1050夜:日蓮正宗略解(ダイジェスト)3.宗団の目的
1.教法の宣布
本宗の使命とするところは、第一に教法の宣布(せんぷ)である。
正しい教法を弘宣(ぐせん)することによって、世道人身を益(やく)し、平和と福祉社会を実現していくところに、本宗の目的が存する。
教法とは大聖人の所弘(しょぐ)の三大秘法であり、本門の本尊を信じ、本門の題目と唱え、本門の戒法を成就(じょうじゅ)し、本有無作(ほんぬむさ)の仏身に至らしめる。すなわち、仏の大慈悲を根底とし、折伏を主として、三大秘法受持の行を個人より全体に教え、導くことが教法の宣布であり、本宗の弘通の方式なのである。
しかして本宗の教法は、他の宗教の宣伝方法のように相対論的な優劣のみにあるのではない。ひとたび、大聖人の大白法が出現した以上、一切の仏教および仏教外の宗教、哲学のすべては、正法の枝葉の一分であって、本来、単立するものではない。諸河が海に入ってもとの名を失うが如く、根本の正法が出現する時、あらゆる爾前迹門の諸宗や、仏教外の教法は、既に意義においてその体(てい)を喪失している。
これが大聖人の法体(ほったい)の折伏の原理である。そこで、この正法の絶対的立場より見れば、諸宗の相対的存在を絶滅して正法へ帰入せしめ、妙法のほか、さらに一句の余法なく、諸乗一仏乗となって妙法独(ひと)り繁昌(はんじょう)すべきことが、宣布の絶対的目的なのである。またかくあってこそ一切の民衆が究極的に救われ、世界平和が確立するのである。
故に、その宣布の意義は絶対的である。諸教・諸宗を最高の教義・行法・真理を具備する本門寿量文底下種の三大秘法に帰入せしめ、またあらゆる邪見偏見の思想や人生観・世界観に執着する迷いの民衆を、法華本門の正理により折伏下種し、正法への入信を図るのである。
この仏法は尽未来際(じんみらいさい)まで利益(りやく)あらされるのであるから、永遠をかけて正法流布の願業を行ずべきである。
ここに、本宗の恒久的な意義と目的が存するのである。
2.儀式の遂行
本宗の定める儀式法要は、次の如くである。
■恒例法要
元旦勤行 一月一日
節分会 二月立春の前日
興師会 二月七日
宗祖誕生会 二月十六日
春季彼岸会 春彼岸中
立宗内証宣示報恩会 三月二十八日
立宗会 四月二十八日
大行会 五月一日
盂蘭盆会 七月十五日(八月十五日)
寛師会 八月十九日(九月十九日)
御難会 九月十二日
秋季彼岸会 秋彼岸中
目師会 十一月十五日
三師報恩講 毎月七日、十三日、十五日
唇(しん)朝衆会 毎月一日、七日、十三日、十五日
■特別法要
丑寅勤行 毎朝
霊宝虫払会 四月七日
宗祖御大(おたい)会 十月十三日(十一月二十一日)
上記は総本山大石寺における儀式を基準としているが、全国の末寺においても大体同じように年中行事が行われている。
このほかに毎日の勤行・唱題行、受戒式、観戒式、結婚式、起工式、上棟式、葬儀、法事、塔婆供養、厄払い、諸祈念等も、本宗の正法によってこれを行うところに所願満足するのである。
要するに儀式法要とは、仏教における種々の深い哲理や限りない意義を現実に顕し、体現するものである。例えば、深い感謝の念を持つときは、その人に対し、これを表現する言語と態度をなすものであり、また、これがなければ感謝の念をよく顕すことができない。
これと同じく仏法の深い意義や哲理は、儀式法要を通して初めて表現され、多くの人々を導き、救済の役目を果たすことができる。
3.広宣流布
広宣流布の典拠としては法華経薬王品に、
「我が滅度の後(のち)、後の五百歳のなかに、閻浮題に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経五三九頁)
とある。
大聖人は、この経文を如説修行せられられる振る舞いの上に、
「日蓮が慈悲曠大ならば南妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(報恩抄・御書一〇三六頁)
と仰せられた。
その理由は、大聖人の御魂魄(こんぱく)である南妙法蓮華経が宇宙法界の理として絶対的な意義があることによるのである。
慈とは一切民衆に大楽を与えることであり、悲とは一切民衆の大苦を抜いて平安を得せしめることである。すなわち、この法にはすべての生命と、その生活の対する最高の悟りと、指導性と、所願成就の不思議な功徳が含まれているからである。
弘宣流布とは、この大法の真価が発揮され、次第に世界の全人類に弘まり、その仏法における信心・修行と、利益が断絶することなく、広く世に行われることを言う。
この広布について流行(るぎょう)と流溢(るいつ)の区分けも一往存するが、社会・国家・世界がれぞれその体制において遍(あまねく)妙法の化に霑(うるお)う時は、その場における流溢の広布と言えよう。それまでに至る道程は流行と言うべきであるが、そこに明確な区別はあるべきではない。流行のなかに流溢もあり、流溢の先に流行もある。
要は「無令断絶(むりょうだんぜつ)」(法華経五三九頁)の鳳詔(ほうしょう)の如く、末法万年において絶対に流布を断絶せしめてはならないのである。南妙法蓮華経がどこまでも流れ行じて止(や)まぬという、本人妙仏法の大確信こそ肝要である。要するに、大聖人の御遺言状に基づく大本門寺の実現を目指して弘宣流布することが第一である。
故に宗徒たる者、いよいよ信心を中心として自行化他の修行に励み、全世界の民衆の自由と平和と幸福の実現のため、僧俗一致して正法広布に邁進すべきである。