日蓮正宗のススメ

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真金の人になれ

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
真金の人になれ

 皆さんお早うございます。大聖人様の御書の中に、私達が信心を通して一生の間に、自分という一つの品格を作り上げていく理想の形として、大聖人様は「真金(しんこん)の人」ということをお説きになっていらっしゃいます。真の金と書きまして、真金の人。これを「真金(しんきん)の人」という風に読む人がありますが、やはり仏法の読み方といたしますと「しんこん」というのがが正しいと思います。

それは大聖人様の『生死一大事血脈抄』という御書がございます。その中に、

 「金(こがね)は大火にも焼けず、大水にも漂わず朽ち ず、鉄(くろがね)は水火共に堪えず」(全一三三七)

ということをおっしゃっておられます。金というのは鋼鉄、鋼という風に考えていただければよろしいと思います。鋼というものは火にくべられて、そして刀鍛冶にたたかれて、一本の鋼ができ、また名刀が作りあげられていくわけであります。そのように私達は、この信心を通して自分を鍛えること、信心をとおして修行をもって、自らを形成していくことが、やはり大切でございます。確かに「三障四魔紛然として競い起こる」ということだけにとらわれますと、非常につらい、大変なことでありますけれども、それを発心のばねとして、それがあって自らが鍛えられるということになりますと、諸難というものも、また大きな意味をもっておるということが言えると思うのであります。

そこで大聖人様は「金は、鋼鉄、鋼というものは大火にも燒けることがない。また雨の水にも、朽ちることがない」ということをおっしゃっておられるわけであります。反対に「鉄は水火共に堪えず」鉄というものは当然、雨風に一見強いように見えていても、実はまた弱いわけであります。木造の建物と鉄筋の建物と、どちらが強いかといいますと、素人考えでは、木の方が燃えやすい、あるいは朽ち果てやすいという風に考えております。しかし、そのように見えていても、実はそうではありません。鉄筋は百年持つとか、二百年持つとかいわれておりましたけれども、事実においては五十年、百年経つと、もはや朽ちていってしまう。やはり私達の想像と実体とは違うということが、段々わかってきたわけであります。アメリカのニューヨークなんかに行きますと、鉄筋の建物は百年、二百年経っても、なお朽ちないで立派にその雄姿を保っているかと思うとそうではない。もはや百年前、百五十年前に建てた建物が、やはり今は見苦しい姿を現出しているというのが、また現実であります。鉄筋コンクリートの中に打ち込んだ鉄筋が、セメントを通して染み込んだ雨水によって何時の間にか浸食されて、みにくい弱い姿になっているのも、これまた事実であります。

 大聖人様はそんなことを、ご覧になったわけではありませんけれども、しかし、「鉄は水火共に堪えず」という風に、大聖人様の御仏智の上から、このようにお説きになっていらっしゃるわけであります。

そのことを私達の人間形成の上に、また信心の上に例えられまして、大聖人様は、

 「賢人は金の如く愚人は鉄の如し。貴辺豈真金に非ずや、法華経を持つ故か」(全一三三七)

という風におっしゃっておられます。こうした大聖人様がお説きになった御文は、やはり一つの文証が、きちっとあるのでございまして、これは『涅槃経』の「聖行品」の中に、

 「真金の三種に試み已りて、乃ち其の真を知るが如し。焼・打(ちょう)・磨を謂う」(大正蔵十二ー四五〇・A)

ということを説かれております。

「燒」というのはよく燒くということです。刀鍛冶が一本の名刀を仕上げるためには、砂鉄を集めて、それを炉に入れて、千何百度の温度に高める。全く液状になってしまうほど、よく燒きを入れる。燒き鍛えることが、そこに、まず最初の段階としてあるわけです。そして、よく燒いたものを今度は鍛え打つ。何回も何回も、たたいて、たたいて、たたき抜く。そして鍛えていくということがあるわけです。まず燒いて、そしてよく打つということです。そして最後には研磨する。よく磨くということがあって、一本の名刀が作られていく。ですから燒く、叩く、鍛える、そして研ぎ磨くということがあって、はじめて真金という一本の鋼というものが出来上がるのであります。

