マルクスの亡霊は何度でも甦る:それでも共産主義は間違っている
最近、新しいマルクス主義が注目を集めていますね。
要約すると、著者は1987年生まれの社会思想家。フンボルト大学で博士学位を取得し、権威ある国際的な賞を最年少・日本人初で受賞した華麗な経歴だ。NHKテレビ番組「100分de名著」でマルクスの『資本論』の解説を担当し、他の多くの媒体にも登場しているので、親近感をもっている方々も多いだろう。
本書の論旨は明快である。気候変動は地球に確実に危機をもたらす。気候変動の原因である資本主義を温存したままでは、どのような弥縫(びほう)策も気候変動と危機を止めることはできない。資本主義の本質を見抜いていたマルクスもそのことを指摘していた。それゆえ、私たちは資本主義を脱して、エネルギーや生産手段など生活に不可欠な〈コモン〉を自分たちで共同管理する「脱成長コミュニズム」に進まなければならない。。。でしょうか。
数年前には、ピケティの本が注目されました。
今では、見向きもされません。いい研究ですけどね。観念論じゃなく、膨大なデータから資本主義が格差社会に向かうことを立証しました。
『21世紀の資本』の主張は「資本主義の富の不均衡は放置しておいても解決できずに格差は広がる。格差の解消のために、なんらかの干渉を必要とする」というものだ。その根拠となったのが、「r>g」という不等式だ。「r」は資本収益率を示し、「g」は経済成長率を示す。
同書では、18世紀まで遡ってデータを分析した結果、「r」の資本収益率が年に5%程度であるにもかかわらず、「g」は1~2%程度しかなかったと指摘する。そのため、「r>g」という不等式が成り立つ。この不等式が意味することは、資産 (資本) によって得られる富、つまり資産運用により得られる富は、労働によって得られる富よりも成長が早いということだ。言い換えれば「裕福な人 (資産を持っている人) はより裕福になり、労働でしか富を得られない人は相対的にいつまでも裕福になれない」というわけだ。
富裕層の資産は子どもに相続され、その子がさらに資産運用で富を得続けることができる。もちろん各国で所得再分配政策は行われているものの、ピケティ氏は、多くの富が世襲されていると示唆する。
格差は現在も拡大に向かっており、やがては中産階級が消滅すると考えられる。この不均衡を是正するためには、累進課税型の財産税や所得税を設け、タックス・ヘイブンへ資産を逃がさないように国際社会が連携すればよいというのがピケティ氏のアイデアだ。
賛同されるけれども、有効性を持たない理論。
机上の空論といいます。
それは、すでに当ブログで解説しました。
天才の思う通りに、大衆は行動しないという原則。
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理想主義は危険なんです。
目次
大粛清・恐怖政治の出現
マルクスは「自由主義・資本主義が成熟した社会でこそ、その矛盾が爆発して革命が起きる」と論じていたのでした。
しかし……
最初に革命が起きたのは、西ヨーロッパに比べると自由主義も資本主義も遅れている農業国のロシアでした。
この段階ですでに「マルクス理論はおかしい」あるいは「農業国で革命をやろうとしている俺たちはおかしい」と思わないといけなかったはずです。
しかし、革命家たちは何だかんだと理屈をつけて涙ぐましい「つじつま合わせ」をし、現実に革命を実行してしまいました。
こうしてロシア帝国は倒され、共産主義を奉じるソヴィエト連邦(ソ連)が誕生したのです。
ところが、そこに現われたのは「この世の地獄」「ディストピア」でした。
粛清に次ぐ粛清、暴力による権力闘争、市民の虐殺、飢餓による大量死……。共産主義国家で現れたのは大粛清・大虐殺を伴う恐怖政治だったのです。
レーニンやスターリンなどの独裁者が有名ですが、彼らは密告制度・秘密警察を使い、多くの人間を裁判なしで処刑していきました。
粛清の規模が大きすぎて人数については諸説あるようですが、レーニンやスターリンは直接的な処刑だけで数十万人から数百万人を殺害したとされます。
彼らが「人災」として引き起こした飢餓を含めると、多く見積もれば千万人単位の犠牲者が出たとも言われています。
しかもこれはソ連国内だけの話です。ソ連が引き起こした戦争や侵略による他国の犠牲者は含まれていません。
それはたまたま恐ろしい指導者が登場したからではないか?
