日蓮正宗のススメ

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唱題の意義について

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『日曜講話』第七号(平成元年3月1日発行)
唱題の意義について

 皆さん、お早うございます。今日は私達の信心修行の上におきまして、題目をあげるということの尊さ、何故に正行の題目として、百万遍の唱題、一万遍の唱題、三千遍の唱題等と、御本尊様のもとに、自分の信心の志を立て、唱題の行を重ねる、そうした唱題の意義ということを、大聖人様の御指南を通して考えてみたいと思うのであります。

 その第一番目に申し上げたいことは、何と申しましても、この題目は、一人一人の十界の衆生が即身成仏の境涯を得て行くための根本の種子である。「たね」であるが故にということでございます。

 大聖人は『秋元御書』という御書の中に、

 「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏になり給へり」(全一〇七二)

ということを仰せになっていらっしゃいます。久遠元初の仏様、大聖人様御自身が、あるいは又、三世十方の諸仏は、ことごとく、この南無妙法蓮華経を信じて、南無妙法蓮華経と唱えて、はじめて三世十方の仏となり得たのだという事を御指南遊ばされていらっしゃるのでございます。

 私達は、その久遠元初の仏様の弟子であるが故に、大聖人様の弟子であるが故に大聖人様の唱えられたその大聖人様の弟子であるが故に、大聖人様の唱えられた御題目を、大聖人様の御精神にのっとって、積重ねて行くということでございます。自からの心田に植えた、下種をした南無妙法蓮華経の種子を、それを発芽させ、成長させて、又、大輪の花と咲かせて、そして栄えて行く。即身成仏の境涯を勝ち取って行く。その根本は、やはり題目なのであるということを、深く心に期していただきたいと思うのであります。

 植物も、どんな植物でありましても、種子と、根と、芽や茎や葉や花や実や、いろんな要素がございます。一つの種子から一つの実を結実していくまでには、その時と共に、いろんな変化がございます。その中にあって、何が一番大切か。根が一番大切か、葉が大切か、茎が大切か、花が大切か、実が大切か、何が大切かといいますと、人はそれぞれいろんなことをおっしゃいましょうけれども、一番大切なのは、やはり種子なのです。種子がなければ芽を吹き出すことも出来ない。芽が出なければ茎を育てることは出来ない。又、種がなければ、根を張ることも出来ない。たしかに根には根の働きがありましょう。茎は茎の使命があるでしょう。葉は又、葉の役割があるでしょうけれども、しかし、その根本の種子がなければ、一切のものを成就することは、やはり出来ないのであります。又、種子の中に葉になる細胞も、実になる細胞も、茎になり根になり、実に結実していく一切の細胞が、全部一つの小さな種子の中に凝縮されているわけであります。ですから植物にとりましても、一番大切なのは種子、「たね」である。私達の信心にとっても、根本の種子であるところのお題目というものが、一番大切なのであるということを、やはり一人一人が心に置いて、題目を唱えていただきたいということであります。

 その次に申しあげたいことは、それは先ほども触れましたように、私達は、大聖人様の弟子檀那として、大聖人様の御金言、御指南を信じ行ずるが故に、題目を唱えるということであります。大聖人様御自身が『報恩抄』に、

 「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらわず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(全三二八)

ということをおっしゃっておられます。こうした大聖人様の御指南をその通りに受けついで、大聖人様の弟子として私達はお題目を唱えるのであります。私達の信心は、自分の我見によって、自分流に自分で判断して、自分で納得して、自分の気が向いたことだけをするという信心ではないのであります。どこまでも自分の我見を捨てて、大聖人様の御指南を信じ、大聖人様の弟子として、大聖人様の御金言の通りに行じていく。そこに日蓮大聖人の教えを自分の生活の信条として、信心の根本の指針として、大聖人様の信心をつらぬくというところに、私達の弟子の道があるわけであります。日蓮正宗の信心は、そこに命脈があるのであるということを、私達は心に期していかなければいけないと思います。

 「今末法に入りぬれば余教も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(全一五四六)

と、大聖人様は『上野殿御返事』に教えて下さっております。このように、どこまでも私達は大聖人様の御金言を信ずるが故に、大聖人様の弟子としての信心を正しく純粋に誤りなく行ずるものであるが故に、その誇りの上において、大聖人様の唱えられた題目と同じ題目、御本尊様の法体の題目を唱えるのだということであります。

 三つ目に大切なことは、題目は何と申しましても、これは功徳の源泉です。尊い功徳の泉であります。功徳の基礎であります。大聖人様は、題目の一遍は法華経一部の功徳に相当するということを申されております。一遍、題目を唱えるということは、法華経二十八品の一部を、ことごとく読み切ったという、その功徳と全く同一なのだということを言われております。従って『十如是事』という御書の中に、

 「是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば法華経を覚りて如法に一部をよみ奉るにてあるなり。十遍は十部・百遍は百部・千遍は千部を如法によみ奉るにあるべきなり」(全四一一)

ということを言われております。お題目を百遍唱えるということは法華経一部二十八品を、ことごとく全部、百回読み切ったと同じ功徳がそこにそなわってくるんだと。千遍は千部、万遍は万部、百万遍の題目ならば百万遍をそれを身に行じた、読み切ったそれだけの功徳が、そこにそなわってくるんだということを言われております。そして又、不退に信じて、不退に唱え切ったならば、不退に法華経を読み切ったことになるという事を大聖人様は教えて居られるのであります。その大聖人様の又御金言を通して、私達は唱題の正行を貫いておるのだということであります。

 そして最後に申し上げることは、それは大聖人様が『三大秘法抄』という御書の中に、

 「今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亙りて南無妙法蓮華経なり」(全一〇二二)

とおっしゃっておられますように、これは末法下種の正意の修行として、自行化他にわたっての信心を全うする。その姿において、末法正意の修行として、私達はこの題目を唱える。そして又、題目を自から唱えるだけではなくて、他の人にも勧める。自他共に唱えるというその題目、自行化他にわたりての題目を、私達は唱えなければいけないのです。そこが自行だけの日蓮宗の題目と違うわけで、私達は自行化他にわたって、自から唱え、又、他の人をも勧めて題目を唱える自行化他にわたっての題目であり、それは法華経の経巻の題目ではなくして、御本尊様の法体の題目を唱えているんだということです。

 そこに大聖人様と私達の間に師弟の感応があり、御本尊様に仏力と法力があり、私達の唱える題目、すなわち信行の題目と、相一如して、境智冥合するところに、真実の即身成仏の境涯が開かれていくのであるということであります。そうした四つの要素のもとに、私達は、この題目こそ末法正意の修行として、正行の題目として唱え切っていくんだということでございます。どうか皆様もこうした意義を深く心に置いて、今後共ますます、大聖人様の弟子として、大聖人様の御義に叶う題目を唱え切っていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。御苦労様でございました。

(昭和六十三年七月十日)