それは私達の信心の上においても、よく鍛える、訓練を受ける。正しい筋道にのっとった修行を繰返し、繰返し行う。そしてまた先達の人について、よき規範のもとに、正しい信心を全うしていく。そうしたときに、ある種の執念というものが大切になってくるわけであります。

 「彼の苦行を試みるも亦当に是くの如くなるべし」(大正蔵十二ー四五〇・A)

妙法におけるこの信心も、そうした、よく燒くということと、よく打つということと、よく磨く、鍛えるということの、この三つが、きちんと相まって、それを乗越えたときに、本物の人になっていくのだということを説かれておられるわけであります。

こうした鍛えというもの、よく燒く、打つ、そして磨くという段階を経た人というのは、よく考えますと、その人には、やはりそういう修練を通して、その人の強さというものが身についてくるわけであります。少々のことには、ぐらつかない、何を言われ、どういう仕打を受け、どのようなことがあっても、絶対に退くことがない。その強さというものが、そこに備わってくる。それと同時に体験を通して、その人の力といいますか、実力といいますか、不退転の信心の姿というものが、その人の身の上に必ず、ついてくるものであります。

勤行の実践の上から、また人を教化、育成していく指導力からいっても、折伏の実践からいっても、やはり体験を通して人を導く上においても、言うに言われぬその人の自

然に身についた力というものが、そこにあるわけであります。やはり、そういうものを一歩一歩自分達も身につけていく、見習っていく、力をつけていくことが大切だと思うのであります。やはりそういう諸難を自らの発心のばねとした人は、言うに言われぬその人の輝きというものが備わってくるのであります。

反対に鍛えられたことのない、そうした苦難を知らない人は、どうしても、そこに弱さというものがある。少し何かあると、大聖人様を疑い、信心を疑い、「このようにお題目をあげているのに、信心をやっているのに、何年やったのに」と、ついついそういう愚痴の人になっていってしまうわけであります。

私達はそうであってはいけない。あまやかされたり、あるいは苦労を知らない、苦難を経験したことがない、信心の鍛えが足りないという、そういう人になりさがっていってしまうと、どうしても信心のたくましさや諸難を乗越える信心ではなくなっていってしまうわけであります。

従って私達も、やはり信心の草創の時代の人達を見習って、皆さん方の仕事の上においても、理論よりも、あるいは机の上よりも、実際に現場において、現場で苦労する、

現場を知っておるということが、仕事の上でも大切なことであります。

 信心の上でも、やはり逃げの人ではいけないわけであります。どんなことにせよ、それに敢然として立ち向って、そしてそれをしのいで、そこからまた学んで、そこから体験を積んで、そして全部すべてを自分のものにしていくということが大切だと思うのであります。

大聖人様はそうした三障四魔といわず、あるいは、いろんな諸難といわず、すべてを乗り越えてこそ、はじめて真金の人になれるのだ。そうした実力の人になりなさいということを御指南遊ばされておられるわけであります。

大聖人様は、そうしたあるべき姿を、大聖人様御自身が体験して見せて、乗越えて見せて、そして日蓮が弟子に対して「二陣三陣と続けよかし」とおっしゃっておられるんだということを、我々は一つ大いに学んでいくべきと思うのであります。同じような意味のことを大聖人様は『佐渡御書』に、

 「鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣となる。賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし」(全九五八)

とおっしゃっておられますし、『兄弟抄』という御書の中にも、

 「石はやけば灰となる。鉄はやけば真金となる」(全一〇八三)

ということをおっしゃっておられます。こうした『兄弟抄』あるいは『佐渡御書』、そしてまた『生死一大事血脈抄』等々の御文を拝するにつけ、この真金の人になるべきだということを、心に銘記していただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年四月十七日)