残念ながら、そうではありません。
決定的に重要なことは「共産主義(社会主義)の国家は多くの場合、全体主義になる」「ソ連だけが特別ではなかった」ということです。
全体主義とは「国家や社会のためなら個人の自由や人権を踏みにじって一顧だにしない体制」のことです。国民の生命・財産・自由をためらいなく奪っていく体制です。
中国、北朝鮮、カンボジアをはじめ、東欧諸国やアフリカの一部など、共産主義を採用した他の国々もやはり全体主義となり、恐怖政治が行われました。
そして共産主義国家は力の劣る隣国に対しては侵略的になります。かつてのソ連がそうでしたし、中国や北朝鮮が近隣諸国の脅威になっているのはご存じの通りです(2019年現在)。
ステファン・クルトワ編著『共産主義黒書』(1997年)によると、世界に広がった共産主義体制による犠牲者は8千万人から1億人にものぼるとされています。
もちろんそれぞれの国情や国民性の違いはありますし、「共産主義的な政策をどのくらい徹底して行うか」という違いもあるでしょう。
それによって「全体主義」が比較的ソフトに現れる場合もありますが、「頑張って共産主義を徹底すればするほどひどくなる」という傾向があるのは確かです。
共産主義には全体主義のメカニズムがもともと組み込まれていると考えざるを得ません。
言い換えるなら「共産主義は本質的に全体主義である」ということです。
共産主義が全体主義になる理由① 私有財産の否定
様々な学説や意見を参考にして、僕なりにまとめてみたいと思います。
まず共産主義では「私有財産」を認めません。これが第一の理由でしょう。
財産をすべて徴収するか、それが無理でも高い税金を課してなるべく民間にカネが残らないようにするのです。ひどい場合には「金持ちを殺してカネを巻き上げる」ということもやります。
人々としては財産が手元にないので不安ですが、共産党からは「心配するな。俺たちエリートが計画的・効率的に再配分していい暮らしをさせてやるから」と言われてしまいます。
しかし安心できるはずもありません。
要するに「私有財産を奪われると生殺与奪の権を握られる」ということです。極端に言えば、エサを待つ動物と同じ状態に置かれるわけです。
ご主人様(国あるいは共産党)の機嫌を損ねてエサが来なくなればペット(人民)は死にます。逆らうことはできません。要するに「自由の死」ですね。
自由を殺したければカンタンです。私有財産を奪えば完了なのです。
この状態では、国家や党がどんな圧政を行っても、逃亡することも抵抗することも困難になります。こうして恐怖政治への準備が整います。
共産主義が全体主義になる理由② 計画経済
確かにカネを巻き上げられたら自由はイマイチかもしれないが、それをエリートたちが上手に有効利用してくれたらいい暮らしはできるかもしれないじゃないか?
しかし計画経済は決してうまくいきません。
まさに共産主義(社会主義)の歴史がそのことを証明してしまったのです。
資本主義における自由市場であれば、商品やサービスの価格・量・分配は「見えざる手」(アダム・スミスの表現)によって自然と適正なものに落ち着きますよね。
そして結局はそれが市民生活にとってベストなものです。
しかし旧ソ連では、商品の種類や量を中央官僚が計算によって決定しようとしていました。それもこまごまとした日用品レベルに至るまで。
例えば「タマゴを▽▽個つくる」「それにはニワトリ●●羽が必要だろう」「そのためにはエサが……」という具合です。一生懸命に表を作ってカリカリ計算していたわけです。
こんなことがうまくいくはずもなく、旧ソ連では「これは多すぎるのに、あれは不足する」という事態があちこちで起きました。
例えば「靴がうなるほど余っているのにパンがない」とか「工場を建てたけど電力がない」といった笑えないエピソードがたくさん語り継がれています。
官僚の計画で経済を運営すると市民生活の実態から離れてゆき、ひどい場合には「飢餓」を生じさせます。
スターリン時代のソ連もそうですし、中国の毛沢東が推進した「大躍進政策」でも途方もない数の餓死者を出しています。
計画経済と権力集中
計画経済がうまくいかないことは分かったが、それと全体主義とがどう関係するのか?
