日蓮正宗のススメ

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1006夜:大衆の反逆

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僕も大衆だけどね

 

大衆の反逆 (岩波文庫)

大衆の反逆 (岩波文庫)

 

岩波から新訳が出ていたのを忘れていた。

早いもので一年も経つのね。

昨日、書店で見つけてゲット。

読んでいるうちに、どうしても創価学会顕正会を思い浮かべてしまう。

  • 意見を吐きたがるが、意見を表明するための条件や前提を受けいれることはいやがる。だから、かれらの《思想》は恋愛詩曲のようなもので、言葉を吐出したいという欲望以外のなにものでもない。
  • 凡人が、自分は卓抜であり、凡庸でないと信じているのではなくて、凡人が凡庸の権利を、いいかえれば、権利としての凡庸を、宣言し押し付けているのである。
  • 大衆的人間は自分が完全であると思う。
  • 食料が不足して起こる暴動のさいに、一般大衆はパンを求めるのだが、なんと、そのやり方はパン屋を破壊するのが常である。この例は、今日の大衆が、彼を養ってくれる文明を前にして、広範な、複雑な規模で反応する行動の象徴として使うことができる。

    大衆の反逆 (岩波文庫)

この論考は、かつて指導される立場にあった大衆が、今全てのものを支配する権力の座に登ったという事実を摘示することから始まる。

ただし、ここでいう大衆というのは、必ずしも労働者階級のことではなく、精神的な特徴のことで上層階層にも下層階層にも存在する。

その精神的特長を、オルテガは、「自らに何も科すことなく、自らを評価しようとはせず、自分がみなと同じだと感ずることに、一向に苦痛を覚えず、他人と自分が同じであると感じてかえっていい気持ちになる」と定義する。

ようするに、このような精神的特徴を持っている人をオルテガは「大衆」というカテゴリーに分類しており、大衆とは心理的事実のことなのである。

このような大衆という心理的事実は、19世紀に精錬されるや否や、自然に凡庸人の中に生まれてきた。それが社会に及ぼす影響に注目しつつ質の観点から分析すると、大衆には次のような性質をもつことがわかる。

第一に大衆人は、生きることは簡単であり、生活はあり余るほど豊かであり、自分はどこまでも成長できると思っている。また、そのため大衆人は、自分だけが自分を支配し他のどの時代の生に勝っていると実感している。

そして、第二にそのような考えが大衆にあるがままの自分を肯定させ、自分の道徳や知識、考え方は立派で完璧であるというふうに信じさせてしまう。この誤信の結果、大衆は、外部からの諫言を全く聞こうとはせず、それゆえ、自分の見解になんら疑問を抱かず、また自分以外の人の存在が考慮に入らない。

いや、むしろ意識的にそうしているといった方が適切であろう。大衆人の内部にある支配感情が絶えず大衆人を刺激して、大衆人に支配力を行使させる。したがって、大衆人は、この世には大衆という新しい心理構造を持つひとしかいないかのように行動し、少数者を排除する。

したがって、第三に、大衆人は全てのことに介入し、自分の凡庸な意見を何の配慮も内省も手続きも遠慮もなしに、暴力的にのみ干渉するのだ。ここで、間違ってはいけないのは、大衆は自分が優秀であると信じているのではない。大衆は自分が凡庸であることを自覚し、凡庸であることの権利、権利としての凡庸を宣言しているのである。そして、これが大衆の特権でもある。

ところで、19世紀に上記のような新しい心理構造を精錬したものはなんであろうか。

オルテガはその答えとして、「自由主義的デモクラシー」と「科学的実験」と「工業化」三つの原理を挙げている。

まず自由主義的デモクラシーはわかりやすい。多数決の原理が大衆を作ったことは疑う余地はないだろう。また、工業化も大量生産・大量消費を生み、誰もが同じものを所有することができるようになったことも容易に想像がつく。だが、科学的実験がどうやって大衆を作ったのであろうか。

