日蓮正宗のススメ

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四弘誓願について

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
四弘誓願について

 皆さん、お早うございます。先週の日曜日は、他宗の立てる仏法僧の三宝には、その三宝としての実体がない。
 みんな架空の仏であり、架空の教えであり、架空の僧宝を立てているということをお話申し上げました。今日は、もう一つ大事なことで、四弘誓願=しぐぜいがん、しぐせいがん、とも言いますが、その四弘誓願の実体が、他宗の教義には、又、他宗の宗旨には整っていないというお話を、申し上げたいと思うのであります。大聖人様の御指南の中に、四弘誓願ということがなければ、真実の菩薩ではないという様な意味の御指南もございます。

 四弘誓願ということは、どういうことかと申しますと、その一つには、衆生無辺誓願度といいまして、仏道修行の上においては、一切の人々を救済していく、救済してみせるという、世界の広布の誓願というものが根底になければ、真実の仏法者とはいえない、真実の菩薩とはいえない、という事が説かれております。どの宗旨の人も、その四弘誓願衆生無辺誓願度という言葉は知っております。言葉は知っておりますけれども、その実体が整っているかというと、これは、もはや整っていないのであります。現実に一人一人の人が広布の志を持って、具体的に一人の人に対して折伏を貫く、そうした実践を貫いているという宗旨は、この日蓮正宗を除いては、世界のいずこの宗旨においてもないのであります。又、実際に大御本尊のもとに、一閻浮提第一のこの正法のもとに、御法主上人猊下から、全国の寺院に於いて、全国の信徒のお家に於いて、皆様方の様にこの御本尊様のもとに広宣流布の祈念をし、そのことを発心し、そうして日々の信心を貫いておるというような宗旨は、日蓮正宗以外にはまったくないのであります。

 皆様方のお父さんお母さん達、或は皆様方もかつて家の宗教として、念仏宗の人もあれば、禅宗の人も、或は真言宗の人も、キリスト教の人も、色々な人があったと思います。今迄の宗旨、宗教に於いて、実際に、広宣流布などということを教えられたことがあったでしょうか。

又、日々の修行、勤行の中に於て、一人一人、その人を具体的に救っていく、実際に折伏、弘通ということを言われた、そのことを教えられたことが、ただの一度でもあったでしょうか。そんなことはないはずであります。この日蓮正宗において、まさに大聖人様によって始めて、具体的に、この衆生無辺誓願度、すなわち、一切の人々を救済していくという実践が始められたのであります。

 みんなこの仏法は、釈尊から始まったと思っております。釈尊は確かに五十年の生涯を通して、具体的に大勢の人々に法を説いて、御説法を通して衆生を教化していくということは致しました。しかし、折伏の実践ということになりますと、これは大きな、大難というものがそこにあるわけであります。又、釈尊は、末法折伏を、大聖人様に委ねられておられるわけであります。

 大聖人様以前の、天台大師や伝教大師の時代の仏法というものは、みんな山岳仏法、つまり、山の中にこもって修行して、あるいは瞑想をこらして、静かに静かに自分を磨いていく、そうした宗教でございます。ですから、伝教大師比叡山を開き、あるいは天台大師が天台山にあって、色々な意味で法を説かれたこともまた事実であります。けれども、山の中にこもって世界の広宣流布は出来ないのであります。やはり具体的に実際の社会に打って出て、そして一人一人、自らが、僧侶も信徒も、皆が打って一丸となって、実際に先ず自分の家の中から、兄弟から、友達から、色々な社会の、その道その所において、折伏を行じていく。そのことにおいて始めて、この世界の広宣流布も実現するわけであります。その源は、大聖人様が具体的に御本尊様を顕されて、御本尊様を授与して、そしてその御本尊様を通して、実践を、信心の在り方をきちんと教えていく。そのことを抜きにしては絶対に、一切衆生を救うということはあり得ないのです。その意味において、この衆生無辺誓願度、すなわち一切の人々を救済していくためには、具体的な信心の根本である御本尊様が打ち建てられなければならない。そして実際に、きちんと御本仏以来の相伝に基づいたところの、正しい御本尊様が授与されなければならない、ということから始まっていくわけであります。従って、大聖人様御一人、この衆生無辺誓願度を実践せんがために、世界の広宣流布を実際にこの世に具現し、現してみせる、そうでなければならないという一つの仏の誓願の上において、この日蓮正宗が建てられているのです。真実の衆生無辺誓願度の願いは、この御本尊様を通した、大聖人様の仏法以外にはありえないということを、この一事をもって、お判り頂けると思うのであります。