計画経済によって市民生活がメチャクチャになると、当然ながら民衆の間から不満が出てきます。
そして普通なら、その怒りの矛先は国家や共産党に向かうはずです。だって彼らの計画のせいなのですから、当然そうなりますよね。
だからこそ、その不満を粛清や思想統制で潰そうとするわけです。
文句を言うヤツ、言いそうなヤツはとりあえず刑務所か収容所にぶち込む。そこが一杯なら面倒だから殺しておく。
そして「計画は順調だ」と喧伝するのです。例えばこのようにです。
担当者:コメの生産目標が達成できないだと?
農夫:ちょっと目標が高すぎて……その~。
担当者:できていないのは君のところだけだ。ということは君の責任だろう。
農夫:そんな、本当ですか?
担当者:他は我々の計画通りにうまくやっているぞ(ウソ)。君、やる気はあるのか?
農夫:はい…。
担当者:死ぬ気でやりたまえ(本当に殺しておこうか)。
本当は計画そのものに問題があるのですが、それを情報統制や思想統制によってたくみに責任転嫁するわけです。
さらに言えば、計画経済というのは「計画する側」に絶大な権力を与える制度です。
計画の度合いが一定のラインを超えると、計画する当局は人々の生活をコントロールできるようになってしまいます。
例えば「君のところには仕事をやらない」とか言えますよね。「仕事をあげるから賄賂をよろしく」ということも横行するでしょう。
計画経済が最終段階まで行くと「配給制」になりますが、「お前の家には食糧を配給しない」と言われたら家族はオシマイです。
ある評論家の著書に書いてあったことですが、日本でも配給制が残っていた終戦直後には、配給を担当するお役所の権力は凄まじかったようです。少し紹介します。
当時は、通産省の担当課長のハンコがないと日本の紙とパルプを動かせない時代でした。
そんなあるとき某大新聞が通産行政を批判してきたのです。
そしてこれに怒った通産省の担当課長は「この新聞への紙の配給増加をやめる」と決めてしまいました。これでは新聞を発行できません。
するとどうなったか。
社長以下、新聞のお偉いさんたちがゾロゾロとやって来て30歳になるかならないかの1課長に平身低頭して謝罪、さらに通産省の意を汲んだ記事まで書かされたというのです。
このように計画統制経済というのは、課長クラスの官僚に大新聞の社長を屈服させるほどの権力を与えてしまうものなのです。
資本主義社会ならば、カーネギーに嫌われようがロックフェラーに憎まれようが「へのかっぱ」でしょう。いい気分はしませんが、別に困りはしません。
しかし共産主義社会で、配給担当の下っぱ官僚に睨まれたら終わりです。
計画経済は極端な権力集中を招きます。計画経済というものが(私有財産の否定と並んで)全体主義への道となる理由がここにあります。
共産主義が全体主義になる理由③ 一党独裁
もし民主主義国家のように「為政者が悪いなら交代させられる」というシステムがあれば、圧政に対してもどこかでストップをかけることができます。
ところが共産主義は原則として「一党独裁」であり、共産党への対抗勢力がありません。やりたい放題の共産党を牽制してくれる勢力が存在しないわけです。
三権分立にもなっていないので、悪政を行う内閣や官僚組織(行政)を議会(立法)が抑えるということもありません。両方とも共産党員がやっているからです。
ライバル政党がいないので、議会があっても基本的に「出来レース」です。党のお偉いさんが決めた方針を讃えたり拍手したりする場でしかありません。
