日蓮正宗のススメ

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1057夜:日蓮正宗略解(ダイジェスト)10.修行の方軌

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日蓮正宗略解

日蓮正宗略解

  • 発売日: 2017/11/01
  • メディア: 単行本
 

1.受持正行
法華経を修行する方法には、受持、読、誦(じゅ)、解説(げせつ)、書写の五種があり、経文の各所に説かれている。受とは法華経を尊信すること、持とは持(たも)ち続けることである。また、読とは経文を読み習うのであり、誦とは経文を記憶し暗(そら)んじて読むのである。次の解説は法華経の義理を説き聞かせることで、最後の書写は法華経を書き写すことである。
読誦は法華経一部を読む転読、解説は法華八講があり、書写は如法経、一日経等と称して、盛んに多人数による書写が行われた。これらは天台宗の行相であり、時宜(じぎ)に従ってその一々を修するのである。
ところが、法華経の文には、修行について右の五をそれぞれ挙げるものと、ただ受持の一行のみを示す文がある。前者は法師品・神力品の長行(じょうごう)等で、
「受持、読、誦、解説、書写」(法華経320頁・513頁等)と五種のすべてを示すに対し、宝塔品の、
「此経難持若暫持者我即歓喜(此の経は持ち難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す)」(同354頁)
の文や、神力品偈の、
「於我滅度後 応受持斯経(我が滅度の後のちに於て応(まさ)に斯の経を受持すべし)」(同517頁)
の文は後者の例である。
このなかの受持の意義について、前者は別体の受持、後者は総体の受持という先哲の判釈がある。別体とは前述の如く、個々の五種のなかの受持である。総体とは、受持が五種の妙行のすべてに通じ、五種を総(す)べ括(くく)る意味である。宝塔品や神力品偈の経文の相は、まさに総体の受持で、大聖人の末法の修行を明かされる法相に符合している。
観心本尊抄』に、
釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(御書653頁)
と説かれるのがこれである。
妙法蓮華経とは、久遠本地の本仏の自行自証したまう法の本尊である。ここに仏法の大本があるから、釈尊をはじめ無量の三世の諸仏のあらゆる因位の修行も仏果の功徳も、すべてが妙法五字に具わるのである。故に、我らがこの五字を信じ持つところ、仏の因行も果徳もすべてが譲与され、仏の等しい功徳を得るに至る。
この『本尊抄』の文は、まさに神力品の偈の文によられている。いわゆる受持の一行における成仏であり、その意味は総体の受持に当たろう。さらに詳しくは、本尊を信じて受け持つのは受持のなかの受持であり、題目を唱えるのは受持のなかの読誦である。本尊を信じ題目を口唱することが、末法の受持・読誦で、根本の成仏のための自行観心の法なのである。
また、受持の家の解説・書写は化他行であるが、解説とは、本尊の深義、三大秘法の功徳の一分を説き、また折伏化他をもって人々を正法に導くことである。
像法過時の天台のような一部読誦や一部書写の行は、日興上人の厳誡もあり、大聖人の末法万年化導の方軌では、明らかに止(とど)められている。
故に、妙法の本尊受持こそ本宗の正行であり、いわゆる受持正行に衆生成仏の直道(じきどう)が存する。

