迷者は外相を貴んで内智貴ばず
『日曜講話』第五号(昭和63年11月1日発行)
迷者は外相を貴んで内智貴ばず
皆様、お早うございます。今朝参詣の皆様方、御受戒の方々の過去遠々劫以来、謗法罪障消滅、家内安全、息災延命、信心倍増、現当二世心願満足、ならびに皆様方の御一家の御健勝と御繁栄の御祈念を、ねんごろに申し上げました。また皆様方、願い出の追善供養、お塔婆供養、それぞれ謹んで御回向申し上げました。
昔から宗教の正邪、なかんずく仏法における、その正邪の弁別をする最も大切な基準といたしまして、釈尊は『涅槃経』というお経の中に、自らの遺言として、「法に依って人に依らざれ」ということを教えているのであります。釈尊の滅後、末法に臨んで、どこまでもこの正法・正師の正義を求めるということが、信仰の根幹でありますから、今の世間の人々のように、何でもいいから、どの宗旨でもいいから手を合わせればいい、先祖の霊に対して手を合わせればいいというような感覚で宗教を、信心を選んではいけない、という意味で釈尊は「法に依って人に依らざれ」ということを説いているのであります。
法というのは何かと申しますと、もちろん、それは本尊であり、又、その一切の人々を成仏の境界へと導くところの法門であり、道理であり、救済するそうした手だて、働き、功徳等の一切の具わった教えでなければいけない、ということを「法に依って人に依にらざれ」という言葉をもって説いたのであります。しかし、ともすると人間は、人の言葉、有力者の言葉に紛動され、また大勢の人が集っておるからとか、有名な人が信心をしておるからとか、あるいは、昔からの歴史があるからとか、また大きな建物があるからとか、何か外側の、外形の物にみんな左右されて、如何にも、そのお寺の建物が立派であれば正しい宗教であるかのように思い、歴史が二千年、三千年と経過しているから、如何にもそれが尊い、崇高な教えのようにみんな錯覚をするのであります。
しかし、正邪の判定には二つの鉄則があります。一つは、今申しましたように、釈尊の遺言として説かれた「法に依って人に依らざれ」ということと、もう一つは、「外観・外相(げそう)に依るのではなくて内実に依る」ということが大切なのであります。一人の人間の力や、その人の性格なり、あるいはその人の人間性というものを判断する時に、その人の身長がどうであるとか、髪の毛がどうであるとか、あるいは体重がどうであるとか、どういう体型・相をしていをしておるからとか、そんなことでその人の本質が決まるのではないのであります。まして、男女の性別であるとか、あるいは地位であるとか、財産であるとか、持っている品物によって、その人の人格や、その人の人間性が決まるのではない。やっぱり、その人の内実、その人の考え方、その人の言葉、その人の心、その人の生き方というものによって、その人の内実の総てがそこに表れてくるものであります。仏法もやはりそうでありまして、そうした外側の外相、外側の姿・形だけをもって、その法の正邪というものを判断してはならないのであります。
従って、よく、日蓮正宗のことがどうであるとか、あるいは法華講のことがどうであるとか、創価学会のことがどうであるとか、色々なことを世間の人々は、小さなことをとらえて、色々な宣伝をしたり、あるいはそういうものによって判断をしたり、中傷・批判等々が絶えないのであります。やはり人間がやっていることでありますから、色々な小さな組織体、あるいは大きな組織体があり、しかも組織が大きくなればなる程、やはりまた、色々な弊害があることも事実であります。
例えば、お医者さんの中でも立派な名医もいれば、また毎週毎週ゴルフに現(うつつ)を抜かすお医者さんもいれば、一つも勉強をしないお医者さんもいます。しかし、一人、二人、そういう悪徳医者がいたからといって、日本全体のお医者さんが、全部悪いお医者さんだということは言えるものではありません。
中には、警察官の中にも、警察官自身が犯罪を犯す場合もあります。又、警察官自身も人間でありますから、色々な誘惑に負けて、そうして悪の道に堕ちていく警察官があることも事実でございます。しかし、それもまた、今日の末法の世の中の実相なのでありまして、だからといって日本の警察がなってないとか、警察官なんかだれ一人、信用出来ないとか、そういう極端な理屈が通るものではないのであります。やっぱり、それぞれの立場において、しっかり働いておる警察官もたくさんいますし、大概の警察官は立派に自分の使命に生きておるのでありますから、一人、二人のそういう悪い特例をもって総てを極め付ける、総てを判断するということは大きな間違いでございます。
やはり、日蓮正宗ということの判断においても、創価学会という大きな組織の判断においても、その特例の小さなことだけをとらえて、あたかも総てがみんなそうだと決め込んでしまうということは、大きな間違いでございます。
