日蓮正宗のススメ

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文・義・意の法華経

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『日曜講話』第六号(平成元年1月1日発行)
文・義・意の法華経

 皆さん、お早うございます。まもなく四月二十八日がやって参ります。四月二十八日ということを聞きますと、建長五年四月二十八日、宗祖日蓮大聖人様の立宗宣言を遊ばされた日だということは、たいがいの方がおわかりのことと思うのであります。大聖人様は、この建長五年四月二十八日の早朝、清澄の山上に立たれて、遥か地平線の彼方を臨んで、この宇宙法界に向かって、南無妙法蓮華経の第一声を打ち立てられたのでございます。そのところに日蓮正宗の淵源もあるわけでございます。私は、いつも、その時に大聖人様の唱えられた南無妙法蓮華経は、釈尊の唱えられた題目でもない。そしてまた『法華経』の経巻の題目でもない。天台大師や伝教大師が唱えられた題目でもない。大聖人様が深く久遠元初のその原点において、

 「至理は名無し。聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時(いんがぐじ)不思議の一法、之れ有り。之れを名けて妙法蓮華と為す」(当体義抄、全五一三)

と、おさとりになった、無師独悟せられた、その御本尊の法体の題目なのだということを、いつも申し上げるのでございます。中には、譬えば『法華経』の「妙法蓮華経序品第一」・「妙法蓮華経方便品第二」・「妙法蓮華経譬喩品第三」という風に、『法華経』二十八品のその始めに「妙法蓮華経何々」「妙法蓮華経何々」と、品題の題目が書かれておりますし、大聖人様が唱える以前に、このように羅什三蔵の訳した『法華経』にも、妙法蓮華経ということがあるでないか。あるいは天台大師や伝教大師のお書き物の中にも、妙法蓮華経、あるいは南無妙法蓮華経という文字が書かれているではないか。従って、大聖人様が南無妙法蓮華経の第一声を唱えられたというのは、そういう住職の説法はおかしいと言って、ある方がお酒を飲んで、その勢いで突っ掛かって来た方がございます。そうした人も含めて、皆様方によくわかっていただきたいことは、この法華経には、「文の法華経」と「義の法華経」と「意の法華経」の、文・義・意の三つの区別があるということを、しっかりと覚えておいていただきたいと思うのであります。大聖人様御自身が『四信五品抄』や、あるいは『曽谷入道殿御返事』という御書の中に、

 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ」(全三四二)