 二つ目は、煩悩無数誓願断であります。一切の人々は皆、生まれながらに煩悩の持ち主であり、煩悩の塊であります。これを煩悩身と申します。煩悩の身であります。煩悩がなければ、一日たりとも生きることは出来ません。八万四千の煩悩とも言われます。我々は、朝起きた時から夜休むまで、一日一日、その瞬間その瞬間、ありとあらゆる煩悩を持って生きております。しかしその煩悩は、けっして忌み嫌うものであってはならないのであります。禅宗では、煩悩を捨てなさい、あらゆる不浄のものは削ぎ落としてこそ、始めて仏に成れるというようなことを説きます。しかし、一瞬たりとも、たった一秒たりとも、我々は煩悩を断ずる、煩悩を捨てる等ということは出来ないのであります。しからば、どうするかと言いますと、その煩悩を菩提へと転ずることが大事なのです。

 本当の幸せということも、それは、どこかに逃げて行くとか、あるいは、お祈りや、お払いをしてもらったら幸せになるということではないのです。自分の不幸せというものを、幸せに転換して始めて、幸せということが具現出来るわけです。始めから、幸せというものはあるものではありません。どんな人でもある意味では不幸せな要素を持っている。不幸せな家庭ならその家庭を、幸せな家庭へと転換する以外に、真実の救済はない。本当の幸せな世界はない。健康の喜びというものも、始めから健康な人には、その喜びは解りません。むしろ病魔に侵されて、悩んで、苦しんで、その病魔と戦って始めて、心身共に、真実の蘇生の喜びというものが出て来るのです。本当の健康の値打ちというものは、その上において現れてくるわけです。ですから、本当の悟りとか、本当の幸せとか、あるいは健康の有り難さとか、人生の有り難さとか、生きることの大事さ、尊さということも、それは、苦しみや不幸せ、病魔等というものを、みんな乗り越えた時、それを幸せに転換した時、変毒為薬した時に、その真実の意味が判ってくるわけであります。

 大聖人様の仏法は、煩悩を菩提へと転じて、心の成仏を図る教えであります。そして皆が、生死を涅槃へと改革し、身の成仏を果たして、そして又真実の幸せを獲得していく道であります。そして、苦しみの世界を寂光土へと転換して、法界、国土世間、一切の浄化、成仏が、これが又、沙婆即寂光ということなのであります。煩悩即菩提ということも、生死即涅槃ということも、娑婆即寂光ということも、又、変毒為薬ということも、不幸せを幸せに転換していくということも、全部同じ原理、みんなこれは、大聖人様の、この妙法の世界、妙法の働き、妙法の功徳力によるものであります。従って、煩悩無数誓願断、つまり、いかなる、たくさんの、無限大の煩悩といえども、それを菩提へと転ずる、その苦しみなら苦しみ、悩みなら悩み、欲望なら欲望、願いなら願いというものを、それをバネにして、それを基として、真実の幸せな境涯へと転換することが出来るというのは、大聖人様の妙法を離れては、絶対にありえないということなのであります。

 煩悩無数誓願断ということも、言葉で知っていても、その文句をいくら知っていても、あるいは、百回唱えても千回唱えても、何べん唱えても、意味はないのです。それが、一つ一つ具体的に、真実に、転換されていかなければ意味はないのであります。従って、諸宗の人も、言葉では知っておりますけれども、真実に、煩悩を菩提へと転換する道はないのであります。誰もまた知らないのであります。そこに、日蓮正宗の、尊い意味があるのだと、大聖人様の仏法の値打ちは、そこにあるのだということを、知って頂きたいと思います。 

 それから三番目は法門無尽誓願学ということであります。この仏法の、仏道の正しい教義というものを学びたい、身につけたい、それをしっかりと理解をしたい、把握したいという願いは、みんなこれはだれでも持つはずであります。仏法を行ずる以上は、その仏法の奥底を、その奥義を究めたいと願わない人はだれもいないわけであります。その仏法の奥義を究めるということはどういうことかと申しますと、それは仏法において真実を究める、あるいは又、その久遠の本地を、その奥底を究めたいという一つの願いであります。その久遠の開顕は又、大聖人様の『当体義抄』(全五一三)であるとか、『三世諸仏総勘文抄』(全五六八)等々の久遠元初の開顕をもって、初めてその奥義が究められ、又そのことが説き顕わされたのでございます。そして、大聖人様によって、その久遠即末法の大法が今日打ち立てられておられるわけであります。その久遠を知らずして、久遠元初の大法、妙法を知らずして、この仏法の奥義を究めるということは出来得ないのであります。