あくびしたら消されるかもしれないので、そういう意味では真剣かもしれませんが(^^;)
ちなみに、理想として目指すのは共産主義(あるいは社会主義)であるものの、一党独裁を否定するタイプの人たちもいます。
つまり選挙できちんと議席を獲得し、法律を通すことによって共産主義(社会主義)を実現しようとする立場です。これを「民主社会主義」などと呼ぶことがあります。
マルクス主義の主張の一部を放棄しているわけですが、一党独裁をなくすだけで確かにずいぶんソフトになる気はしますね。民主社会主義に分類される政党は世界中にあります。
もし彼らが多数派を形成して「私有財産軽視」「計画経済」といった政策をやれば社会がおかしくなるのはおそらく同じでしょう。
しかし本人たちが民主主義のプロセスを踏もうとしてくれているおかげで多くの国では多数派になれず、そうならずにすんでいます。
共産主義が全体主義になる理由④ 暴力の肯定
ここまでは、ある意味で共産主義社会の制度的・構造的な問題を扱ってきました。
ここからはどちらかと言うと思想的・心理的な問題です。
まず共産主義の重要な特徴として「暴力の肯定」が挙げられます。
マルクスは「労働者が暴力によって資本家を打倒する」「それが歴史の必然である」と説きました。革命を起こすための暴力を肯定したわけです。
正しい目的のためには、手段としての暴力は許される! こういうメッセージがマルクスの思想の中に入っています。
こうなると革命のときだけで済むわけがありません。革命が成就した後も、当局は都合の悪い人々を延々と暴力で粛清していきました。
共産主義社会にはもともと為政者を暴力へと誘う構造的問題があるわけですが、マルクスが暴力を認めていることによって「心理的リミッター」が外れてしまうのです。
あー、あいつら邪魔だなあ。
↓↓↓↓↓↓
正しい目的のための暴力は許される。
↓↓↓↓↓↓
殺せばいっか。
この暴力肯定思想には、マルクス本人の性格も関係しているような気がします。
もともとマルクス自身が怒りっぽく、誰とでもすぐケンカするような人物だったようです。
少しでも自分と意見が違うとその人を認めることができず、相手を罵倒しなくては気が済まないというタイプです。
またマルクスは定職に就かず経済的に困窮していたため、子供たちが次々と栄養失調や病気で亡くなるなど、その人生は不幸だったと言えるでしょう。
確かに不幸だったとは思いますが、彼の場合はハッキリ言って自分の責任です。ところがマルクスには、自分が招いた不幸を社会のせいにしているところがあると思えるのです。
マルクスは「社会が悪い」「資本家が悪い」などと責任転嫁して、自分の「嫉妬」「怒り」「破壊願望」「被害妄想」を正当化する理論をひねり出したのではないでしょうか。
暴力肯定思想も「こんな社会をぶっ壊してやりたい!」というマルクスの鬱屈した感情の表現でしょう。
しかしそれが現実世界にもたらした惨禍は、とても彼1人で責任を取れるようなものではありませんでした。
もしマルクスが「まともに働いて家族を養う」というタイプの人だったなら、共産主義という思想は出てこなかったかもしれません。
※現在働いていない人・働けない人を批判しているわけではありません。事情は人それぞれです。けれどもマルクスの場合、そのために生じる不都合を社会のせいにして理論化する執念が異常なのです。
共産主義が全体主義になる理由⑤ 無神論と唯物論
さて、共産主義が全体主義へと至る思想的・心理的要因として、僕としては共産主義が「無神論」「唯物論」であることを挙げたいと思います。
なぜか?
