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信心弱くしては

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2020-11-04 | 御住職指導
正林寺御住職指導(R2.11月 第202号)

 

 百日間の唱題行は九月七日からはじまり五十日の節目が過ぎた時点で、一日二時間の唱題行は持続されているでしょうか。また唱題行への講中の取り組みは如何でしょう。講中一丸となるためにも大事な唱題行になります。
 まさに、御法主上人猊下は御指南のように、法華講員八十万人体勢構築には大事な唱題行になります。
 唱題行の後半戦に入り確認することがあります。功徳と歓喜を体験されているかという確認です。功徳と歓喜どころか一日二時間の唱題行は、大変で苦痛な方はいないでしょうか。功徳と歓喜を感じての唱題行と、そうではなく大変で苦痛を感じている方とでは、些細なところで信心の厚薄にも依ります。そうならないためにも功徳と歓喜を体験させていただけるような境界を目指して、大変で苦痛な境界から前進できるように精進しましょう。
 大変で苦痛を体験されている方は、転重軽受の教えの上から無始以来の罪障が確実に消滅されていることを確信しましょう。その大変さ、苦痛を通り越したところに功徳と歓喜があり「難来たるを以て安楽と意得べきなり」(御書1763)との御指南を心肝に染めて唱題行に精進することが大切です。

 宗祖日蓮大聖人は『松野殿御返事』に、
「信心弱くしてはかゝる目出たき所に行くべからず、行くべからず。」(御書1052)
と仰せであります。信心が薄弱では、目出度い功徳と歓喜を体験させていただくことはできません。信心の弱さを感じた場合には、日蓮大聖人の不惜身命の御振舞に接することが大切であります。
 今月は11月になります。文永元年(1264)11月11日は、大聖人の故郷安房東条郷の地頭であり念仏の強信者であった東条景信による立宗宣言以来、大聖人への深い怨念と念仏宗を破折された恨みが原因となった小松原の法難が惹起しました。景信は11月11日の夕暮れに、大聖人を亡き者にしようと企て武器を持った数百人の念仏者と、小松原付近で大聖人の一行に襲い掛かった法難であります。大聖人の一行は十人ほどであり、弟子の鏡忍房は殺され、信徒の天津城主である工藤吉隆も命を落としました。大聖人は右の額に深い刀傷を負われ、左手を骨折なされました。
 日蓮大聖人の不惜身命の御振舞に接することとは、その法難後の御振舞であります。法難の三日後には、老齢の旧師道善房と再会され、大聖人は労りつつ師匠であった道善房が長年信仰してきた念仏の邪義を厳しく破折し、速やかに信仰の寸心を改めて妙法へ帰依するように諭されました。道善房は、大聖人の重傷を額に負い、手を骨折しながらも法義の正邪を説き聞かせる姿に触れ、念仏を捨てて法華経に帰依しました。まさに大聖人の不惜身命の御振舞に依ります。
 さて、仏法以外で尊敬する人生の師匠・先生と慕う方は、はたして正しい信心をされているでしょうか。その大聖人の御振舞は、人生の師匠・先生への折伏を御指南下された御振舞と拝します。法難の中でもお世話になった御恩に報いるためには、折伏が第一であると大聖人の不惜身命の御振舞であります。未だ本門戒壇の大御本尊に帰依していない師匠・先生がいれば、今すぐに折伏しましょう。そして恩返しをすることが仏法上、非常に尊いことであります。

