日蓮正宗のススメ

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臨終に於ける身業清浄

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
臨終に於ける身業清浄

 皆さんお早うございます。先週の朝は臨終の人の言葉ということについてのお話を致しました。今日はその続きと致しまして、臨終の人の相、臨終の貌相ということについてのお話を申し上げたいと思うのであります。 大聖人様は御承知のように『千日尼御前御返事』という御書の中に、

「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し」(全一三一六)

と言われています。千引の石というのは非常に大きな石ということの譬えでございまして、人でいうならば千人位の大勢の人がようやく引き出せる程の大きな石という意味ですね。

「善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終の色変じて白色となる。又軽き事、鵞毛の如し」(同   上)

色白のほかに、この鵞毛とは、鵞鳥の毛の軟らかいことを言い、ふわふわした軽いことに譬えておられるわけですね。

 「軟なる事兜羅綿の如し」 (同   上)

木綿の綿のように軟らかいという風に、大聖人様はお説きでございます。私達もよく皆さん方のお家にお葬式だとかお通夜だとかいろんなことでお伺いをするのでありますが、やはりだれ一人として、嘆き苦しんでわめいてその地獄の様相で亡くなった人は、ただの一人も私達は見たことがありません。

 東京のある火葬場に勤めている方の話を一度聞いたことがあります。毎日毎日いろんな方の骨拾いの場に付き合って、いろんな宗旨の人の最後の姿を見届けている人達であります。その人達によると、日蓮正宗で亡くなった人の上がって来たお骨というものは、みんな諸宗の人のお骨に比べて、遥かに色が白い。やはり素晴しいと言うのです。われわれはそんなことは気がつきませんけれども、その焼き上がったお骨にまで、正宗の信心を本当に命がけで骨の髄にまで達するほど、お題目を上げ切った人とそうでない人との姿は、ただその臨終の姿だけではなくて、骨の相にまで現われてくる。やはり骨髄に達するほど、題目を上げることが大切なんだということを、そういうことからも言えると思うのであります。そういう所に勤めていらっしゃる方の言葉の中に、やはり正宗の人で一生懸命題目を唱えた人は違うということを言われておることも、一つ心に置いて頂きたいと思うのであります。

先週御紹介致しました『心地観経』の「嘱累品」の中に、しっかりとした信心を貫いた人の臨終の身の上に現われる姿として、やはり十のことが説かれているのであります。(大正蔵三−三三一・B)

その一つは「身に苦を受けず」ということを言っております。たとえばガンで苦しんだ人。確かにある時は痛い時もありますけれども、総じてこの妙法を持った人は、身に苦しむということがない、ということを第一番にあげられておられるわけですね。皆さん方も家族の人の臨終に何回も立会っていらっしゃると思いますけれども、本当に七転八倒してですね、わめいて嘆いて苦しんで、その中で亡くなるということは絶対にあり得ない。若い時から持病があった人でも必ずそれを克服して、それから亡くなる。それから臨終を迎えるということですね。そこに不思議な姿が、功徳の一端があると思うのであります。

 二番目は「目睛は露れず」これは目の晴れと書きますが、言うなれば目玉が飛び出して、びっくりしたような顔で亡くなることは絶対にないということを言われているのであります。

三番目は「手は掉動せず」掉動ということはどういうことかというと、震える。震えて亡くなることはあり得ないということです。

四番目は「足に伸縮なし」足が伸び縮みする。亡くなったとたんに縮んでしまうとか、あるいは、だらーっと伸びきってしまうとか、そういうことがない。だらしのない姿で亡くなることはあり得ない、ということを言っております。

 五番目には「便溺は遺らず」つまり大小の不浄のものが体に遺ったままで亡くなることはない。やはり清浄な体で、つまりあらゆる穴から物が、血が出たり水が出たり、いろんな不浄なものが出た姿でたれ流しながら亡くなることはあり得ないということですね。よく病院でそういうことを知らない看護婦さんが、人が亡くなった途端に鼻や耳や口に一杯つめものをしたり、手を縛り付けたり、いろんなことをしたりする人がありますが、本宗で少なくともこの妙法を持った人の姿に於て、そんなことをしなければ見苦しいなんていうことは絶対にないということですね。