他の記事でも述べたことがありますが、共産主義は唯物論ですから、人間というのも単なる物質でありモノです。
唯物論なら理論的には人間も機械と一緒ですから、「役に立たないなら壊しても(殺しても)いい」ということになってしまうでしょう。
むしろ「体制にとって邪魔なモノはどんどん壊して(殺して)いく」という誘惑に駆られてもおかしくありません。
西洋人のイメージする「神」とは「善とはなにか」「悪とは何か」を決める存在です。
したがって神がいないなら世界には善も悪もないことになります。何をしても悪や罪を犯したことにはなりません。
これが、共産主義がどこでも破壊・闘争・虐殺を招く理由でしょう。少なくとも心理的リミッターが解除されてしまう理由の1つとして重要だと思います。
もちろん、神や宗教を大事にしすぎて国がひどくなるケースもあります。歴史的にも「神」の名の下に多くの迫害や弾圧が起きました。今でも原理主義の問題などがあります。
ただ宗教の場合は「ひどくなるケースもある」ということにすぎません。歴史上ほとんどの国は何らかの宗教精神を柱にしていたのですから、いいことも悪いこともあるのは当然です。
しかし「共産主義は本質的に全体主義であり必然的に恐怖政治を生む」のです。悪いことしか起きないのです。
それはこれまで述べてきた通りです。ここは決定的な違いだと言えるでしょう。
ただ共産主義が全体主義に陥る主たる原因が「私有財産の否定」「計画経済」などの制度にあるのか、「無神論」「唯物論」という思想にあるのかは判別しがたいところもあります。
とは言え、これらが混然一体となってお互いを強化し合いながら、共産主義を「悪魔の思想」にしていることは確かです。
共産主義は現実に恐ろしい惨禍を招きました。この思想のせいで犠牲になった人は数千万人とも1億人とも言われています。
そしてそれが決して「たまたま」や「偶然」ではなく、思想の内容から必然的に導かれる結果であることも明らかです。
現実的にも理論的にも共産主義の恐ろしさはすでに明らかになっているのですから、僕たちはそれを完全に克服するよう努めてゆくしかありません。
解決策は小欲知足の衆生の繁茂しかない
資本主義の弱点は何か?
それは、最適化を導くための資源ロスの膨大さ。
勝ち組と負け組の鮮明さ=格差。
分業による自己疎外・人間疎外*1が起きる。
その不満がまとまってしまえば、ファシズム社会へと転落してしまうことは、歴史が証明してくれています。
ドラッカー理論は第三の道を提示できたか?
経営学者のピータードラッカーは、顧客の創造とイノベーションこそが、唯一の対抗策だとして、独自のマネジメント思想を打ち出しました。
顧客の創造とは学習回路を開くことで、イノベーションはやりがいや生きがいを見出すことです。
人間はどんなに満たされても、日常に倦怠を生じる生き物です。
つまり、慣れてしまうと飽きるのです。
諸悪の根源は、この飽和感情なのです。
一部の職人魂を持った人々以外は、この呪縛から逃れられません。
俺ってなにやってんだろう的な、虚無感に襲われる日が来るのです。
そうならないようにするには、自分の仕事を常に見つめ返し、その中に未だ見出されていない価値や、可能性を発見し続けていくしかないというもの。
そんな、モチベーションの維持って、凡人には到底無理ですよね。
日蓮正宗の御本尊様に御題目を唱えるしかない。
自然に生命力を増やし、漲らせ、生き生きとした活力の供給源となってくれる存在は、日蓮正宗の御本尊様しかありません。
「欲」は次から次へと心の中に生まれるものです。この「欲」は扱いを間違えると人生を大きく踏み外します。「欲」は自分自身の気分を満たすために生まれ、「欲」があるからこそ私達は生きることが出来ます。私達が住んでいるところは「欲界(よっかい)」です。欲望が渦巻き、成仏の妨げとなる働きが頻繁に発生するところです。この「欲」の正しい扱い方法が信心です。
「欲」によって人生を踏み外し、不幸な一生を送ることのないよう仏様が、大慈大悲の上から仏法を残されたのであります。
「少欲知足」とは、少しの欲で満足を知ることです。度が過ぎた欲望を、満足させようとしますと、心のブレーキが効かなくなります。この心のブレーキが効かなくなると人生を断線し、不幸な現実を経験することになります。