と、文・義・意の立て分けをきちんとお説きになっていらっしゃるのであります。「文の法華経」ということはどういうことかと申しますと、それは、ただいま申し上げましたように、『法華経』の「序品」から『法華経』の二十八品の一番最後の「勧発品」に至るまで、その『法華経』の文の全体を、これを「文の法華経」と申します。その「文の法華経」の中にも、その題号として、一番最初に「妙法蓮華経序品第一」とか「妙法蓮華経方便品第二」と書かれた、その品その品ごとの、その章その章ごとの題目、また一経全体の題目を、これを「文の法華経」あるいは「文の題目」という風に申すのであります。従って『法華経』をお読みになった方は、インドや中国や日本におきましてもたくさんの方々が『法華経』を読んでおられると思うのであります。もちろん、法然さんだって『法華経』を読まれたでしょう。あるいは親鸞道元だって、この『法華経』を読まれたでしょう。現在でも、色々な諸宗の学者がお読みになります。皆様方が、また『仏教大辞典』か何かを片手にして、『法華経』の文々句々を、何とかその意味を知ろう、意味を知ろうと思って読む法華経は、これは全部「文の法華経」であり、法華経の文上の意味を探っているにしか過ぎないわけであります。また道元禅宗の人達が読む法華経は、禅宗を土台にして読む法華経でありますし、それからまた、念仏の人達が読む法華経は、念仏を基礎にして読む法華経であります。天台の人達が読む法華経は、天台の教義を根底にして読むところの法華経であって、どこまでもそれは法華経の本意に基づく、法華経の意(こころ)に基づく、法華経の法体に基づく法華経ではない。しかし今、私達が勤行の時に読みました方便品、あるいは寿量品の経文は、私達はその文字面を読んでいるのではないということを、よく知っておいていただきたいと思うのであります。そういう諸宗の人達が読む法華経は「文の法華経」でありまして、もっと言葉をかえて言うならば「体外(たいげ)の法華経」と申しまして、単なる表面上の、外見上の、その単なる文字面を追いかけているにしか過ぎない。あるいはまた他宗の人が自分達の教義をよりどころにして、そうした眼鏡をかけて読む法華経というものは、それは所詮、天台ずりの法華経であり、念仏ずりの法華経であり、禅宗の人が読む法華経禅宗ずりの法華経なのだということをよく考えていただきたいと思うのであります。 その次に「義の法華経」というものがございます。これはどういうことかと申しますと、法華経の中には、皆様方、御承知のように、本門と迹門との本迹二門の立て分けということがございます。そしてその法華経には、御承知のように大事な法門として、二乗の成仏、つまり十界の人々の、あらゆる人々の成仏ということが説かれておるわけです。そしてその根底に、この寿量品において、寿量の久遠の開顕ということが説かれているわけであります。つまり仏法の淵源は、みなもとはどこにあるかということが説かれて、本仏とは、どのような方を本仏と申し上げるのかということが深くきわめられておるところに、寿量品の意義があるわけです。その寿量品の開顕の立場から、寿量品に明かされたところの御本仏の立場から振り返って、法華経の全体を見る。つまり、法華経の奥底をしっかりと心に把握して、その上から法華経の全体を再び見つめ直す。その法華経を、これを「義の法華経」という風に申すのでございます。  その「義の法華経」の中にも、そこには、一応と再応という違いがありまして、法華経の文上の開顕によって仏の立場から見た法華経と、久遠元初の御本仏の立場から見た法華経の全体の概要と、そこに違いがあるわけです。その「義の法華経」のことを、言葉をかて言うならば、「体内(たいない)の法華経」と申しまして、その体内の法華経の中にも、一応の文上顕本の義の法華経と、文底顕本の義の法華経の違いが、そこにあるわけです。一般日蓮宗の人達や、天台宗の人達が読むところの法華経、唱えるところの題目は、この義の法華経の題目を唱えているわけです。その義の法華経の中にも、文上顕本の一応の義の法華経にしか過ぎないのであります。今、私達が読むところの方便品や寿量品は、その義の法華経の中におきましても、文底の顕本によるところの寿量品が家の方便品、寿量品が家の寿量品を読んでおるということを、そこに大きな違いがあるということを知っていただきたい。

 しかも、大聖人様が始めて唱えられた題目は、その最後の文底顕本によるところの、その所証の法体として、大聖人様御自身が悟られた御本尊の題目なのです。『法華経』という経巻の、その始めに書かれているところのお経本の題目というのが、世間の人が唱える題目であって、私達が唱える題目は、あくまでも、大聖人様が悟られた、文・義・意の中にも「意の法華経」、そして大聖人様御自身の顕された、建立された御本尊の法体の題目、つまり一念三千の三大秘法の題目を唱えておるのだというところに、もう根本的に、その法体・法義、その全体が違うのだというこを知っていただきたいと思います。 

 世間の人はそういうことの立て分けを知りませんから、天台宗の人も南無妙法蓮華経を唱えている、日蓮宗の人も、立正佼正会や霊友会の人も南無妙法蓮華経を唱えている。日蓮正宗で唱える題目も同じだと思う。確かにそれは文字で書けば同じように見えます。ですけれども、その法体が違うということを、しっかりと根底に置いて、そして私達は、どこまでも、大聖人様が建立された御本尊を受持して、御本尊を御安置申し上げて、そして、大聖人様が唱えられた建長五年四月二十八日の原点に立ち返って、大聖人様と師弟一箇の上における題目を唱えておるのだ。そこに御本尊様と大聖人様の御指南を通して、私達との間に、師匠と弟子、仏と救われるべき衆生、大聖人様が親ならば私達はその子供であり、父子一体の、その一如した所、そのところに、師弟の感応がある。御本尊と私達の信心の上におけるところの信を通しての、純真な信心を通しての、この師弟の感応があって、御本尊様との境智冥合の一念心がそこにあって、始めて私達は、大聖人様のそうした南無妙法蓮華経の力、その功徳、その働きによって、一人一人が仏界を開き、そしてまた功徳を受け、六根清浄の命へと改革していく事が出来る訳です。ただ単に文字面の題目や法華経の経文の題目を唱えていくことが出来る。ただ単に文字面の題目や、『法華経』の経本の題目を唱えても即身成仏はないと深く確信をして、大聖人様の御精神に立った、御本尊に立脚した題目を唱えるという意義を、しっかりと把握していただきたい。本日は、大変、御苦労様でございました。

(昭和六十三年四月二十四日)