日蓮正宗のススメ

凡そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり。

青春時代の生き方

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
青春時代の生き方

 皆さん、お早うございます。本日は、大聖人様の御指南を根本にいたしまして、私達の青春時代のあり方、生き方ということにつきまして、考えてみたいと思うのであります。

 一つには、何と申しましても、私達の青春というものは、学びの時代であること。一人ひとりが、強盛な求道心(ぐどうしん)、法を求める一念心をもって、信・行・学のうえに力をつけていく、発心を重ねていく、そういう時代でなければいけないと思うのであります。

 大聖人は『松野殿御返事』という御書の中に、

 「誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば、我が身命を捨て仏法を得べき便(たより)あらば、身命を捨てて仏法を学すべし」(全一三八六)

と仰せられております。

 若い青春時代というものは、社会的にみましたら、まだまだ出発のときでありますし、経済的にみましたら、まだまだ一人ひとり貧しい身であります。だからこそ、それを特権にして、法のうえにおいては一番の富める者として、一番の発心をする者として、強い求道心をもって精進をしていくことが大切だと思います。天台大師の言葉の中にも、

「発心は万行の半ばなり」

という言葉があります。全てのものを成就するためには、第一段階として先ず強い一念心をもって発心をする。決意を立てるということが大切であります。それなくして何事も成就しないのであります。その強い発心の決意が定まったとき、物事は半分、成就しているに等しいという、天台大師の言葉であります。

 また、伝教大師の『山家学生式』(さんげがくしょうしき)という書物をみましても、その冒頭に、一切の人びとの宝、真実の国の宝とは一人ひとりの道心だ、道を求める志だと言われております。

「国宝とは何者ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す」(伝全一ー五)ということを言っております。世間の人達は、国宝といいますと、ついつい古い建物とか、奈良や京都の仏像・絵像というものが国の宝のように思っております。しかし、そうではありません。本当に社会をつくり、国をつくり、一人ひとりの人間を救済していく。本当の宝物は、一人ひとりが、その胸中に深く秘めるところの法を求める信心の一念心、道心こそが、自分を改革し、家庭を改革し、また社会を改革し、一切の法界の全体を改革していく道につながっている。そのもとは、自分の本当の小さな発心に始まるということを、天台大師も、伝教大師も、すでに今から千何百年の昔に、深く自らの決意のうえに立って、そういう言葉を遺しておるということを、われわれは知らなければいけないと思うのであります。

 その次は、私達の青春は、常に挑戦の時代、言葉を換えて言うならば、物事の修行の時代だということであります。

 ですから、大聖人は『撰時抄』の中に、

 「されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命をおしまず修行して此の度仏法を心みよ」(全二九一)

ということをおっしゃっておられます。人生のどういう道に進まれようとも、やはり、この信心を、閻浮提第一の正法を土壌として、そして深く、営々として、いかなる辛いことがあっても、何があっても、修行をしていく、力をつけていく、学んでいく。そういう時代だということを心に決めて、その辛さ、あるいは、その修行の意義というものを知って、一切に堪えていっていただきたいと思うのであります。僧侶にとっては僧侶の修行がありましょうし、在家の皆さんにとっては、また信心の修行もございます。そして社会人として生きていく、職業に生きる。その道その道の修行というものがあるでしょう。そういうものを、しっかりと学んで、吸収して、そうして、わが身に、わが命に刻んでいく、蓄積していく。言葉を換えて言えば福徳を蓄積していく、力を蓄積していく。信用を蓄積していく。そういう時代だということを心に置いていただきたいと思うのであります。

 三つ目に申し上げたいことは、私達の青春は、正義感に立脚して行動の時代であるということであります。ただ頭でっかちになって、ただ理論的に、自分の頭の中で考えていく時代ではなくて、「身口意三業」ということを大聖人様が言われるように、やはり心にしっかりとした決意に立って、また自ら唱え、行じていく。その実践の時代、行動の時代、それがまた青春の特権でもあるという風に考えていただきたいと思います。

