日蓮正宗のススメ

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無財の七施(二)

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『日曜講話』第五号(昭和63年11月1日発行)
無財の七施(二)

 皆さん、お早うございます。先週の日曜日から一銭も掛けずに家庭を円満にする法、円満に人とお付合いができる方法があるということで「無財の七施」ということを申し上げまして、先週は「眼施」やさしい眼差しを人に贈る。あるいは又、人に接する時には、言葉というものを、そういうやさしい言葉をもって人に接するということが大事だというようなお話を申し上げました。そういうことは幾ら大勢の人に施しても、自分の労力が、エネルギーが消耗されるわけでもない。それほど無尽蔵にある「無財の七施」ということを申し上げたのであります。

 今日はその続きと致しまして、第四番目に「身施」身を施すと書きますが、この身施ということが、やはり大切だと説かれているのであります。これは、お家の中にあっても、あるいは会社なら会社にお勤めになりましても、あるいは目上の方に対して、父母に対して、同志の間で、我が家の中にあって、身をもって接すると言いますか、骨惜しみをしないと言いますか、そういう丁重な振舞いをもつ。つまり礼節を良く弁えて、そして何事にも率先して実践をするという、そういうことを心掛けていくことが必要なのだということであります。何か行動が遅い、人から言われて言われてようやくやる人と、言われる前に先々、気が付いて出来る人と、言われても言われても、なおかつしない人と、人間には大きく三つのタイプがあるように思うのであります。たつた一言、「お早うございます」と言うことだって自分の方から呼掛ける人と、言われて仕方なしに返す人と、言われても知らぬ振りをする人とあるわけです。挨拶ということは単純なことでありますけれども、しかしそれは、こちらからするということを心掛ける。物事は先手必勝ということがありまして、上司の方にお会いした、あるいは電車の中であろうと道路の通勤の途中であろうと何であろうと、こちらから行って、こちらから頭を下げて、こちらから声を掛けるということだけでも、その人の信用と言いますか「ああ、あの人は礼儀を弁えた人だ」「あの人は丁寧な人だ」「何事も誠意をもってする人だ」というような評価というものは、えてしてそういう小さなことの実践から物事は始まるのであります。皆様方のお子さんが、学校に行く途中に、隣のおじさん、おばさん、近所の皆さん方に対しまして、一言「おばさん、お早うございます。おじさん、お早うございます。」と言ってごらんなさい。「お宅のお坊っちゃんは、お宅のお子さんはどんな教育をなさっているのですか」と急に評価というものが変わってくる。近所の、お隣のおじさんに会っても知らん顔している子供、あるいはお尻を叩いて逃げて行く子供、悪戯をして逃げて行く子供、平気な顔している子供というのと、たつた一言、「おじさん、お早う。おばさん、お早う」と言っただけで、お宅の子供さん、お宅の中、いわゆる家庭の評価というものは本当に違ってくるものであります。

 ですから、たった挨拶と言いますけれども、それは非常に大事なことでありまして、例えば大勢の方が集まって顔を会わせた時に、一言挨拶すれば良かったのだけれども、それを逃したために、今さら挨拶するのもおかしい、今から声を掛けるのもおかしいといって、悶々として帰ってしまうというようなことだってあります。その時を失してしまうと、やはりタイミングが悪いものでありまして、タイミングが悪いというと、いつまでも経ってもタイミングが悪い。ですから何事もこちらから声を掛ける。やはり知っている人に会ったら、こちらから声を掛けるという風に是非やって頂きたい。お家の中も奥さんと御主人というものも、四六時中、顔を会わせているから、家族は遠慮して、そういうことは構える必要はない。そんなことは一一煩わしくてと言うかも分かりませんけれども、お家の中で子供がお父さんに挨拶をする。父親が子供に声を掛けてあげる。奥さんが朝起きて一番に子供に声を掛けて、あるいは御主人に声を掛けて、その反応を待って、その日の健康状態が一瞬にして分かる。あるいは、その頃その時の気持ちが即座に判断できるという位に、又、挨拶というものは大切なものなのでございます。是非そういう「身施」ということを良く考えて頂きたいと思います。

 昔の人の言葉に「下がるほど、その名は上る藤の花」という川柳があります。藤の花というものは、藤棚にその花びらが重く垂れ下がるほど、その藤の値打ちは上がっていくものだということです。又、稲穂というものも「実るほど、頭の下がる稲穂かな」ということを言います。やっぱり稲というものは、実がたわわに実れば実るほど、頭が垂れていく。ですから人間も、ツンとして、胸張って威張って歩いているというのは、内実のない人です。むしろ中身の濃い人は自然と頭が下がって、人に対して虚勢を張って威張る必要もない。虚心担壊に、そのままに振舞っていれば、その人は段々と頭が下がってくる。一日に三十回こうべを下げたから、あるいは一日に五十回、頭を下げてたからといって、そんなにエネルギーが減るものでもない。御飯一杯違うというものでもありません。決して労力を惜しんではいけないということです。むしろ頭をが下げれば下げるほど、人の評価は上がっていくものだという風に考えて頂きたい。ですから何も頭を下げるのは御商売をしている人だけが下げるのではないので、サラリーマンであろうと、どういう仕事をしていても、むしろ謙虚に、こちらから声を掛け頭を下げて、そして下手、下手に出ていれば評価は、うんと逆に上がるものだという風にお考え頂きたいと思います。

 大聖人様は『上野殿御消息』という南条さんへの御手紙の中に、

 「友達の一日に十度・二十度来れる人なりとも(一日に 十回も二十回も顔を合すような友達であったとしても)千里・二千里来れる人の如く思ふて、○一切あはれみ慈 悲あるべし」(全一五二七)

