1094夜:私は何を知り得るのか?という謙虚な気持ち
フランスの文人で「エセー」の作者、モンテーニュ。
僕の読書遍歴に登場したのは、割と最近の人です。
始めに、エセー 6冊セット (岩波文庫)を箱買いして、時間の空いた時に拾い読みをし続けていました。
昨年の第1次緊急事態宣言の頃、特別給付金10万円の支給があり、全額貯金では芸がないなと思い、白水社版7冊を大人買い。
以来、コツコツと読み続けています。
岩波版は2周目、白水社版は5冊目。
読みやすい随想録とはいえ、仕事や他の本との兼ね合いもあり、1年かけても遅々としたペースに。
それでも許される、いやむしろそのような社会人の教養の書として、まさに「エセー」はふさわしい書だと思うようになった。
ガイダンスにモンテーニュ よく生き、よく死ぬために (講談社学術文庫)と、寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門も購入して、一通り目を通した。
日本ではなじみの薄い人である。
名前を聞いてもピンとこない人も多いかもしれない。
私は哲学者だと思っているけれど、岩波文庫は海外文学の赤帯に分類されている。
エッセイの生みの親だし、それもありだけどね。
そもそも「教養」というのは、「生」の知識や情報のことではない。
そうではなくて、知識や情報を整序したり、統御したり、操作したりする「仕方」のことである。
もっと正確に言えば「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことなのである。
哲学だよね、まさに。
もっと言えば自分が間違っていないかどうか、常に自問し続ける姿勢のこと。
実生活の場面で言えば、具体的な事実から抽象化する能力を養うこと。
これが応用力であり、自分の頭で考えるということ。
そして、逆に抽象から具象へと戻ること。
この往還する力を養うことが、教養を身につけるということだと思う。
絵画や音楽、歴史や文学の知識を集めて、蘊蓄を語る能力では必ずしもないように思うのだ。
これは、仏法の勉強でも同じ。
日々の生活の中で功徳や罰を感じる能力というのは、なんとなくふわっとした了解に委ねているレベルから、教養を身につけ具象→抽象へと思考を濾過し、抽象→具象へ戻す作業が出来てこそ、「事」という大聖人様の仏法の本意に適うようになる。
東洋で実践を続けたのは唐の太宗皇帝。
貞観政要 全訳注 (講談社学術文庫)はその現行対話録。
大聖人様も座右の書とされていたよね。
この本も教養の書だ。
ただ、時代背景も皇帝という地位も、あまりに我々から隔たっている。
モンテーニュはカトリックVSプロテスタントによる残虐な宗教内乱と、猛威を振るうペストに苦しんだ中世ルネサンス期のフランスに生きた人。
我々に近いのはモンテーニュ。
読み続けていくうちに、謙虚で寛容な彼の人柄に敬意を抱く様になるだろう。
懐疑主義の人と紹介されることも多いけど、会議の矛先はあくまでも自身に向けられていたんだ。
啓蒙思想や革新思想には与せず、古典や古代を愛した。
孔孟の教えにも近い。
隠遁を好んだのは老荘風でもある。
一方に偏しないんだ。
僕は自分が謙虚で寛容であり続けるために、これからも繰り返し読み続けていくだろうね。
モンテーニュのおかげで、世間で持て囃す時の人に煽られることもなくなりました。