日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

信心でいただく五つの食物

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
信心でいただく五つの食物

 皆さん、お早うございます。私は、この妙光寺に赴任する以前に、約二十年間、埼玉県の浦和市のお寺の住職を拝命しておりました。その時に、埼玉県の公明党から県会議員に当選して、永く県会議員を続けられた方がいらっしゃいました。その方は昭和二十年代の終わりに、常在寺において御授戒を受け、そして日蓮正宗の信徒となって、既に三十何年と、この信心を全うしておられる方であります。その方が貧しい青年時代に、長く肺結核を患って、毎日毎日、貧しい生活の中に、又、苦しい病魔と闘っていた。その時に、ある方から折伏を受けて、常在寺で御授戒を受け御本尊をいただいた。その時は自分はどういう理由で入信したかと言うと、折伏を受けた人から、「このお前の体を治す薬は、ただ、お医者さんからいただく薬だけが薬ではないのだ」と常在寺へ連れて来られて、「ここに『是好良薬 今留在此 』(ぜこうろうやく、こんるざいし)と経文にある。今この良薬を此におく、汝、取って服すべし」ということを強く言われて、両の手を合わせて「手を合わせるという良薬も此にあるのだ」と言われて、それだけの折伏で自分は入信をした。そして帰りの電車賃もなくなって、歩いて帰ったのだということを言われておりました。その方が、その病魔を克服して、そして今は家業を立派に繁栄させ、そして又、政治の世界にも、うって出て、今は一族の人達が、こぞって、この大聖人様の弟子としての信心を全うしておられるわけであります。

 この良薬というものも、ただ、お医者さんからいただく薬や、あるいは注射をしていただくものだけが良薬ではないのであります。常に、この大聖人様の仏法を通しての御本尊の良薬ということが、大聖人様の御書の各所に説かれております。同時に又、仏法では大切な食べる物に譬えてこの法の尊さということを教えておられるのであります。私達は、ともすると食べ物と言うと、口の中からいただく物だけが、吸収する物だけが、食べ物だと思っておりますけれども、実はそうではないのでありまして、この信心を通していただく食べ物の中にも、五つの食べ物があるということを、今日はお話申し上げたいと思うのであります。世間の人は、そんなことは全く考えもしない、気付きもしないことでありますけれども、仏法の教えの中には、そうした五つの食べ物があるということを、今日は考えていただきたいと思うのであります。

 その第一は「念食」(ねんじき)ということであります。これは正しい正念、正しい念慮(ねんりょ)の念ということであります。これは今までの爾前・迹門の、あるいは謗法の罪障やその謗法に対する執着というものを捨てて、そしてこの大聖人様の正法のもとに正しい念慮に立って、そして自分が向上の一念をしっかりと持って、信心の一念に立って、そしてその仏道を修していく。その発心・向上の信心の信の一念ということがある限り、皆様方のその信心のところに、必ず大きな功徳が備わってくるという意味で、この正念、この「念食」を食べるということが必要なのだということを説かれております。

 その次が「法喜食」(ほうきじき)と申しまして、これは『法華経』の「五百弟子授記品」という所(開結三五九)にも出ておりますが、法の喜びの食べ物であります。この正法を行ずる喜び。この大聖人様の仏法に巡り会えたその喜び。信心を通していただいた、この功徳の歓喜の食べ物です。やはり仏法を修する以上、そこに、やはり自(おのずか)ら法の喜びというものが備わってくる。折伏が出来たら、その折伏の出来た嬉しさ、その功徳、その喜びというものが澎湃(ほうはい)として起こってくるわけであります。障魔を乗り越えたら、その障魔を乗り越えたその喜びが、病魔を克服したら、病魔を克服した言うに言われぬその法悦、法の歓喜というものがそこに備わってくるわけであります。この閻浮提第一の正法を行ずる者には、閻浮提第一の正法を行ずる者だけが知る尊いこの法の喜びというものが、必ず備わってくるということを確信をしていただきたいと思うのであります。その法の喜びの食べ物を大いに召し上がっていただきたいと思うのであります。

 世間の人は、そんなことを言ってもお分かりにならないと思いますが、今日ここに御参集の皆様方は、一人ひとり自(おのずか)らその信心の喜び、そして又、蕩々(とうとう)としてこの信心を通して守られた喜び、功徳の喜び、実践の喜び、折伏の喜びというものを、お感じになっておられるはずであります。その法の喜びの食べ物、「法喜食」を沢山いただくということが、又その功徳を生む大きな源泉となってくるのであります。又信心を養う大きな源(みなもと)の食べ物となるんだということも考えていただきたいと思います。