例えば、ある一軒のお家が、たまたま漏電によって不幸にして火事を出してしまったといたします。確かに、電気というものは便利で、今日の文化・生活は殆ど電気によって発達して来たといっていいでしょう。皆様方の御家庭でも、例え一夜であっても電気がつかない、使えないということになりますと、大きな不便を感じます。しかし、電気というものは、漏電という怖さ、また、高圧の恐ろしさや危険があるのも事実であります。たまたま、漏電によって一軒の家を失ったからといって、二度と私は電気を使わない、というようなことを言うとすると、全くこれは愚かなことでありますし、その人のこれからの人生というものは、本当に暗い暗い人生を生きなければならない。やはり、たまたま、不幸にしてそういうことがあったからといって、そのことにとらわれてしまって、その全体の大きな働きや、大きなもっておる力、今日の社会に寄与しておる全体の大きな働きを全部見失ってしまう、捨ててしまう。それをまた中傷するということは、とんでもないことであります。漏電を出したということも、原因がもっと別なところにある場合がある。工事がいい加減だったかも知れない。あるいは、電線がどこか、むき出しになっていたかも知れない。そういう不幸な原因が別にあった。それにも拘わらず、電気は怖いんだ。だから二度と電気は使ってはならないとか、使うべからずとか、そんなことを自分で極め付け、自分の子供にまでそういうことを強いるとするならば、とんでもないことであります。一つ一つのそういう外形の小さなことに、とらわれてしまって、全体を見る目をもたないといけない。仏法の正邪を判断する意味において、一つの物差しとして、そうした外相にとらわれてはなりません。きちっとその内実を、その全体観を正しく見るという、そうした判断に立つべきだということをこの世の中の人に、教えてあげていただきたいと思うのであります。
昔、釈尊と提婆の間に、釈尊に対する提婆の怨嫉の心から、提婆達多が、自分は釈尊よりも五つの面で優れているということを吹聴致しました。これは、大聖人様の『法蓮抄』(全一〇四一)という御書の中に説かれておりますけれども、釈迦牟尼仏は、人から供養を受けた、施しを受けた衣を着ている。しかし、自分は釈迦牟尼仏よりももっとボロの粗末な衣を着ておる。その一点において、釈迦牟尼仏よりも自分の方が優れておるんだ、私の方が本当の覚者、本当の仏なんだというようなことを主張するのであります。もう一つは、釈迦牟尼仏は人の施す食べ物を食べておる。しかしながら自分は毎日毎日、托鉢をして、その托鉢によって得た食べ物を、また人に施して、多分は人に施して、その残りの一分を自分は食べておるんだ。その点において、釈迦牟尼仏よりも自分の方が遥かに優れた修行者なんだということを提婆達多は宣伝をするのであります。もう一つは、釈迦牟尼仏は朝・昼・晩と三度にわたって食事をしておる。けれども、自分は一日一度しか御飯を食べない。その点において、釈迦牟尼仏よりも私の方が遥かに優れているんだということを、また提婆達多は宣伝をするのであります。四つ目に、釈迦牟尼仏は、日陰、石や塚の木の下に、菩提樹の木の下に一つの座を設けておる。そこにおいて座禅を組んでおる。ですけれども、自分は、暑い日照りの太陽の下で座禅を組んでおる。その一点において、また釈迦牟尼仏よりも自分の方が遥かに優れているんだということを言うのであります。インドは非常に暑い国でありますから、そうした暑い国土世間の上において、日陰よりも、その厳しい陽の下で座禅をする自分の方が遥かに優れておるということを言うのです。そしてまた、釈迦牟尼仏は「五辛」と申しまして、酸っぱいとか辛いとかあるいは苦いとか、そういう、食べ物に味わいを付けて、特に塩を用いて御飯を食べておる。けれども自分は、何にもかけないで御飯を食べておるんだ。それ故に自分の方が釈迦牟尼仏より遥かに優れておるんだというような五つのことを主張いたしました。そして自分の方が立派な覚者なんだというのであります。
そのことに対して大聖人様は御書の中に、「愚人は正義に違る事、昔も今も異らず、迷者の習ひ外相のみ貴んで内智を貴ばず」(全五五六、一二〇五取意。新定五一九、法華文句九下、大正蔵三十四ー一二七C参考)ということをお説きになっておられるのであります。
今日でも、奈良の薬師寺であるとか禅宗の僧侶達が、自分達はこういう戒律を守っておる。自分達はこういう食べ物は食べないとか、滝にうたれるとか、こういう戒を守っておるとか、色々なことを言っております。しかし、そういう小乗の戒をどんなに守ってみても、ただ、自分の成仏さえ叶えることは出来ないのであります。ましてや、人を幸せにし、人を救済するなんていうことは、滝に打たれたからといって、肉を食べないからといって、あるいは女人を禁制したからといって、この末法濁悪の世の中を救うなんていうことはできないのであります。たった一人の人の成仏でさえも、果たすことはできないのであります。そういう小乗の戒の持破を論ずることが本当の戒なのではなくて、大聖人様は、
「戒に於て緩なる者を名けて緩と為さず、乗に於て緩なる者を乃ち名けて緩と為す」(全一二〇五)
ということをおっしゃっております。小乗の戒なんてものは末法の戒ではない。末法の教えではない。末法は、この南無妙法蓮華経の大法をどこまでも持って、一切の謗法を捨ててこの正法を守るということが、末法のただ一つの戒、そして仏の本意、仏の意(こころ)をどこまでも貫く、守るということが、ただ一つの戒なのであります。
ですから、殺生・不殺生ということも、それは虫を殺すとか動物を殺すことが殺生なのではありません。鰻屋さんが鰻の商売をして、殺生をしているということではないのです。本当の殺生というのは、仏の意を殺すこと、つまり色々な邪法に執着して、この正法を捨ててしまう。あるいは正法に謗法を加えて、そうしてその正邪の弁別を失ってしまう。それが最大の殺生であり、最大の邪婬なのです。神仏混合ということが最大の邪婬、そこを忘れてはならない。どこまでも正法正師の正義を貫くということが末法のただ一つの戒であり、その正法を純真に貫くことが本当の末法の修行であり、仏の本意を生かす、仏法の大道に生きる者の姿なのだということをしっかりと心に置いて、この日蓮正宗の信心を生涯にわたって、誇りを持って貫いて頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。御苦労様でございました。
(昭和六十二年十月四日)