異流儀の人々へ:法華経の戒めを知ろう
是の経典を受持せん者を見て、其の過悪を出さん。若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有らん者は、当に世世に、牙歯疎欠、醜脣平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に、身体臭穢にして、悪瘡膿血、水腹短気、諸の悪重病あるべし。(法華経 606)
御書には、
又八の巻に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん若は実にもあれ若は不実にもあれ此の人は現世に白癩の病を得ん若し之を軽笑すること有らん者は当に世世に牙歯疎欠・醜き脣・平める鼻・手脚繚戻し眼目角睞に身体臭穢にして悪瘡・膿血・水腹・短気諸の悪重病あるべし」文(十法界明因果抄)
に大聖人様の御引用がある。
心に響くのは、「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」 であろうか。
退転者の御宗門への誹謗は枚挙にいとまがない。
もっともらしく聞こえる批難中傷も多い。
しかし、「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」である。
大衆の増上慢が肥大した民主主義礼賛の時代。
「実にもあれ」の誡めは納得できないだろうか?
異流儀は皆、己が正義を鼓吹する。
正義はよいが、戒壇の大御本尊様から離れてしまっては、成仏得道はありえないことを亡失してしまっているのではないだろうか?
問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏は是に因つて五眼を具することを得たまえり仏の三種の身は方等より生ず是れ大法印にして涅槃海を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田応供の中の最なり」等云云、此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり。(本尊問答抄)
観心本尊抄文段 上
富山大石寺二十六世 日寛 謹んで記す
夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法にして本地唯密の正法なり。此の本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。
これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。
故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。
故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。
仏を生み出す根源の御本尊様を捨てて、何の正義が存在するのやら。
自分勝手な正義に囚われて、他人の落ち度や過ちの追及に嬉々として何の意味があるのだろうか?
他人の非を顕かにしたところで、自分の功徳にはなりはしない。
ここに気付くかどうかが人生の別れ道である。