 その次が、これもやはり『法華経』の「五百弟子品」に出て参りますが、「禅悦食」(ぜんえつじき)と申します。禅定の禅という字に法悦の悦。これも又、喜びの食べ物。「禅悦食」ということでございまして、これはこの信心を通して「現世安穏 後生善処」という豊かな円満な、そうした安穏な境涯というものを、自分の心の上に、身の上に、又、家庭の上に、人生の上に、きちっと築いていく。そして又、少々のことがあっても、一切を、それを乗り越えることの出来る悠然とした、そうしたこの不屈の境涯というものを自分の人生に築いていくことが出来る。その幸せな境涯というものを、きちっと、信心を通して築いていくことが出来る。これが「禅悦食」ということであります。やはり信心を七年、十年、十五年、三十年と貫いた人達が、無想だにもしなかった幸せな境涯というものを、きちっと切り開いておられる姿が、皆様の身の回りに、私達の身の回りに、たくさんあるわけであります。そうした人の信心を通して築いた境地、境涯というものをお手本にして、これからの信心を全うして、大いにその「禅悦食」の境涯を、その食べ物を味わっていただきたいと思うのであります。

 その次が「願食」(がんじき)、願う食べ物ということであります。これは私達の信心は決して自分だけが幸せになれば良いということではありません。大聖人様の仏法は一貫して自行化他ということの法門を説かれ、その精神を大聖人様御自(みずから)ら実践されておられるわけであります。そして又、四弘誓願(しぐせいがん)ということを教えておられるのであります。やはり私達が常に広宣流布の願行というものをしっかりと心に置いて、又、自分自身が朝の勤行の時も、そして又その信心の実践の上においても、そうした広布への願い、広布への一念、その一大願行というものを、この信心の根幹にきちっと持っておるということが大切であります。そして又、勤行もただ、御本尊の前に端座して、経を読み、題目を唱えれば良いということではなくて、広宣流布ということを根本にして、その上に立った自分自身の毎日の願い、御本尊様に御祈念をし、御本尊様に願うことがあって、希望があって、その自分の希望や悩みや苦しみの一切を御本尊様に託して、そしてその信心を通して打ち勝っていくという、その常に願いを持つ、「立願」願いを立てて、そしてその蕩々とした揺るぎない信心を全うしていくということが大切なのであります。 唯、意味もなく言われるからやるとか怒られるからやる、あるいは人が見ているからやるということでなくて、自分から自ら御本尊様に誓願をおこし、自ら願いきって、そうしてして自らの一念において信心を全うしていくということが大切なのであります。子供は子供なりに願いを立てて、お母さんはお母さんなりに願いを立てる。お父さんはお父さんなりにその願いを持って、そして信心をするということが大切であります。その信心を通して、その願いが一つ二つと叶えられていく時に、「願食」を目の当たりに我が血肉とすることが出来るわけでございます。

 そして最後は「解脱食」(げだつじき)。これは一人ひとりが、成仏の境涯に立つということであります。人間の生まれたままの姿形というものは、みんなこれは不浄の煩悩の体であります。人間の体というものは、我々は気が付きませんけれども、みんなお互いにその謗法の執着に毒されてきた、又そうした体でもありますし、又、煩悩の中から生まれてきた人間でもございます。その不浄の体というもの、私達の体は、口からいただいた物は又、排泄をしていくわけでありますし、我々の命が尽きれば、臭気を発する体でもあります。本当に人間の体というものは、若い時は輝いておりますけれども、しかし段々段々と年が老いて参りますと、醜い姿にも変わっていく。そういうことを考えると、やはり不浄な体であります。その不浄な体であるけれども、しかし又、信心を通して六根清浄の命へと改革していくことが出来る。煩悩を菩提へと、生死を涅槃へと、そして娑婆の忍土を寂光土へと転換していくことが出来る。不幸せや、障魔というものを幸せな境涯へと改革することが出来る。大聖人様の仏法は一切を転換していく。そうした大きな力と意味と用(はたら)きと法門を持った信心なのだということを、よく皆様方お一人おひとりが確信をしていただききたいと思うのであります。そして一人残らずその成仏の、解脱の食べ物をしっかりといただいて、悔いのない生涯を全うしていっていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年四月十日)