 大聖人様は「この寿量品を知らざる者は、法華経の寿量品の文底を知らざる者は、畜生に等しい」(全二一五取意)ということをおっしゃっておられます。それは何故かと申しますと、仏法の上に於ける真実の父が分からない、真実の父親が分からないということなのでございます。本当の親が分からないというのは、これは動物の世界。同じ人間ならば、自分の実の親というものは皆、分かっております。本当の親子の関係が具体的に分かっておるということは、信頼出来るということは、これは人間の世界。犬や猫や小鳥の世界でも一時的には、それは親子の関係は分かるでしょうけれども、本当に自分の父親が、本当に自分の母親が、実の父親であり、母親であるかということが分からないというのが、本当にこれが乱れた社会、又、これは畜生の世界であります。それは同じく信心の世界でもそうでありましてね、正しい信心といわれるならば、久遠以来、正しい師弟の関係、親子の関係、そして仏と衆生の関係が、きちっと法を通して、具体的に整っておるというその道理が、その法義が、きちっと整っておるということが大事なのです。真実の師匠と弟子の、あるいは親子の、主師親三徳の上における関係が成り立ってこそ、本当の真実の仏法と言えるのであります。

 そうした意味で、やはり一切の仏法の奥義を究めるということも、この大聖人様の妙法を離れては、あり得ないのであります。しかし又、奥義を究めるということは大変なことであります。それもやはり具体的に大聖人様の御書の一文一句を、今日一日、たとえ三分でも五分でも十分でも、自分の忙しい一日の中にあって、その時間を割いて、そして一文一句学んでいく、そのことから又始まっていくわけであります。

 先ほど一番最初に申し上げました衆生無辺誓願度、一切の人々を救済していくということも、それも、どこかのだれかが、いつかそのうちに救済してくれる、折伏してくれる、ということだけを思っていたら、これは広宣流布は成り立たないのであります。やはり皆さん方お一人お一人が、先ず自分の兄弟を、あるいはその家族を、自分の友達を、一人一人やはり救っていく。社会の人々を一人でも二人でも、全員がその志の上に立って、やはり精進をしていかなければ、これ又、広宣流布は永久に成り立たないのであります。やはり、その時点その時点、気が付いた時、発心をした時、発心をしたその人が先ず身近な、一番大事な人を救っていく、折伏していく、そのことを日本のみならず、世界の人達が同じ誓願に立って、大聖人様の弟子として精進していく時に、始めて世界の広宣流布ということも、本当にこの世の中に、この大地の上に、事実の上に現すことが出来るのであります。それは又、決して遠い所にあるのではなくて、今日一日、又明日と、皆様方の、お一人お一人の実践の中に、始めてそのことが具現されるということを確信して頂きたいと思うのであります。

 最後に申し上げることは仏道無上誓願証であります。本当の悟りの世界、無上の、歓喜の世界というものは、これ又、大聖人様の妙法を離れては絶対にあり得ないのであります。仏の無上の悟りをわが悟りとしていかんとするならば、やはり正しい真実の仏、真実の正しい教導に則って、善知識に則って、具体的なこの信心の実践を抜きにして、本当の無上仏道の悟り、又、即身成仏の境涯というものは、決して開かれるものではないのであります。

 このように具体的に、四弘誓願の一つを、その実践の方途、又、事実の上において、その精進がなされているかどうか、その具体的な具現の方途が成り立っているかという、そうした尺度でもって、一つ一つを見ていきますと、やはりこの大聖人様の、われわれのこの信心を離れては絶対にあり得ない。諸宗にはその四弘誓願の言葉はあっても、事実の上における具現の道が整っていないということがお分かり頂けると思うのであります。

 どうか皆様方は、われこそ大聖人様の弟子であり、又われこそ本当に具体的なその四弘誓願の実践を貫く者だという誇りを持って、この正宗の信心を全うしていって頂きたいということを申し上げまして、長くなりましたけれども、本日の法話に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年二月二十八日)

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