日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

一閻浮提第一の正法に依れ

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
一閻浮提第一の正法に依れ

 皆さん、お早うございます。去る三月二日の朝日新聞の夕刊だったと思いますが、ローマの特派員の報告記事が載っておったのでございます。どういうことが載っていたかと申しますと、毎年、ローマの終着駅から五月一日の夜に、奇跡列車という列車を仕立てまして、フランスのルルドの泉という、ヨーロッパでは非常に有名なキリストの奇跡が現れる場所に出かけるというのです。特に癌であるとか、いろんな業病に、不治の病に陥った人達が、その特別列車に全員が乗って、そのルルドの泉にある奇跡を求めて旅をする。そこに行って不思議なルルドの泉の水を飲めば、奇跡が現れるということで、毎年五月一日に大勢の人が送り込まれるということなのであります。

そこで、この朝日新聞の特派員が、その準備をしておる牧師に聞いたのだそうであります。本当にその奇跡が現れるのか、本当に治るのか、治癒した人がいるのかということを聞いたそうであります。その時に二十年間、その奇跡列車を仕立て組織している牧師の言うには「今まで治った人は一人もありません。奇跡が現れた人は一人もありません。けれども、なぜやっているかというと、その奇跡を夢見る権利は誰にでもあることだから、やはり夢を与えて上げなければいけない」ということで、ただ奇跡の夢をみるための列車なのだというのでございます。確かに業病に、不治の病に陥ったときは、やはり奇跡にもすがり、藁をもつかむ気持ちで、みんな求めることは分からないわけではありませんけれども、元来考えるべきことは、因果の道理を無視して、奇跡なんていういうことが絶対に起こるものではないということを考えねばならないと思うのであります。

 それぞれの宗旨・宗派で、やれ業病が治ったとか、粉ミルクで癌が治ったか、いろんなことを言いますしても、結局はその程度のことなのでありまして、本当の功徳とか、本当の力だとか、本当の利益というものは、やはり正しい仏法を行じて、その上において自分の生命力を高めて、そして又、自分で治すんだということでなければ、真実の蘇生ということはあり得ないんだということを、しっかりと心において頂きたいと思うのであります。

私達が病に陥った時、その病を蘇生する力は何かと申しますと、やはり第一は自分の命、自分の蘇生の力、自分にそれだけの生命力がなければ、どんな名医が百人束になっても、どんなに特効薬が発明されても自分の生命力のない人は治すことは出来ません。やはり七十五パーセントから八十パーセントは、治すのは自分であります。そして又、正しい信心によってその生命力をはぐくみ、命の力を高めて、そして又そこに正しい医療というものがあって、そのお医者さんの働き、お薬の働き、本人の意志の働き、そして又、温かい看護、大勢の皆様の激励、そういういろんなものを加味して、総合戦で立ち向かって、そしてそれを克服するということが大切なのであります。ただ一つの奇跡を求めて、そして病が克服されるものではないということを、われわれは心に置いておくべきと思うのであります。

 大聖人様は『唱法華題目抄』に、

 「但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とに はよるべからず」(全一六)

ということを御指南遊ばされております。いろんな宗旨で、いろんな奇跡だとか、いろんな通力だとか、あるいは霊能の力だとか、いろんなことを喧伝する人がおりますけれども、一切そういうものに惑わされてはならない。法の邪正は、法の正しさというものは、やはり正しい道理と正しい法門と、そして又そこに因果の理法というものが整っていなければなりません。もしそのようなことを言うならば、そのようなことが言える原理と道理と文証と、その又、事実による現証がきちっと整っておらなければ、主張することは出来ないのであります。

しかも又、大聖人様は『松野殿後家尼御前御返事』という御書の中に、そういう諸宗の輩に対しまして、そういう功徳がなんらかの進展があったように見えるようなことであったとしても、

 「但目をこやし、心を悦ばしめて、実なし。華咲いて菓なく、言のみありてしわざなし」(全一三九二)

