日蓮正宗のススメ

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無財の七施(一)

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『日曜講話』第五号(昭和63年11月1日発行)
無財の七施(一)

 皆さん、お早うございます。今週と次の日曜日にかけまして、一銭もお金を掛けないで家庭を円満にする方法を教えてあげたいと思うのであります。これはコロンブスの卵でありまして、聞いてみると何でもない当り前のことだという風に思われるかも分かりませんが、これは仏典の『雑宝蔵経』という御経の中に「無財の七施」ということが説かれているのであります。この七つの宝物は一人一人の人が皆、自分の命の中に持っておりまして、しかもそれは、無尽蔵、尽きることのない宝物を皆様方が、お一人お一人持っていらっしゃるということなのであります。その七つの宝物を自分の父親や、あるいは奥さんや子供や、又、同志の方々や世間の方々に振舞って上げるならば、それは又その人の立派な徳となって返り、家庭も、そして又、職場なら職場でも、兄弟の間でも、親戚の間でも、必ず和やかな人間関係が切り開かれていくということが説かれているのであります。

 その七つの布施と言いますか、七施の中の一つは何かと言いますと「眼施」眼を施すということなのであります。これは、ただ自分の目を他の目の不自由な方に差上げるというような意味ではなくて、やさしい眼差しというものを人に与える。言うならば、やさしい眼差しをもって、慈悲の眼差しをもって、人に接するということが大切だということを教えておられるのであります。これは『法華経』の「普門品」に、

 「一切の功徳を具して、慈眼をもって衆生を視る」(開結六三六)

衆生を見る時にはやはり慈悲の眼をもって見る。お母さんが我が子の振舞い、子供の遊んでいる姿、あるいは、いたいけない子供が一生懸命何事かに集中しておる時、そういう我が子を遠目に見ておる姿。その眼というものは、やはり子供に対する愛情の心をもって、その眼をもって子供さんに接しているわけであります。お母さんが赤ちゃんのおしめを換える時に、ああ嫌だ嫌だ。ああ憎たらしいと思っておしめを換えているお母さんはいないはずであります。我が子の成長を願い、言うに言われぬ母親の愛情をもって赤ちゃんに接しているわけであります。そうした眼を自分の夫と言わず子供と言わず、あるいは沙門と言わず師匠と言わず、世の中の人々に捧げていくならば、必ずそれは自分の徳となって返ってくるということを教えているのであります。ですから悪眼、悪い眼。それから疑いの眼。怒りの眼。蔑みの眼。軽蔑した眼。眼でも色々な眼があるのであります。そうした中で、やはりその人の穏やかな慈悲の眼をもって人に接していくならば、その人の目は、いつの間にか清浄の眼となって、しかも成仏した暁においては、その人は仏眼を具する。仏の眼を、いつとはなしにその人の眼の中に住していくことが出来るということを教えておられるのであります。

 又『法華経』の「化城喩品」の中にも、

 「願わくは世尊の如く、慧眼第一浄なることを得ん」(開結三四九)

ということを言われております。眼でも二乗の智慧の眼もあれば、菩薩の法眼、法の眼もあれば仏の慈悲の慈眼というものもあるわけであります。そうした五眼が自分の、単なる肉眼そのものであるけれども、その中に裏打ちされて法の眼も、仏法を行ずる者は、仏法を行ずる者の法の眼も智慧の眼も、仏眼もその人の目の中に具わってくるということを説かれているのであります。そうした眼はもはや、単なる生れたままに持ったところの肉眼ではなくて、やはり磨かれた仏法の功徳と、仏法を行ずる者の慈悲の眼が具わった、つまり五眼の眼に変わっていくということを教えているのであります。

 二番目に申し上げたいことは「和顔悦色施」(わげんえつじきせ)ということを申しまして、人に対する時に、言うに言われぬやさしい笑顔をもって接するということを、和顔悦色と説かれているのであります。常に穏やかな、にこやかな、温かい笑顔でもって、父母や、そして又、沙門や同志や世の中の人々に接していく。笑顔と言っても作り笑いもあれば、嘲りの笑いもあれば、中傷の笑いもあれば、色々な笑いがあります。その心に棘のある笑いではなくて、本当に穏やかな笑顔をもって人に接するということが大切であります。今日の勤行の「寿量品」の中にも「柔和質直」ということが説かれております。やっぱり柔和な人には柔和な笑顔というものがあるわけでありますし、『法華経』の「安楽行品」に

「微妙の義を以て和顔にして為に説け」(開結四五五)

ということを言われております。やっぱり人に法を説く時の顔というものは、怒りに狂った顔で法を説いても人は聞いてくれるわけがありません。相手を蔑んで、相手を馬鹿にして、そして法を説いても決して相手が聞いてくれるわけでもない。やっぱり笑顔で接して温かみのある顔形の上において法を説いて、初めて人は和やかに聞いてくれるわけで、心を開いてくれるわけであります。

 大聖人は『上野殿御消息』南条時光さんへの御手紙の中に、

 「親によき物を与へんと思いて、せめてする事なくば 一日に二三度笑みて向へとなり」(全一五二七)

