日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

七宝について

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
七宝について

 田 辺 道 紀 代 講

 皆様、お早うございます。本日御参詣の方々の無始以来、謗法罪障消滅、信行倍増、家内安全、一切無障碍、現当二世におきまして心願満足、大願成就の御祈念を、又、皆様一人ひとりの御一家の御健勝と御繁栄の御祈念を懇ろに申し上げました。又、本日願い出のありましたお塔婆供養、それぞれお立ていたしまして、命日ならびに回忌の追善供養、懇ろに御回向申し上げました。本日は御住職様が海外出張のため、私が日曜講話を代行させて頂きますが、御住職様は十一月の三十日から海外へ行かれて、今月の十八日にお帰りになる予定です。その間、日曜講話は少しの間ですが代行させて頂きたいと思います。

 本日は七宝ということで少し話をさせて頂きたいと思います。七宝というのは七つの宝、七宝財という風にも言っておりますが、『法華経』の「見宝塔品第十一」というお経の中に、七宝ということで、「金(こん)、銀(ごん)瑠璃(るり)、・・(しゃこ)、碼碯(めのう)、真珠、・瑰(まいえ)」(開結三九九)という七つの宝物を挙げております。現在の世の中におきましては、金(こん)・銀(ごん)というのは、一般に金(きん)・銀(ぎん)と呼んでおりますけれども、その金、銀の前に先ず、ダイヤ、それからサファイア、プラチナとか、そういった、なかなか手に入らない物が一番最初にくるわけでありますけれども、この当時、お釈迦様の時代には、金、銀、瑠璃、・・、碼碯など、それぞれが一番高価であり、又そういう物しか宝物として通用していなかった。ダイヤとかそういった物は、まだ流通されていなかった。そういうことが想像されるわけです。

 今日は、こういう物質的な価値のある七宝ということではなく、仏道修行においての七宝ということで話をしていくわけです。つまり仏道修行の上で肝心な七つの宝財、七宝財のことです。

 『御義口伝』上の中に、

 「七宝とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり。又云く頭上の七穴なり。今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり云々」(全七三九)

とあります。聞とは正法を聞くこと。信とは正法を信受すること。戒とは身・口・意の三業にわたって正法の教えを守り、非を防ぎ悪を止どめる。金剛不壊の戒のことを言います。金剛不壊というのは絶対に壊れることがないということです。その金剛というのは堅固という意味で、どんなものにも壊れることがないということ。又、不壊というのは絶対に壊れないということです。そして定というのは安心立命の境涯、揺るぎない人生、又そういった境涯のことをいうわけです。それをきちっと定めていくということが定です。進とは精進行、勇猛精進という風にいいますけども、その精進行の進です。そして捨とは不自惜身命の信心で、自らの私情を捨てて仏法を求め、他人のために施すの喜捨をいいます。ですから自分の命を捨ててまでも仏法を求めて、そして他人のために色々なことを施していくということが捨であります。慙(ざん)とは自らに恥じ反省することであります。これら七つを七宝という風に呼んでいるわけであります。こう言われただけでは、七宝が自分達に具わっているということが、なかなか分からないものであります。

 しかし、大聖人様は、先ほど言った『御義口伝』の中に、「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは有七宝の行者なり」と仰せです。

又、『阿仏房御書』にも、

 「末法に入って法華経を持つ男女の、すがたより外には宝塔なきなり。(中略)阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり。聞・信・戒・ 定・進・捨・慙の七宝を以てかざりたる宝塔なり」(全一三〇四)

と仰せであります。ですから正しい御本尊を受持して、お題目を唱えている人は、どんな方でも必ず七宝の一つひとつが、みな具わっているわけであります。

 又同じく「見宝塔品」というお経の最初には、

 「爾の時に仏前に七宝の塔あり」(開結三九九)

という風にあります。「宝塔品」の名前の由来・理由もそこにあるわけです。「宝塔品」に説かれているところの七宝は、先ほども言った、金、銀、瑠璃、・・、碼碯、真珠、・瑰ですが、その七つの宝に飾られた塔が虚空に立って、釈迦、多宝の二仏が塔の中に並座し、その他に諸仏・諸菩薩が集まって、虚空会の儀式というのが始まるわけであります。皆さんも二処三会ということを聞いたことがあると思いますけれども、そういった儀式の中で、二処というのは二ヶ処の場所を言うわけです。すなわち虚空と霊鷲山とに分けて、『法華経』の説法をしていくわけでありますけれども、「宝塔品」に入って、この「宝塔品」から虚空会の儀式になるわけであります。

