心破作七分」(全九二四)、又、心が七分に破れると。心が千々に乱れるということ。それは又、心の病に冒されていく。最近非常に人間の心の病ということに苦しむ人が多くなっておるということも、これ又、一面の事実であります。そうした頭破作七分は頭破作七分だけではなくて、心が又、七分に破れるということに陥ってしまうのだ、ということを説かれているのであります。

反対に「供養すること有らん者は、福過十号」と。この大聖人様の仏法を貫く人の功徳というものは、あらゆる三世十方の諸仏を一劫、十劫、百劫、千劫というような、想像を絶する長い期間、供養し続けることよりも、末法の今日においては、大聖人様の御本尊様に御供養申し上げる、信心を貫く、その人の功徳の方が遥かに大きいということが示されております。その経証を挙げますと、法華経の『法師品』に、

 「吾が滅後の悪世に、能く是の経を持たん者をば、当に合掌し礼敬して、世尊に供養するが如くすべし○持経者を嘆美せんは、其の福復彼に過ぎん」(開結三八八・三八九)

と説かれております。印度の釈尊や、経文に説かれるところの三世十方の諸仏を供養することよりも、末法の今日においては、その持経者、つまりこの南無妙法蓮華経の大法を受持される人を御供養申し上げる、その方の顕される法体の御本尊を信心修行する、その人の功徳の方が遥かに大きいということを、経文の上に釈尊自身が説かれているのであります。

 従って大聖人様は、『法蓮抄』という御書の中に、

 「教主釈尊を○間無く供養し奉る功徳よりも○心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間、生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候」(全一〇四四)

ということを書き留めていらっしゃるのであります。従って、ここには本当に不思議なことがあるのです。それは『法華経』の中に、釈尊自身は、ただの一度も自分を供養せよとか、あるいは、あらゆる経文の中に現れてくるところの仏菩薩の像に対して供養せよなどということは、ただの一度も説いていないのです。必ず「説法者を悩乱せば」とか、「持経者を嘆美せんは」ということをおっしゃいまして、どの方を供養せよということを釈尊は遺されたかというと、この南無妙法蓮華経の大法を所持される人、この南無妙法蓮華経の大法を流通される末法法華経の行者に対して、供養しなさいということを釈尊自身が言い遺しておられるのであります。そこに、釈尊と大聖人様との不思議な、仏対仏の感応の上に於ける御説法が展開されているのであります。

 従って大聖人様は『法華取要抄』(全三三四・三三五)であるとか、あるいは『観心本尊抄』(全二四九)等において「法華経は、なるほど釈尊がその当時の衆生を救済するために、その熟脱の仏法の本懐としてお説きになりましたけれども、その真実は末法のため、末法の中にも日蓮大聖人様のためになされたというところに、正意の法華経の意味がある」ということを説いておられます。その通りであります。釈尊自身が、大聖人様の御出現を「日月の光明」(開結五八四)に約してお説き遊ばされ、そして又、末法衆生、今日の私達に対して、釈尊自身よりも、あるいは阿弥陀弥勒や、あるいは観音だ薬王だ薬師だと、そういう三世の諸仏よりも何よりも、この南無妙法蓮華経の大法を所持される末法法華経の行者に従って、その人の顕される御本尊を受持し、その人に従って信心をし、その人に対して、その法に対して供養をしなさいということを、釈尊が『法華経』の中に、はっきりと説かれておるということをしっかりと心に置いて、どうか皆様方は、この末法の救済は、末法における真実の仏法は、この大聖人様の大法を離れては絶対にあり得ない、そういう深い確信に立って、この信心を全うして頂きたい。又、この御本尊様に対して御題目の供養を捧げ、そして又、折伏・流通の実践の志を供えて、真の功徳を我が物としていって頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年三月十三日)

 

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