「少欲知足」は心のブレーキです。日蓮正宗を信心することで心のブレーキ「少欲知足」が出来上がります。「少欲知足」は成仏を目指す上で大事な要素であり、己心の魔や師子身中の虫を取り除くものです。
「少欲知足」を身に付けると、第六天の魔王にも紛動されなくなります。第六天の魔王は、人の心に生まれる欲望を巧みに利用する能力に長けています。つまり利根と通力を操ります。そのために他化自在天(たけじざいてん)と別名呼ぶのであります。他人の欲望を自由自在に化する天界の衆生です。天界から上に行かせないようにするのです。つまり成仏させないように働くのが第六天の魔王で、第六天の魔王に翻弄されないようにする方法が「少欲知足」です。第六天の魔王として有名な人物が創価学会の池田大作です。「少欲知足」の精神を失った姿を世の中に露顕する悪知識です。
「欲」は、周りに縁する人によって紛動される確率が高いです。この縁するものに対し、どのような対応をするかが大事です。「欲」を満たそうとして突き進みがちですが、耐え忍ぶことが必要です。つまり我慢することであり、「忍辱」です。耐え忍ぶことで「少欲知足」が出来上がり、忍耐力が身に付くのであります。御本尊様に御題目を唱える行によって完成されます。
釈尊が説かれた法華経の『普賢菩薩勧発品第二十八』に、
「是の人は心意質直にして、正憶念有り、福徳力有らん。是の人は三毒に悩まされじ。亦嫉妬、我慢、邪慢、増上慢に悩まされじ。是の人は少欲知足にして、能く普賢の行を修せん」(法華経605)
と示されています。意味を説明すると、「少欲知足」を信心で身に付けることにより、三毒の貪瞋癡に悩まされず、嫉妬や我慢、邪慢、増上慢に悩まされることが無くなるのであります。「少欲知足」の秘訣が信心ですが、具体的に心意である私達の気持ちを、質直という正直に素直に気持ちを持てば、正しい心が生まれ、そこに福徳が御本尊様の力によって、私達の心に具わるのであります。それが法華経に説かれる釈尊の仰せです。
故に「少欲知足」とは節約や無駄を省く生活のことです。節約や無駄を省くところに出来る、金銭的な余裕や心のゆとりに楽しさを感じ、満足することが「少欲知足」であります。そこに満足すれば人生を踏み外すことはなくなります。
即身成仏を目指す大事な修行、勤行唱題では「少欲知足」を心がけ精進することです。心に生まれる「欲」を正しくコントロールし、欲望に翻弄されない人格を作り上げる秘訣が「少欲知足」であります。
人は欲望により迷いや悩みが生まれます。欲望は生きていく上で必要でありますが、人生を堕落させる欲望は止め、人生を向上させ有意義にする欲望が求められます。それが少欲知足です。
日蓮大聖人様も『法華初心成仏抄』に、
「少欲知足」(御書一三一四頁)
と仰せであります。少欲知足とは、欲望を少なくして満足するを知ることであります。少欲知足を忘れた欲望の追求は、貪瞋癡の三毒が強盛となり、成仏や幸福を妨げる嫉妬心や慢心を強くします。
信心は周囲を省みず自分を中心とした欲望を満たすためだけに、御本尊様へ祈るのではなく、地涌の菩薩の眷属に相応しい四弘誓願を根本とした祈りが必要です。自分の欲望を満たすためだけの祈りは、地涌の菩薩の眷属に相応しい祈りといえません。
人は生活していく上で、生活苦を強いられないよう現状に見合った形で計画することが大切です。少欲知足は生活が苦しくならないための心得であります。
さらに支部講中においても、講員さんに負担をかけないようスムーズな運営を維持するため、令法久住を目指す過程で教訓とすべきことが少欲知足です。
厳しい生活環境で忘れてはならない教えが少欲知足であり、節約や無駄を省く生活のことであります。節約や無駄を省くことで金銭的な余裕と心にゆとりが生まれ、厳しい生活環境でも乗り越えていく精神ができます。
宗祖日蓮大聖人『四条金吾殿御返事』に曰く、
「普賢経に云はく『煩悩を断ぜず五欲を離れず、諸根を浄むることを得て諸罪を滅除す』と。」(御書598)
*1:社会の巨大化や複雑化とともに、社会において人間というのは機械を構成する部品のような存在となっていき、人間らしさが無くなることをいう。働くことに虚しさを感じる人が多くなること。