ということをお説きになっていらっしゃいます。毎日毎日顔を合わす人であったとしても、机を隣に並べている間柄であったとしても、やはり千里・二千里、遥ばると訪ねて来たという人と同じような気持ちで、その人と接しなさいということを、大聖人様は教えておられるのであります。ですから夫婦の中ほど、むしろ毎日毎日、一生涯、夫婦の間で過ごすのですから、夫婦の間こそ、一つの礼節をきちんと守って、清々しく、お付合いをしていくということが必要だと思うのであります。そういうことを励行しておる人は、いつの間にか人から親われ人から敬われる。そういう人間的な評価を必ず得ていくということを説かれているのであります。

 その次は「心施」と申しまして、やはりお家の中で両親に対して、あるいは目上の人に対して、沙門に対して同志の皆さん方の間において、やはり和やかな善心をもって人に接するということであります。ですから昔から「万能足りて一心足らず」ということが言われます。非常に才能もあり何事をやらせても、そつなくやり、頭も良いし、何事もできるのだけれども、どこか心が足りない、思いやりが足りない。自分のことだけは一生懸命するけれども、どうも人は構わずと言って、自分だけという人が中にはあります。非常に才能もあり、物事、仕事も良くやるけれども、何かちょっと心に棘があったり、あるいは冷たかったり、思いやりがないというような人があります。ですから信心の心、慈悲の心、人を思いやる心、人の痛みが分かる心ということが、人間の一つの徳、その人の品格を築き上げる要素となると思うのであります。『法華経』の「普門品」に、         「慈意の妙は大雲のごとく、甘露の法雨をそそぎ、煩脳の焔を滅除す」(開結六三五)

ということを言われております。やはり慈悲の心が大切だということが説かれておりますし、大聖人様は、『十字御書』の中に、

 「さいわいは心よりいでて我をかざる」(全一四九二)

ということを言われております。又、有名なお言葉に、

 「蔵の財より身の財すぐれたり、身の財よりも心の財第一なり」(全一一七三)

と、大聖人様は四条金吾さんに対して懇々と教えられておられます。やはり心の財というものがあって、そこに又、身の財が具わり、そして蔵の財も、その心の財の根本の上に具わってくるものだということであります。心というものは、なかなか実体のないもので身体を分解して、あるいは内臓を開いて、心というものが見えるものではありません。しかし、心が我が身の中にあるということは間違いない。どこにあるということは言えないけれども、物理的に、肉体的にどこに心が存在するかということは決して証明できるものでないけれども、あるということは間違いない。そこに又、疑心だとか貪欲だとか瞋恚だとか、愚痴だとか、そういう心ではなくて、どこまでも清々しい信心の心、人を思いやる慈悲の心というものが、やはり自分の宝物だとして一つ大切に育んでいって頂きたいと思います。

 最後の二つは、直接的に家庭の姿、我が身の振舞いということとは関係ありませんけれども、無財の七施の六番目に「床座施」僧坊において、あるいは講法、つまり法が説かれる所において、座席を譲るということが大切だということが説かれています。これは『法華経』の「随喜功徳品」というところに、

 「若し復人有って講法の処(つまりこのように御説法が されている寺院なら寺院、座談会なら座談会、会合なら 会合の座席において、その座を)○人の来たること有らんに、勧めて座して聴かしめ、若しは座を分って坐せしめん、是の人の功徳は○其の福尚無量なり」(開結五三五)

と説かれております。ですから、こういう寺院に参詣した。あるいは又、色々な会合等々に、自分より後から来た人に半座を分かって、又座を分かち共に聴聞する。共に法を聞く。むしろ身体の不自由な人が来れば、その人に又、座を譲って自分は立ってでも聞く。そのように半座を分かち、又お互いに座を分かって共々に、この妙法の悦びを、聞法の徳を積んでいく。そのことが大切だということを説かれております。

 その次は休養する家を施す。「房舎施」と申しましてよくお家を座談会の拠点に開放したり、あるいは自分の家をもって色々な会合等々の拠点にしておられるお家があります。それも又、広布のために我が家を大勢の皆さんに開放して、そうして共に信心の向上と、その深化を計っていくために、我が家が単なる住まいということではなくて、広布のために、妙法流通のために、我が家を提供するということも、これは非常に大きな徳を積むことになるのだということであります。安住して、そういう御家庭は、必ず歓喜の満ちあふれた、そういう徳の輝く御家庭になっていくということが説かれているのであります。一つ広布の拠点として我が家を提供して頂きたい。確かに煩わしいこともある。大勢の人が三三五五、努めて一生懸命、朝から晩まで唱題をする。ですから自分の静かな我が家ということでは言えないかも分からない。逆に反面、大勢の人に、そうやって信心のために我が家を提供し、常に題目の声が響きわたっておるという、そのお家には、それなりの功徳が積み重なっていくのだということが説かれているのであります。どうか、そういう拠点を提供している御家庭の皆さんは、それだけの福徳ということを確信して、今後とも大勢の方々のために、我が家を一つ開放して頂きたいと思うわけであります。

 このように「無財の七施」というものは、何もお金をかけてやるものでもない。自分の心一つ、自分の振舞い一つ、自分の言葉一つ、それでもって大勢の人に本当の和やかな人間の愛情やその品格を、無尽蔵に、その人々に施すことが出来るということが、やはり仏典に説かれているのであります。こういうことも一つ心に置いて、我が身、我が心、我が振舞い、我が言葉というものを、より大勢の人々に対しても信頼をかち得る基として、これからも心して、その福徳を積んでいって頂きたいと思う次第であります。今日はそのことを申し上げまして、御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十二年九月二十七日)