2.正行・助行
前項において、受持正行中の読誦は題目口唱(くしょう)であると述べたが、さらに、この読誦に正行
と助行がある。
大聖人の日常の勤行が方便・寿量の両品読誦と題目口唱であらせられたことは、『月水御書』(御書303頁)や日興上人の記録、また他門の記録等にも明らかである。日興上人は
大聖人滅後、その法式を聊(いささ)かも変えず、堅くこれを受け継がれたのであるが、他の五老僧は天台の方式を採用したり、己義を立てたりした。ために、純粋な行法の方式は日興上人の法流だけに伝わったのである。
富士の法流においては、初めの頃は諸事が相伝の信条によって不言実行される形にあった。したがって、方便・寿量の二品を読み、また、ほかの品を読誦しない理由も特に文献化されることがなく、日常の師弟対面の場において語られることが多かったのである。しかし、他門流から自分勝手な議論が色々と出るに及んで、一つには破折のため、一つには自門の弟子がこの迷執に陥らないために、方便品読誦の理由は日興上人の在世より、また寿量品読誦の理由は日寛上人の頃より文献に著されている。
まず、正行の題目とは余行を雑(まじ)えず、ただ本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えることである。ここに本尊の境と我らの信心の智と互いに薫じ、凡聖一体となって即身の仏果を得るのである。これ本因名字の位の仏身に具(そな)わる自行の妙法で、信によって直ちに仏の正観に到達するので、事行の一念三千と言う。これが末法における大聖人の修行の正体である。
さらに言えば、本門の題目は寿量文底肝心の秘法、本地難思境智冥合、久遠元初の大聖人の当体の南無妙法蓮華経であり、我らの一遍の唱題もこの深義に当たるのである。末法の宗旨では本門の題目の体は本門の本尊にあり、本門の本尊とは大聖人の色心の当体にましますのである。故に、題目をもって正行とする。
次に助行とは、主食に適当な副食や調味料が必要な如く、修行の根本要旨は正行の題目であるが、これに加えるに方便・寿量の二品を読んで、その甚深の意義と功徳を助け顕すのである。
まず、方便品の読誦は『十章抄』の、
「文をばか(借)れども義をばけづ(削)りす(捨)てたるなり」(御書466頁)
の文や、同抄の、
「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」(同頁 )
という文が明らかにこれを示している。方便品の十如実相の文を借りて読むことにより、久遠元初の不思議の事の一念三千を助け顕すことを「借文」と言い、また十如実相の義は迹門で明かす始成(しじょう)正覚の仏の法であるから、本門の立場から本無今有(こんぬ)、有名(うみょう)無実としてこれを破ることを「所破」と言う。もちろん所破・借文とて二回の読誦を要するのでなく、一度読むところに所破と借文の二義がそのまま具わるのである。
もう少し詳しく述べると、迹門方便品にも本門の体外の迹門と、本門の体内の迹門との二通りの意味がある。本門がいまだ説かれる以前の迹門は体外の迹門で、もちろん、始成正覚の方便を帯している。本門が説かれたのち、本門体内へ帰入した迹門は、本門に付随する面では天月水月三世常住の譬えの如くその法が常住となるが、本迹相対する面では常住と言っても水月は天月に及ばず、本門体内の迹門は、本門そのものに及ばないのである。
この辺の法相に迷って、本迹一致論を立てる他門の法義があるが、これは大聖人の仰せの能開・所開の区別に迷うものである。
さてそこで、所破・借文のために読む迹門は、体内・体外のいずれかと言えば、本門体内 の方便品の文を借りて、久遠元初の実相を助顕し、また体内迹門に明かすところの義を破して、本門独一の正義(しょうぎ)を顕すのである。
次に寿量品読誦の理由について述べれば、まず、寿量品の顕本には本来、二の意がある。
一は文上顕本で、二は文底顕本である。文上顕本は二千余字の文が釈尊の久遠本果の成道の義を顕し、文底顕本は二千余字の文が久遠元初の成道の義を顕すのである。また、文上顕本にも二つあり、一は文底の体外の文上顕本で、釈尊の本果を根本の自行とする意を顕すものである。二は文底の体内の文上顕本で、久遠元初の成道の意を内に含み、釈尊の本果をもって垂迹の化他行とする意を顕すのである。
このように、文上顕本には文底の体内と体外の二種があるが、共に文は本果脱益を顕す二千余字であり、義は脱益垂迹の本門である。このうち助行として読むのは、体内の文上顕本であるが、この「文と義の二面」については、下種本地の立場からは当然、破されるのである。すなわち、文上顕本の文義については所破のために読むのである。
次に、文底顕本の文と義について略述する。まず、文底顕本の文は、文上顕本の文と同じく二千余字であるが、含む義が異なっている。すなわち、文底顕本の文は大聖人が『観心本尊抄』に付嘱の法体として示された「我が内証の寿量品」(御書657頁)に当たるのである。
この二千余字は、久遠元初の本因名字の種子である妙法蓮華経をよく明らかにする文である。
また、本因妙の妙法蓮華経は、この文底顕本の二千余字によって、明らかにされるところの義である。この義をもって文に名づける故に、『百六箇抄』に、
「我が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり」(同1695頁)
と示されている。
そこで、正(まさ)しく文底顕本の二千余字の文を用いて、正行題目の甚深の功徳を助け顕すので、この読誦の意において「所用(しょゆう)」と言うのである。
以上を総括すると、寿量品を一遍読む心において、文上顕本の体内・体外は、共に脱益迹中の本門の義であるから所破となる。ただし所破の正意は体内顕本にある。また、文底顕本の二千余字の文は直ちに所用となる。これが寿量品読誦の両義である。
方便品は、文それ自体が本門を隠しているので、文を借りて義を顕すため借文と言うが、本門は、文上の文は脱迹本門の義を顕し、文底の文は秘沈された種本の義をそのまま示しているから、その文底の読誦を借文と言わず所用と言うのである。
文底顕本の顕すところの義は、元初本因名字の妙法蓮華経で、先述の如く、末法の正行、即身成仏の大直道である。
以上、寿量文底本因妙の題目をもって正行とし、方便・寿量の両品をもって助行とする勤行法式は、大聖人以来、聊(いささ)かの変更もない本来の姿であり、後人の改易(かいえき)する他門の行法と意義において、天地の隔たりが存するのである。