いま、科学は高度に広範に発達している。科学者がそれに追いつくためには、科学者が専門化するしかない。しかし、科学は全体で一つの考え方なのであり、科学はもともと細分できるものではないのである。もし細分してしまえば、それは事実上の真理という思想性をうしなってしまう。

つまり、ここで思想から切り離した科学的実験を総体的にまとめ上げたとしてもそれは真理ではない。この結果科学の発達が進むにつれて、科学者は自分の活動範囲を縮小し、他の分野との接触を失い、自分の殻に閉じこもってしまう。

専門性が真理の総体的解決を阻み、さらに専門化が専門の分野以外のことを知らないことが、当然でありかつ美徳とされるようになった。これはなんと、大衆の心理構造そのものではないか。だからこそ、大衆はこのような科学に飛びつき、大衆の増長を促したのである。

科学とは、社会とは、国家とは、自然に出来るものではない。優れた少数者の膨大な努力の上に初めて成り立っているのである。しかし、大衆はそんなことには気づかない。優れた少数者の努力の結晶を、その努力に目をつぶって、使うことだけで満足しているのである。

大衆は、今使っているものの原理など気にせずに、また自分たちが何の努力もせずに、自分たちが人間というだけで、その利益を享受できることを当然のように思い、要求する。

この現状は、非常に危険である。なぜならば、最初に述べたように今の社会を率いているのは原理には無関心な大衆なのであり、社会はその存続のために注意が必要なのだ。つまり、今、社会は崩壊の危機に瀕しているのであり、今の様々な問題はその表れなのである。

では、私たちは何をすべきなのであろうか。それは、ひとえに自分が大衆とならないことが大事なのである。そのために、自分に多くの事を課し、現状に甘んじない『精神的貴族』にならねばいけないのではないか。大衆を崩壊させるもの、すなわち大衆の心理構造を変化させるものについて、オルテガははっきりと述べていないが、やはり一人一人が自分で気づき変わろうとするしかないだろう。社会は、『精神的貴族』の誕生を望んでいる。

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日蓮正宗の伝統にぶら下がっているだけなんだ

創価も顕正も根っこがない。

根無し草なんだ。

本尊も題目も教学も、全部、日蓮正宗をベースにしたアレンジメント教室さ。

アレンジメントってさ、「並べること」「整理」「再構成」「手配」って意味。

フラワーアレンジメントってのが一番身近な存在かな。

花を育てる苦労も、品種改良の智慧も、全部農家さんや種苗会社に乗っかっちゃって、できた花だけ切り取って体裁を整えるのさ。

「わぁーきれい!」

「素敵ですこと」

そんなのは、お部屋のインテリアならいいだろうけど、花は実を結ばないし、種を取ることもできない。

大聖人様直結?

御書根本?

仏法とは、本尊とは、化儀とは、自然に出来るものではない。日蓮大聖人様を筆頭に、代々の猊下様や宗門の伝統を受け継ぐ僧俗の膨大な努力の上に初めて成り立っているのである。しかし、創価民や顕正民はそんなことには気づかない。宗門の努力の結晶を、その努力に目をつぶって、使うことだけで満足しているのである。

大衆の反逆 (岩波文庫)は、単なる大衆論ではない。人に生きる姿勢を教えてくれる本である。

元を正せば、創価の人間革命の本義ではなかろうか。ノブレスオブリージュ*1本来の意味としての、個々人の成長を意味したのではなかったのか?仏法に依って、地涌の菩薩に成ろうとする運動を表した言葉ではなかったのか?

慢心しきったお坊ちゃんやお嬢ちゃんを目指したのではあるまいに。

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オルテガの眼に現代日本は如何に映るだろうか?

 

大衆の反逆 (岩波文庫)

大衆の反逆 (岩波文庫)

 

 

*1:ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige フランス語: [nɔblɛs ɔbliʒ])とは、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、一般的に財産、権力、社会的地位の保持には義務が伴うことを指す。