六番目は「体に汗流せず」汗を流して、冷汗を流して亡くなるということはない。汗をかくということがない。

 七番目には「外に捫摸せず」捫摸というのは、どういうことかというと、物をつかむ、無意識のうちにそこらにあるものをつかんで、ぐぅーと硬直して、例えばベットの端かなんかを持って、あるいは布団のシーツの端でも握って、ぎゅぅーとして亡くなる。言うならば、何か憑かれた者のように硬直したり、あるいは何か発作を起こしたような状態で、そうして臨終を迎えるということはないということを言われております。

 八番目は「手拳は舒展す」つまり握りこぶしを、指先を伸ばそうと思えば伸ばせる。お数珠を持たそうと思ったら、きちっとお数珠を持たすことができる。合掌をさせれば合掌をすることができる。握りこぶしが開かないというようなことがない。手拳は伸びるということを言われております。

 九番目が「顔容は故ならず」故というのは故人の故ということですね。顔形が、生きているような姿で亡くなるという。明らかにこれは死人だというような死人の様相で、なんとも異様な見れないというような姿じゃない。本当にその人なりの言うに言われぬ顔形で、何とも神々しいと言いましょうか、あるいは生きているままの姿で、きれいな姿で臨終を迎える。むしろその亡くなる前というのは大概お病気の人が多いですから、やっぱり頬がこけたり、やせたり、本当にいろんな形がありますけれども、しかし不思議なことに臨終になって、又一転して生きているような顔形に変るということですね。顔容が、あたかも生きているような姿で亡くなる。

十番目が「転側自如たり」つまり起こしたり横向きにされたり、その方を自由に動かすことができるというんですね。お棺にお移しする時に、大勢の人が寄ってたかってしなければ、あるいは膝や関節をポンポンと折らなければどうしようもないとか、そういうことが絶対にあり得ないということを説かれております。自由自在に動かすことができるということを言われております。

こうした姿が、やはり十種の身業清浄と、身の上に現われた清らかな成仏の姿なんだということを説かれております。妙法のこの信心を貫ぬいた人の臨終の一念は百年の行業に過ぐという言葉もあります。大聖人様は兄弟抄に、

「なにとなくとも一度の死は一定なり」(全一〇八四)

生きとし生ける者、必ず臨終は迎えなければならない。

「いろばしあしくて人にわらはれさせ給うなよ」(同  上)

ということを言われております。その人の信心の本当の最後の姿というものが臨終に現われてくるのであります。

どんな偉そうなことを言っても、日頃、自分はこのような信心、あのような信心と大言壮語を致しましても、その人の本当の一生の集約が、そこに現われてくるんだということを一つ心に置いて、

 「先ず臨終の事を習うて後に他事を習うべし」(全一四〇四)

とおっしゃるのは、明日が臨終であっても、たとえ来年が臨終であっても、あるいは又、たとえ今日が自分の臨終であったとしても、恥ずかしくない、悔いのない、そうした一日一日を生きていく、そうした信心を全うしていくということが大切だと思うのであります。

 どうか皆様方も臨終のその時になって、長年信心はしたけれども、ただの一人も折伏をしたこともない、そういう信心だったとか、あの人は一生懸命信心をやっているように見えたけれども、このような臨終だったと、人から言われないような、やはり尊い、悔いのない、言うならば自分の命の骨髄に達するほど、きちっとした題目を唱え、又、折伏の大きな慈悲をもって、現当二世にわたっての信心を全うしていく。その姿において、人はその人の信心に感動し、そして又その人が、たとえ亡くなったとしても、その人のことをだれ一人として忘れることはないということでありますから、しっかりとした信心を持って、悔いのない臨終を迎えて頂きたいと思います。大聖人様のこの『兄弟抄』のお言葉を肝に銘じて、今後の信心の糧として頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十三年一月三十一日)

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