 大聖人は『聖愚問答抄』に、

 「悪を見ていましめず、謗を知ってせめずば、経文に背き祖師に違せん、其の禁め殊に重し、今より信心を至すべし」(全四九七)

ということを言われております。やはり青春時代の人びとは、その若さの上において、強い正義感に立って、悪を見たら悪を許さない。謗法を見たら謗法を許さない。そういう折伏の一念に立った正義感に燃え立っていただきたいと思うのであります。悪を見ても何もせず、かえって自らが悪に染まっていく。悪に堕ちていく。そういうことであっては決してならないと思うのであります。やはり自らを戒めると共に、社会の、そうしてまた宗教界の悪、謗法を許さない。そういう正義感に燃え立った折伏の人であっていただきたいということであります。

 四つ目に申し上げたいことは、私達の青春は、修行を通しての、いろんな意味での錬磨、鍛えの時代でなければならないということであります。皆様方も、大聖人の『佐渡御書』を拝してください。

 「鉄(くろがね)は炎打(きたいう)てば剣となる、賢 聖は罵詈(めり)して試みるなるべし」(全九五八)

ということを言われております。諸難に打ち勝つ自分、三障四魔といわず、また、いろんな意味で自分の心を鍛える、自分の命を鍛える、心身を鍛える、そういう鍛えの時代。そういう鍛えを通して、自分の人格も、また強い頑健な体も、また不撓不屈(ふとうふくつ)の信念というものも、そしてまた自分の頭も、心も、一切が鍛えられて、本当に名実共に、妙法弘通の闘将が育っていく。人材が澎湃(ほうはい)として養われていく。その基は、やはり鍛えということがなければ絶対にありえないのであります。

 やはり春の花の喜びも、冬の厳しさというものがあってこそ、春の花の値打があるのでありますし、また夏の暑さの酷しさを堪えてこそ、真実の秋の稔りも、紅葉の輝きもあるわけであります。そうした鍛えや、錬磨や、障魔の時代を避けていたのでは、決して真実の稔りや、真実の栄光はないということを、深く心に銘記していただきたいと思います。

 そうして最後に申し上げたいことは、私達の青春は、常に獅子王の気概を持って、広布の使命を、しっかりと、わが身のうえに、たぎらせていく。そういう時代こそが、真に妙法に立脚した青春の時代だと思うのであります。

 大聖人は『閻浮提中御書』に、

「願くは我が弟子等は師子王の子となりて群狐に笑わるる事なかれ」(全一五八九)

ということを言われております。信心のうえにおいても、繰り返し申し上げますが、閻浮第一の正法を行ずる者であります。従って、自分の人格のうえから言っても、仕事の上から言っても、生き方のあらゆる面から、諸宗の謗法の人間に笑われるような、蔑(さげすま)れるような私達であってはならないと思うのであります。人間としても、あるいは職業人としても、社会人としても、いかなる意味から、いかなる側面から見られようとも、「さすがに、やはり正宗の信心に裏打ちされた、言うに言われぬ力を持っておられる」と、そういう人を教化する力、人を指導する力、そして人びとのために命がけで邁進しておる。そういう一つの姿を通して、実践を通して、社会の人びとに信頼を勝ち得、また妙法を行ずる者の値打を実証していっていただきたいと思うのであります。

 やはり一人ひとりが、そうした実力者になっていただきたいのであります。信心のうえの実力と同時に、社会人としても、家庭人としても、お父さんはお父さんなりに、お母さんはお母さんなりに、そうした実力を持った立派な人材へと成長していっていただきたいと思うのであります。 そのための鍛えの時代、あるいは発心の時代、行動の時代ということを深く心に置いて、若い今こそ、そうした一念心に立って、繰り返し繰り返し発心を重ねながら、精進の人としての崇高な青春の時代を生きていただきたいということを申し上げまして、本日の御挨拶とさせていただく次第でございます。大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年九月十一日)