ということをおっしゃっておられます。諸宗の小利益というものは、それは一種のあだ花のようなものであって、たとえば芽が出たと致しましても、それは葉だけが繁って花が咲かない。あるいは菓が成らない植物のようなものだ。たとへ花が咲いたように見えても実が成らない。あだ花で終わってしまうようなものなのだということを、大聖人様は喝破遊ばされていらっしゃるのであります。

 諸宗の功徳というものも、なんらかの功徳があったように実は見えるんです。その見えるということが恐ろしい。なんらかの良いことがあったように見えるということが、これ又、人を惑わす根本の魔の働きなのであります。あの時はあれで治った、確かにあれで良いことがあったということになりますと、いつまでも、いつまでもそのことに執着して、そして正しいものが見えなくなってしまう。正しい道理によって正しく判断することが出来なくなってしまうというところに、謗法の小利益の恐ろしさというものがあるのであります。それは一種の麻薬のようなものでありまして、確かに麻薬にすがった時には有頂天になって、やはり楽しい気分になって、何もかも忘れて、その時は確かに良い思いが致します。ですけれども、その結果に於て何が待っているかと申しますと、結局そこから抜けられない。そして又、その人の心と、その人の体と、その人の生活と、その人の命の全体にわたって、それを蝕んでしまうというところに、麻薬の恐ろしさというものがあるわけです。今いろんな宗旨で、いろんな新聞だとかテレビだとか、マスコミを通じて、大宣伝をして、こんなに良いことがある、あれも治りました、これも治りましたと、いろんなことを宣伝致しますが、みんな諸宗の小利益はその程度のものだということを、しっかりと、われわれは喝破していかなければ、打ち破っていかなければいけないと思うのであります。

 又、大聖人様は『諌暁八幡抄』という御書の中に、

 「現在に一分のしるしある様なりとも(世間の宗旨の 言うところのそうした利益が現在に少々あるようなり とも)天地の知る程の祈とは成る可からず(末法万年 の人々を、万人の総てを救うというほどの大きな功徳 には絶対にならない)」(全五七七)

ということを御指南遊ばされておられます。

 「魔王・魔民等、守護を加えて法に験の有様なりとも 終には其の身も檀那も安穏なる可からず」(同 上)

やはり、いつまでもそういうものに執着して侵されますと、先ほど申し上げました麻薬のように、麻薬にかかって、結局その麻薬によって命を台無しにしてしまうように、謗法に、そうした小利益にこだわっていますと、結局、その人の命の全体を蝕まれてしまうんだということを、大聖人様は『諌暁八幡抄』に説かれております。

 大聖人様のこの御本尊を根本にした一閻浮提第一の正法は、やはり御本尊が一閻浮提第一、その法義が一閻浮提第一、そして又、十界の衆生をことごとく救済するその原理としての一念三千の十界互具の働きが又、一閻浮提第一、その力が一閻浮提第一ということは、同時に又その功徳が一閻浮提第一なんだということの確信を、一人一人が持って頂きたいと思うのであります。

 『当体義抄』に、「煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱へと転換する」(全五一二取意)ということを、大聖人様は教えていらっしゃいます。一人一人の命に染み込んだ過去世の罪障といわず、業苦といわず、その一切を、煩悩を菩提へと転じ現すところの力を持った、この真実の救済の仏法というものは、この大聖人様の妙法を離れては絶対にあり得ない。それほどの大きな、広大な功徳と、その働きと、その法門を持った教えというものは、この大聖人様の御本尊を離れては絶対にあり得ない。という強い確信を持って、これからも堂々としたこの正宗の信心を全うして、そして病のある人はその病を克服し、煩悩に汚れた命は又、菩提へと転換し、不幸せのもとに生まれた人はその不幸せを幸いへと転換していく。ということが大切なんだということをお考えになって、これからもこの信心をどこまでも生涯にわたって全うして頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十三年三月六日)

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