 その儀式を行うということは、どういう意味があるのかというと、教主のお釈迦様や、又その座に連なった方々は、己心の十界互具・一念三千を顕すのであります。この儀式を借りまして、大聖人様は寿量品文底下種の法門を一幅の御本尊にお顕しになったのでありまして、この御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えるところに、又、この御本尊様をしっかりとお護りするところに、自然とその一念三千の法門や、又、十界互具の法門が必ず具わってくるわけであります。他宗で言っている御本尊というのは、お経本の中に説かれている架空の人物であったり、又、色々な仏様と言われている方々は誰も実際に見たことはありません。ただお経の中に説かれているだけですから、本当に知っている人は一人もいない。それを今現在の他宗においては、こういう顔をしていただろう、手はこんな風にし、坐っていたとか、又は立っていたとか、そういう姿で私達を救ってくれるんだという風に言って、それを仏像として彫ったり描いたり、色々な処に安置したりしているわけです。実際にそういった仏様を見たのではなく、想像で現しているだけです。今の世の中の人達の中に、必ずこういう風であったと言い切れるという方は、いらっしゃらないわけです。ずっと昔からのそういった伝承で、こういう顔をしてただろうという風に言うだけであって、本当のものではない。又ましてや、その仏像は、同じ仏でも、一人ひとり彫る人によって、顔つきが全然違ってきたりしています。又、どの仏様でも全く同じような顔をしていたりということがあるわけです。

 そういうことの上に、さらに邪宗の方で言っている御本尊として拝んでいる仏というのは、一念三千の法門、又、十界互具という法門、それから因果倶時、その他の色々な大切な法門が備わっていないわけであります。そういった権(かり)の教えの信仰をしているのでは、本当の正しい、仏法の究極の教えであるところの即身成仏という悟りの境涯は得られません。そういうことではなくて、この日蓮正宗の正しい信仰によって、本当の即身成仏をする。私達自身が、その身そのままの体で、今現在、生きているうちに成仏できるわけですし、又、亡くなった方も追善供養することによって成仏ができるわけです。それを説くところが、この御本尊の有難さであって、又、功徳なのであります。

 さらに七宝とは「又云く頭上の七穴なり」(全七三九)とありますように、顔にある七つの穴のことでもあります。すなわち目が二つ、耳が二つ、そして鼻の穴が二つ、あと口の穴が一つということから、これを七穴と言います。この七つの穴があるために、今現在の社会現象をしっかりと認識し、間違ったことがないように判断をして、人生も進められるわけであります。もし目が見えなかったら途中でつまづいて怪我をしてしまうし、又、耳が聞こえなかったりしたら平衡感覚も失われますし、又、色々な人の言っていることも聞こえないので、間違った方向へ行き易いわけであります。又、鼻の場合は、色々な腐ったような匂いの変な物を知らずに食べてしまって、やはりお腹を下してしまったりということがあります。そういうのは鼻で見極めるわけです。又、鼻でわからない時は口で味わって、これはおかしいのではないか、これは腐っているのではないか、毒ではないかというのが口で分かる。そういう風にして、七つの穴で必ず確かめることができるわけです。今の世の中において、リクルート問題が起こって世間を大変騒がせておりますけれども、以前には一度、創価学会ということで、色々と週刊誌や何かでたたかれたこともあります。しかし、週刊誌や何かでも、中にはいい加減なことを書いてあって、読んでみると、こうであろうとか、ああであろうとか憶測でものを言っているものがある。確信をもって、こうである、ああであるという風に言っているのではないわけですから、そういうところから見ていくと全く訳も分かりもしないで、いい加減なことを出しているというところがあるわけです。そういうのに紛動されないようにしていくのが、この目、耳、鼻、口の七穴でもって、しっかりと認識し、判別し、そうして私達のやっていることは、絶対に正しいのだという確信を持っていかなければならないわけであります。そういったことを、又、そういう優れた七宝を身に備えることによつて、ありとあらゆる煩悩に充ち溢れたこの世の中において、正しい道をまっすぐに進んでいくことができるのです。これが七宝を身につけた有り難さであります。

 七宝に飾られているというのは、御本尊を信じて、お題目をあげている私達の体のことであり、又、南無妙法蓮華経そのものであるという風に、大聖人様はおっしゃっているわけであります。従って、これらのことを知らない人達に、私達は、しっかりと教えていくということが、折伏にもつながってくるわけです。

 さらに大事なことは、七宝に飾られた宝塔、つまり南無妙法蓮華経の法体を、大聖人様が御本尊様として顕されて、私達、末法衆生に授与されておられるということです。又、七宝ということについて、色々な解釈の中から、大聖人様が、今の世の中に、又、仏道修行の上において、一番大切な意味というものを、私達にお教え下さっているということであります。

 今日は七宝ということで少し話をさせて頂いたわけでありますが、又、来週は別な話を何か用意いたしたいと思っておりす。よく一般世間の方々から、「信仰をしていて何でそんなに苦労があるのか」というようなことを言われますので、そのことについて、少し話をさせて頂きます。今日は御静聴ありがとうございました。

(昭和六十三年十二月四日)