日蓮正宗のススメ

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一番厳しい時こそ光り輝く

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『日曜講話』第九号(平成元年7月1日発行)
一番厳しい時こそ光り輝く

 皆さん、お早うございます。先週の日曜日は、ちょうど総本山の御会式が二十日・二十一日に当たりまして奉修いたされまして、その出仕のために、日曜日の朝、大変失礼をいたしました次第でございます。

 その時に伺った話の中に、静岡県の総本山の近くにある農協におきまして、毎年秋の十月になりますと、サツキの木の鉢植えをたくさん作りまして、それを気温にいたしますと、約五度位の冷たい冷房装置の整ったテントの中に、たくさん作りまして、その気温五度の状態を約三十五日間、ずっと続けるのだそうでございます。そしてその期間を終えますと、今度は、その鉢を気温にして十七度位の暖房の効いたテントに運びまして、そして又、約二十日間、丹精をするのだそうでございます。そうして出来上がったサツキの鉢植えを十二月の中旬から一月にかけまして、全部それを北海道に運びまして、北海道の人達の冬の花として、静岡県から提供するのだそうでございます。

 つまり、これは何を暗示しているかと申しますと、私達は、ごく自然に冬が過ぎ、春が来、そうしますと春の花が咲いて、又、夏には夏の花があり、秋には秋の花が開花すると、単純に一年の四季の中にそうした繰り返しがあるように思っております。その春の花のある種の、例えば五月から六月にかけてを代表する花のサツキが、そうした少し変化を与えることによって、いつもより早く、つまり冬の季節に咲かすことが出来る。そのためには、どうしても約一ヶ月間は冬の寒さに当てなければ、その草花達は絶対に開花をしない。花を咲かすことが出来ないのだそうでございます。

 昔はテントなどというものがないものですから、冷房装置や、又、温室の装置はなかなか難しかった。昔は鉢植えを全部、秋になりますと、富士山の麓に持って行って、同じ静岡県でも平野の部分と富士山の中腹・麓とは大変、朝晩の気温が違います。ですから、そういった気のきいた冷房装置や温室のない時代は、いち早く富士山の麓に置いて、いち早く冬の経験をさせて、そして本当ならば葉っぱが枯れて、それから長い冬眠期に入るのを、秋の季節に富士山の麓に、鉢植えをたくさん並べて、そうして普通の植物が秋の状態の時に、もうその鉢植えには冬の経験をさせるということによって、開花の時期を早くさせることが出来る。そういうことは結局、自然界の営みをより早く経験させるためには、そういうふうな手段が必要なのでありましょう。

 いづれにいたしましても、私達の人生にとっても、信心の上にとっても、やはり諸難、あるいは冬のような厳しい季節、厳しさというものは、やはり絶対に必要なのだということを暗示していると思うのでございます。私達も信心するさ中において、ともすると諸難があったり、中傷や迫害があったり、冷笑があったり、色々なことがありますと、その時その時に、「信心しているのに」とか、「お題目をあげているのに」とか、「どうして理解をしてくれないのか、わかってくれないのか」とか、「どうして広宣流布がいち早く進展しないのか」と色々なことで、凡夫は悩み苦しむのでございます。

 けれども、しかし一本の名刀を作るためには、焼くということもあり、又、叩いて叩いて叩き抜いて、打って打って打ち抜いて、鍛えるということがあり、そして又、さらに最後の仕上げとして、磨くという作業も、ぜひ必要なのだということを知って頂きたいと思うのでございます。  大聖人様は『薬王品得意抄』という御書の中に、

 「月はよい(宵)よりも暁は光まさり、春夏よりも秋冬は光あり」(全一五〇一)

ということを仰っていらっしゃいます。月の光は夜空を仰いだ時に、夏の月よりも、やはり厳しい寒さの中で、冬の月のほうが、はるかに光は一段とその光彩を放っているものだということを教えていらっしゃいます。つまり、この御文を通して、大聖人様は、何を私達に教えようとなさったのかと申しますと、この妙法の功徳は、釈尊の在世よりも、正像二千年の天台大師や伝教大師の時代よりも、末法の今、この濁悪の一番厳しい今日こそ、妙法の本当の光が輝く時代なのだということを教えていらっしゃるのであります。そして又、私達の信心の功徳というものも、我々の生活といわず、人生といわず、そのすべてが順境の時よりも、恵まれている時よりも、本当に苦しい、どん底に落ちたその冬の季節のほうが、むしろその時こそ、本当の功徳というものが醸成される、育てられる、実ってくるものだということを、大聖人様は、その月に譬えて、冬の厳しい寒さの中にこそ、こうこうと光り輝くのだということを教えられております。

 又、この自然界の植物というものも、我々が一月二月というのは本当に寒い季節だと思っております。一年の十二ヶ月の中で一番厳しい寒さのさ中だと思います。確かにそれはそうであります。しかし、草花にとりましては、その寒さの中に、新しい芽が枝の先端に、きちっと、もう芽を吹き出しているのでございます。ですから、一番厳しい時こそが、又、一番大事なんだということも、大聖人は、こうした御文を通して教えて下さっておられるのでございます。

 『上野殿御返事』に、

 「しばらくの苦こそ候とも、ついには、たのしかるべし。国王一人の太子のごとし。いかでか位につかざらんと、おぼしめして候へ」(全一五六五)

ということを仰っていらっしゃいます。どんなに辛い、どんなに厳しいと申しましても、そんなことが十年も十五年も二十年も続くはずがない。必ず、しばらくの苦はあったとしても、その災いを幸へと必ず転換することが出来る。それはあたかも一人の皇太子が必ず国王の座につくことが出来るように、今はどんなに苦しくても辛くても、真の妙法の勝利者となって、人生の真実の福徳に輝く王者の季節が必ず来る。国王の位につくことが出来る。信心の福徳の上において、皆様方の一族一門の人達の中のその最上の位につくことが出来ると、大聖人は教えて下さっているのでございます。この大聖人の御指南こそ末法の御本仏の御指南であり、一閻浮提の第一の法華経の行者が、そのことを保証して下さっていらっしゃるのだということを深く確信して、諸難に打ち勝ち、これから厳しさを増して来る冬の寒さの一切に打ち勝っていって頂きたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせて頂く次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年十一月二十七日)