 今一度、百日間の唱題行では確認すべき大事な点があります。唱題行中には大聖人の不惜身命の御振舞を思いながら唱える点であります。その上から世界に蔓延しているコロナ禍や異常気象による災害など、眼前に立ち塞がる様々な難事・難局を乗り越え、折伏の大前進を図るためにも大切であるとの確認です。唱題が唱題だけに終わらないよう、着実に折伏へとつながる自行化他にわたる題目になるよう、月々日々に支部体勢の構築を確立していくことが大事になります。
 大変で苦痛を感じている方には、功徳と歓喜を体験するための一寸したきっかけが必要になります。大変で苦痛を感じる時点では、すでに功徳と歓喜への希望は、己身の魔の働きにより邪魔されている可能性もあります。この己身の魔は、「無量劫よりこのかた、をやこ(親子)のため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず。」(御書1056)と仰せの習気が強く禍した三障四魔であります。その己身の魔との戦いを克服するところに、功徳と歓喜の体験があることを確信しましょう。まさに「無疑曰信」(御書1737)であります。
 己身の魔は、功徳と歓喜を体験させまいとして、信心は大変で苦痛であるとの印象を持たせようと障魔が競います。この点を見極めるか否かにより、信心の厚薄へと二分します。
 信心が弱くなる失(とが)があります。五種の過失といわれ、功徳と歓喜を失わせる働きをなすものです。
 御法主日如上人猊下は平成二十七年に開催の「講頭・副講頭指導会の砌」におかれまして、
「『爾前二乗菩薩不作仏事』には、天親菩薩の言葉を挙げて、
『仏は、衆生から五種の過失を除いて、衆生に五種の功徳を生じさせようとして、一切衆生に悉く仏性ありと説かれたのである」(御書182・取意)
と仰せられています。
 『五種の過失』とは、一には下劣心、二には高慢心、三には虚妄執、四には真法を謗じ、五には我執を起こす、の五つであります。
 また『五種の功徳』とは、一に正勤、二に恭敬、三に般若、四に闍那、五に大悲、の五つであります。
 すなわち、五種の過失のうちの『下劣心』とは、仏性を生ずることはありえないと疑う故に、大菩提心を起こさないことを言うのであります。
 『高慢心』とは、高慢な心をもって、もともと自分には成仏の性があるから菩提心を起こすことができると思い上がることであります。
 『虚妄執』とは、我に執着することであります。
 『真法を謗ず』とは、真実の法を誹謗すること、すなわち一切諸法の清浄の智慧、功徳を誹謗することであります。
 『我執を起こす』とは、ただ己れのみに執着して、一切衆生を哀れむことを望まない無慈悲な心を言います。
 この五種の過失に対して、五種の功徳とは、一に『正勤』すなわち、衆生が仏性を顕す五つの条件の第一で、正勤心を起こすことを言い、正しい精進の行を勤めることであります。
 二の『恭敬』とは、慎み敬うことで、仏・菩薩が衆生を救うための振る舞いや説法などを慎み敬うことであります。
 三の『般若』とは、悟りを得る真実の智慧のことであります。
 四の『闍那』とは、智と訳し、世俗智より仏智に至る智のことであります。
 五の『大悲』とは、大慈悲心のことで、一切衆生の苦を救う慈悲心のことであります。
 天親菩薩の『仏性論』には、この五種の功徳は『一切衆生悉有仏性』という法を聞き、仏性が開発されるのであると説かれています。つまり、衆生は仏の『一切衆生悉有仏性』という法を聞くことによって仏性が開発され、五種の功徳が生じ、五種の過失が除かれて、菩提を証することができるのであると説かれているのであります。」(大日蓮 第832号 H27.6)
と御指南であります。信心が弱くなる失、「五種の過失」から「五種の功徳」へと唱題行で境界を変えるように、大変で苦痛でも挑戦していき、さらに「法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる」(御書969)との御指南を心肝に染めていきましょう。

 

宗祖日蓮大聖人『衆生心身御書』に曰く、
「ひへ(稗)のはん(飯)を辟支仏(びゃくしぶつ)に供養せし人は普明如来となる。つち(土)のもちゐ(餅)を仏に供養せしかば閻浮提の王となれり。設(たと)ひこう(功)をいたせども、まことならぬ事を供養すれば、大悪とはなれども善とならず。設ひ心をろ(愚)かにすこ(少)しきの物なれども、まことの人に供養すればこう(功)大なり。何に況んや心ざしありてまことの法を供養せん人々をや。」(御書1217)

 

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