ということを説かれております。本当に自分の父親、母親に対して何か差し上げたい、何物かを上げたいと思って何もないとするならば、一日に二度三度、親に自分の笑顔を送って上げる。笑顔を見せるだけでもそれが親の孝養につながっているのだということを言われております。もし仏前に何も供える、供養する物がないとするならば、自分のにこやかな笑顔を仏前に供えるだけでも、それが功徳となるということをおっしゃっているのであります。そうしたことは自分の家庭の中にあっても、職場の中にあっても、いかなる場所においても、そうしたにこやかな笑顔を皆に注いであげる。そうした笑顔でもって人に接するならば、必ずその場は、その所その所において、和やかな雰囲気に変わっていくはずであります。ましてや、人に法を説く、折伏を行ずる、その時の自分の顔、振舞いというものは、そうした穏やかな笑顔に包まれておるということが大切なのであります。こういう人は未来において、必ず端正な容姿の持主になるということを説かれております。自分の一生を通して人を怨み、あるいは猜疑心の固まりみたいになって過ごす人の一生の未来というものは、やはり所詮そういう人間であります。ところがやはり、慈悲の眼を持ち、穏やかな笑顔をもって人に接する。家族に接する。そうした生涯を生きた人の容姿は、必ずその姿形が又、次の生にも関わって来るのです。和顔悦色の大切さを説かれているのであります。

 三番目に説かれていることは「言辞施」と申しまして、言葉の布施ということであります。言葉をもって人に布施をする。どういう言葉かと言うと、やはりやさしい言葉です。ぞんざいな言葉であったり、無礼な言葉であったり、それから又、言葉には綺語と申しまして、あんまり作ってしまった言葉、あるいはは両舌と申しまして、こっちで好いことを言い、又あっちで好いことを言う二股膏薬で、常に好いことばかり、いわゆるお世辞を言いまくるというようなことでも、これ又いけないわけです。ましてや妄語と言いまして嘘、あっちで嘘をつき、一つの嘘が又、二つ、三つ五つ。とにかく嘘に嘘の上塗りをするということであってはいけない。それから又、悪口。あっちでは人の悪口を言い、こっちでは人の悪口を言い、しかも自分の所ではなくて世間にそういうことを言いまくる、吹聴して回る。これはとんでもない一つの悪業を重ねることにもなります。従って、『法華経』の「法師品」の中に、

 「もし人一の悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん。其の罪甚だ重し」(開結三八六)

ということが説かれております。ましてや、お互いに正しい信仰を持った人間の中にあって、同志の中にあって、人の悪口や人の誹謗、中傷等々を吹聴して回るということは本当に恐ろしい大きな謗法を重ねることになるということを考えて頂きたいと思います。ひるがえって、『法華経』の「方便品」には、

 「言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ」(開結一五四)

「言辞柔軟・悦可衆心」ということが説かれております。やはり、自分の発する言葉は、柔軟な言葉をして衆生の心を悦ばしめるということが大切だと説かれております。

 有名な『十字御書』の中にも、

 「わざわいは口より出て身をやぶる」(全一四九二)

ということを言われております。ですから、やはり好い加減な言葉、あるいは人に言ってはいけないことを言う。あるいは人の悪口だとか人の噂だとか常にそういうことをもって、週間誌のようなスキャンダラスなことを常に吹聴して回るということは、如何にいけないことであるかということを考えて頂きたいと思います。言葉の上におけるやさしさ、愛情というものも又、大切なことであります。しかし、こういう話を聞いたからといって、途端に今日、家へ帰って、やさしい言葉や、丁寧な言葉で物を言い出しますと、急に家族はびっくりしてしまって、今日お寺へ行って、みんな気が狂ってしまったのではないかと心配するかも分りません。しかし、それも皆様方が一週間なら一週間、それを励行してごらんなさい。そうするとやはり、ああなるほど、あの人は段々と眼差しも変わってきた、言うことも変わってきた、普段の顔も変わってきた、如是相も変わってきたということになりますと、世間の人も家族の人も、皆様方の信心の値打ちを認めてくれるようになるわけであります。そうしたことを心に置いて信心をしていきますと、いつとはなしに六根清浄と申しまして、眼も口も心も、皆、仏のような、つまり自分自身を何等、改めることなく自分の姿形の中において、そうした人格や、その人の品格がそこに具わってくるのであります。信心を通して人間を改革、向上せしめる、そうした実証が我が身の上に必ず現れてくることを確信して頂きたいと思うのであります。そのためには、言葉使いというものも、やはり、やさしい相手を思いやる言葉が大切なのであります。常にぞんざいな言葉、あるいはその言葉が悪いという人は、結局、又それは心もぞんざいになり、言葉がぞんざい、常に投げやりな言葉を発するという人は、心がそれだけ乱れておるということにもなるわけであります。そうした言葉使いから気を付けているとその人の心も、その人の命も変わってくるという事を良く皆様方も心の隅に少し置いて考えて頂きたいと思うわけであります。今日は、そうした相手に対して、慈悲の眼をもって接する。笑顔をもって接する。そして又、やさしい言葉使いをもって人に接するならば、相手も変わり、又、自分自身も変わってくるという事を申し上げて本日の御挨拶に代えさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十二年九月二十日)