3.摂折二門
摂受(しょうじゅ)と折伏は、共に仏の化導方法の二面である。
摂受とは衆生の機を摂引し容受することで、機根に上・中・下等の差別があるのを仏が鑑(かんが)みたまい、仏の正意ではないが、しばらくそれぞれの機根に適合する教えを垂れ、諸機を摂引することを言う。したがって、衆生の思想や見解に異義があっても、それを直ちに指摘し 呵責(かしゃく)することなく、仮りに容認納受して他日の善導を期す大悲門の化導である。
折伏とは破折・摧伏(さいぶく)の義であり、仏が正善の立場において邪義、偏義、悪見の存在を許さ ず、これを破折し屈伏せしめる大慈門の化導である。 この二は釈尊の一代教化中にも遍(あまね)く示されてあり、大小乗共に両義が混説されている。
しかるに、一代五時全体の化導から見ると、爾前四十余年の経々は、束(つか)ねて法華経に対すれば方便であり、衆生の機根を主とする随他意の化導であるから、摂引門・摂受門と言うべきである。法華経は仏の本懐(ほんかい)で、衆生の迷見を仏意に従わしめる随自意の化導であるから、折伏門である。
天台大師が『玄義』に、
「法華は折伏して権門(ごんもん)の理を破す(中略)涅槃は摂受にして更に権門を許す」
(法華玄義会本下502頁)
と説くのも、仏教の教門において真実の法理を顕すことは、衆生の迷妄を破し正義を開眼せしめることであるから、折伏の化導となり、したがって法華の経体それ自体が折伏であることを示すのである。
『東春』に、
「此経は五乗の異執を廃して、一極の玄宗を立つ。故に凡を斥(しりぞ)け、聖を呵(か)し、大を排(はら)い、 小を破り、天魔を銘じて毒虫と為(な)し、外道を説いて悪鬼と為し、執小を貶(へん)して貧賤と為し、菩薩を挫(くじ)きて新学と為す、故に天魔は聞くを悪(にく)み、外道は耳に逆(さから)い、二乗は驚怪(きょうけ)し、菩薩は怯行(こぎょう)す」(法華経疏義纉・新纂大日本続蔵経29-89頁)
と経体の折伏にあるを示し、併せて仏滅後の法華弘通に、留難(るなん)の多いことを挙げている。 次に『止観』に、
「夫仏法に両説あり。一には摂、二には折。安楽行に長短を称せずというが如きは是れ摂の義なり、大経に刀杖を執持し、乃至首を斬れというは是れ折の義なり」(摩訶止観会本下719頁)
というのは、行門に約する摂受折伏であり、むしろ法華を摂受とし涅槃経を折伏としている。
これを要するに、末法出現の大聖人の仏法の弘通の方軌は、法華の大慈悲の折伏にあることを知らねばならない。
大聖人が念仏無間(むけん)・禅天魔・真言亡国・律国賊の呼ばわりも高く、諸宗の人法を破折あそばされたのも、一には、『五人所破抄』に示されるように天台・伝教の助言であり、二には、 経証符合による真の法華行者の実際を表すことであり、三には、従浅至深(じゅうせん しじん)して末法所弘の要法を取り出すための手段であった。
故に、末法法華経たる南無妙法蓮華経は、一代応仏釈尊の理上の法相を破すところの折伏の法体である。
故に、日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
「一には法体の折伏(中略) 蓮祖の修行是れなり」(御書文段284頁)
