日蓮正宗のススメ

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身口の業を先ず整えよ

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
身口の業を先ず整えよ

 皆さん、お早ようございます。皆様方も、大聖人様の、『立正安国論』という御書の中の御指南の一つに、

 「悦ばしいかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る」(全三一)

と有名なお言葉のあることをご存じだと思うのであります。この中で蘭室ということは、これは非常に香りの高い部屋という意味でありますけれども、非常に徳の備わった立派な人に交わっていると、やはり自分の境界もその人の良縁に触れて、善知識の教導に触れて、いつの間にか、その人の徳を受けて、立派な人間に改革されていくということをお示しなのでございます。それはあたかも、麻の畑の 中に交じった蓬も、自分ではそんな事を考えて成長していくわけじゃないけれども、いつの間にか麻の感化を受けて、蓬もその徳性を受けていくということを教えておられるのであります。

大聖人様は『衆生心身御書』という御書の中にも、同様な意味のことを、

 「麻の中のよもぎ・つつ(筒)の中のくちなは(蛇) よき人にむつ(睦)ぶもの、なにとなけれども、心も ふれまひ(振る舞い)も言も、なを(直)しくなるなり」(全一五九〇)

ということをおっしゃっておられます。今の麻と蓬の話と同じ様に又、筒の中に入った一匹の蛇というものも、やはりその心根も、その振る舞いも、その行動も、みんなまっすぐに伸びていくということをお説きになっておられるのであります。

これはどういう原理によるかと申しますと、仏法では身口意三業、その人の心、その人の言葉、その人の振る舞い、その三つが整って、はじめて一つの信となるということは、前に申し上げたと思いますが、この信心の世界に自らが入って、そして同じ様に南無妙法蓮華経と唱え、即ち我が身の振る舞いと、そしてその唱える言葉、唱える修行というものがやはり、その立派な善知識の教導のもとに、共にそうした実践の上に立つならば、その人の心根、その人の信心の心というものはおのずからきちんと正されていくんだということを、言われているのであります。

皆さん方の身の回りの中にも、信心に対して不承不承、なかなか燃え立つ心のない、従う心のない、又決意に立って精進する心のない、そういう人も身の回りにいらっしゃることも現実だと思うのであります。やはりそういう人をなんとか参詣をさせる、あるいは座談会なり勉強会なりいろんな会合なり、あるいは折伏の実践のところにその人を共に同道して、一緒に導いて、共に実践をしていく中において、その人も広宣流布の志の上に立っていく、折伏の一念に燃え立っていく人に必ずなっていくのであります。

たとえそういう心根の弱い人があったり、いじける人があったり、あるいは心の曲がった人があったり致しましても、共にその人もこの信心の我々の組織の中にきちっと温かく迎えて同じラインの上に立たせてあげる、そうするといつとはなしに、その人も立派な身口意三業の整った人材に必ずなっていくということを確信して頂きたいと思うのであります。

総本山第二十六世の日寛上人は、その『立正安国論』を御講義されました『安国論愚記』というお書き物の中に、

 「縦い名聞の為にもせよ、若しは利養の為にもせよ、 (その信心の目的が名聞名利のためであったとしても 又利養のためであったとしても)身に妙法の行を立て、 口に妙法の行を説け。或は身を仏前に運び、口に妙名を唱えよ(我が身をこの仏前に運び、そして口に南無妙法蓮華経と共に唱えてみよと)若し爾らば意業は、(その人の心は)自ら妙法の大善に入るべきなり(おのずから入っていくものだ)」(日寛上人文段集五三下)

ということを説いておられます。

同様のことが、やはり『大智度論』というお書き物の中にもございまして、

「人に三業有り(身口意三業の三つの業がある)諸善を作すに、若し身口の業(身業と口業ですね)善なれば意業も自然に善に入る。譬えば曲草(曲がった草ですね)の麻の中に生ずれば、扶けざるに自ら直きが如し(何となれば身を直くすれば心も正しやすきが故なり)」(大正蔵二十五−一六三・A)

ということを説いておられるのであります。やはり身口意三業の中にあって、やはり心が定まっていなくても、おのずからその信心の大道の上に皆と同じ体制の上に立って、皆と同じ組織の中で守られていく間に、その心根もビシッと直されていく。立派な広布の境涯に立ったその振る舞いに、唱える題目の上に、又同じ信心の上に立っていくことができる、ということをいわれているのであります。

同様のことは妙楽大師にも、

 「縦い発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し」(止観弘決一之四=大正蔵四十六−一七〇・C)

という有名な御文がございます。どういう人であったとしても、とにかく私達の組織の上に乗せてあげて、そして同門として、同行の者として、やはりこの同じ立場に立って実践のそのさ中において、みんなが、そうした本物の大聖人様の弟子らしい立派な境涯の人に必ずなっていくことができるということを確信すると同時に、自分もそうしたことをしっかりと心に置いて、家族、一族一門の人達が同じこの信心に立って、まず一家の広宣流布ということを成し遂げて頂きたいと思います。そして又それが青年部であれ、婦人部であれ、壮年部であれ、その各部、各所それぞれの立場において、皆が又そうした同じ志に立って、同じ様に精進していける、又躍動するそうした組織というものを作って行って頂きたいと思います。又それが多くの人々に対する、その教導の場となるということを心に置いて頂きたいと思うのであります。

今日は、身口意三業の中に身を整え、そして口に妙法を唱えるならば、必ず心根もその様にまっすぐ、大聖人様の弟子としてのその心に必ず立つ、身口意三業は厳然として整うということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変御苦労様でございました。

(昭和六十三年二月十四日)

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