と示されている。
大聖人の修行と化導は、本門三大秘法を顕したまうためであり、この最高の法体の弘通は、外道・小乗・大乗・法華経迹門ならびに応仏迹中の本門までの一切を、おのずから破折することに当たるのであり、したがって五重の相対が説かれる所以(ゆえん)である。大聖人の化導が法体の折伏であることは論を俟(また)ない。
さらに『観心本尊抄』の、
「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責(かいしゃく)し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持(ぐじ)す」(御書661頁)
の文の摂受とは、国王の折伏を化儀の折伏と判じ、この化儀の折伏に対し、法体の折伏をしばらく摂受に属して示されたものと日寛上人は判定された。故に『本尊抄』で、一往、摂受に約すとは言っても、末法万年化導の折伏の源は、大聖人の法体の折伏にあることを知らな ければならない。
また、化儀の折伏に関し、大聖人の金言中にもしばしば拝される国主や国王の解釈は、時代によって異なるのである。
法体の折伏と言うその法体とは、大聖人建立の本門の三大秘法であり、化儀の折伏とは、この末法唯一の正境たる本尊・題目・戒壇の正義を広く日本乃至世界に受持せしめ、不受余経一偈の信心を確立せしめることである。そして『日蓮一期(いちご)弘法(ぐほう)付嘱(ふぞく)書』等に説かれる広布の目標に向かって、邁進する行業(ぎょうごう)が、化儀の折伏である。
次に、末法中における摂折の文を拝すると、
末法に摂受・折伏あるべし。所謂(いわゆる)、悪国・破法の両国あるべきゆへなり。日本国の当世は悪国か、破法の国かとしるべし」(開目抄・同576頁)
との文の主意は、もちろん、日本国における各宗の邪智謗法に対する折伏正意を示されることが明らかである。しかしまた、右の文のなかには、末法万年の全世界に対する広宣流布の様相において、凡慮を超絶する深意の片鱗(へんりん)を示されるかとも拝せられる。
そのわけは、大御本尊の流布自体が折伏であり、末法折伏の大判を動かすことはありえないが、悪国へ流布の様相中には随方毘尼(ずいほうびに)の意味とともに、一分の摂受的要素を含むこともありうるからである。
すなわち、四悉檀(しつだん)のうち世界悉檀では、その時代時代の政治、法律、道徳、教育、哲学、文学、慣習等を用いて弘教の方便とする。為人(いにん)悉檀では、民衆通常の善行や慈善を小善として破折せず、これを称揚し、あるいは合して仏縁に同化せしめる。対治悉檀は、偏小の思想、道徳、信仰を破折し擢伏する。第一義悉檀は、直ちに本尊の意義功徳を説き、受持信仰 に入らしめる。以上の四悉檀を適宜に用いて、本尊流布の手段とするのである。
ただし、あくまで折伏正規が末法の化導、特に世界広布の根元をなす日本国においての基本であり、これを弘通の根本的態度としてこそ、大御本尊の功徳の真の発揚が存するのである。

日蓮正宗聖典

日蓮正宗聖典

  • 作者:堀米日淳
  • 発売日: 2021/02/16
  • メディア: 新書