日蓮正宗のススメ

この世に生まれてきた意味を成し遂げるために

日興上人の御生涯を拝す

『日曜講話』第二号(昭和63年5月1日発行)
日興上人の御生涯を拝す

 皆さん、お早うございます。今日は二月七日、皆様方御承知だと思いますが、第二祖日興上人の御正当日に当たっておりますので、本日は、この興師会にちなんで、日興上人のお話を申し上げたいと思うのであります。

 総本山におきます歴代の御法主上人猊下のお名前と申しますか、日興、日目、日道、日行と、今日、六十七世日顕上人に至るまで、それぞれの御歴代の御法主上人猊下の日号が、つまり日興上人なら日興上人の「興」という「興す」という字が、ちょうど、それぞれ、その時代その時代の御法主上人猊下の役割と申しますか、その一切を現しておられるような気がするのであります。・特に日興上人は大聖人様と共に、この日蓮正宗に於ける本当に草創の基を切り開かれた、富士の清流の原点を築かれたという意味におきまして、そうした思いが特にするのでございます。

 日興上人は、寛元四年といいますから、一二四六年の三月八日に、甲斐の国巨摩郡、現在の山梨県でありますが、そこの鰍沢という所に御出生になられたのでございます。お父さんが大井橘六という方でありまして、お母さんは富士の上方、河合と言う所が富士川沿いにございますが、そこの由比家の御出身の方でございます。そして日興上人は幼少にして、富士郡の蒲原の庄、四十九院と言う所に登って修学を致されるわけでございます。

本宗に於きましては、大聖人様の御書の中にも、

 「名は必ず体にいたる徳あり」(全一二七四)

というようなお言葉が『十章抄』の中にございます。

本当に、その方、その方のお名前というものが、ちょうど、その人のお徳を現わしているということが感得される場合が非常に多いのであります。

 従って、皆様方もそれが俗名であれ何であれ、やはり子供の名前をお付けになる場合でも、良き名前を選んで、その子にふさわしい、あるいは又その子の人材としての成長を願って、その子にふさわしいお名前を考えるということが大切だと思います。

 「名は体に至る徳あり」又「名は体を顕す」(全一一三七取意)ということを言われるわけであります。そこで今日は、日興上人の「興」と言う字にちなんで日興上人の御境涯といいますか、御生涯を拝したいと思うのであります。

 その「興」という「興す」という字には、これはもちろん、皆様方が御承知だと思いますが「おこす」という意味があります。日興上人は後に正嘉二年、大聖人様が三十七才、日興上人が十二才、(ちょうど大聖人様と日興上人の間には、二十五才の年の開きがあったのであります。)御承知の様に岩本の実相寺に於いて、大聖人様が『立正安国論』を御執筆になるその前段として、一切経の閲覧をされている時に、日興上人は大聖人様のもとに弟子入りをなさるわけであります。ちょうど大聖人様の御生涯が『立正安国論』に始まって、『立正安国論』に終わるということを古来言われます。そうした意味で又、日興上人の御一生というものも、大聖人様に常随給仕されて、そして大聖人様から一切の付属を受けられる、その御生涯も又、『立正安国論』に始まっている。師弟共に『安国論』に始まり『安国論』に終わる御生涯であったということが拝せられるのであります。そこで師に仕えて、師に随従して、そしてその法を学び、法を修し、そしてこの法を興すという、そうした日興上人の御生涯が、ちょうど又「興」という一字をもって、その御生涯を表しているように思うのであります。

 日興上人は入門以来、鎌倉に大聖人様がましましている時は鎌倉において仕え、そして又、大聖人様が伊豆の伊東に御流罪になれば又、伊豆の伊東に随従申し上げ、竜の口に於いても、あるいは又、厳寒の佐渡に大聖人様が御流罪になると又、その佐渡に於いて、大聖人様にお仕え申し上げる。後に身延に入られると又、この身延へ御案内申上げたのも日興上人様でございます。

 そのように常に、大聖人様と一体となって、常随給仕の師弟の道を貫かれて、そしてその中に於いて、大聖人様の一切の法義を学び、そして、大聖人様の法門をしっかりと身につけ、同時にその時代その時代に、大聖人様がお著しになるところの御書、あるいはお手紙そういうもののほとんどを、日興上人は、その時代は今のようにコピ−がありませんから、書写を遊ばされました。日興上人の書写は、もはや文永の時代から始まっているのであります。日興上人がお若い時の、大聖人様の『立正安論』の書写本が既に残っております。そのように現在、大石寺には、日興上人がお著しになった大聖人様の御書をお写しになったその要本が今日まで残っております。 そして同時に、これは非常に大切なお仕事でありますが、大聖人様の御書の中にも『立正安国論』とか、あるいは『観心本尊抄』とか『法華取要抄』とか『開目抄』とか、いろんな大事な十大部御書というものがございます。その五大部、十大部と言われる重要な御書をきちっと、日興上人は書写をあそばされておりますし、その五大部、十大部ということをお決めになったのも、確定されたのも、又これは日興上人様でいらっしゃるわけであります。

 そのようにして、大聖人様の法義をきちっと留め、それを又、世に興し、そして折伏流通の、弘教の実践を、大聖人様の御在世当時から、暇をみつけては甲州の故郷の方々に対して、あるいは又、駿河の人々に対して、伊豆の方々に対して、いろんな形で、日興上人は折伏の実践を遊ばされているということであります。

 その日興上人の教化によって、日興上人、又、大聖人様の弟子となり、その一族一門につらなった方々が非常に多いのであります。

 ちなみに申上げますと、甲斐においては弟子としては日華、日仙、日傳、日妙という方、又在俗の人にあっては、南部の波木井実長の一族、大井家の一族、秋山泰忠家の一族、伊豆にあっては日目上人と新田家の人々、駿河にあっては弟子分としては、日持、日秀、日弁、日禅といわれる様な方々、在家にあっては南条時光、松野、河合、西山、由比家の方々、賀島の高橋家という風に、この甲斐、駿河遠江、いろんな国にまたがって、日興上人の教化によって大聖人様の一門につらなった方は非常に多いのであります。そうした意味で日興上人は、師弟相対の信心におけるところの第一人者であったわけであります。

 そして又、日興上人は大聖人様の法義を実際に身につけて、その折伏の実践の上においても又、六老僧の中にも第一の人であったのであります。

 日寛上人の『六巻抄』の中に、

 「六老の次第は受戒の前後に由り、伝法の有無は智徳 の浅深に依る」     (聖九五一)

ということを言われております。日興上人が大聖人様のお弟子になった順番は、その順序から、時代的な早い遅いということを言うならば、日昭、日朗、日興と日興上人は第三番目であります。しかし、その六老の中にも、実際に常に大聖人様のもとに常随給仕し、そしてその一切の法義を身につけ、大聖人様からの御相伝という、その上に於けるところの法脈と智慧と徳、仏法に於けるところの智徳は、日興上人がその第一人者であらせられたわけであります。ですから信心に於けるところの第一人者が日興上人であり、大聖人様の御付属をお受け遊ばされるということも又、理の当然であります。

 又大聖人様が、その後の広布の一切を日興上人に託されたということも、又それはその六老の中に於いても、あまたの大聖人様の弟子の中にあっても、折伏の実践の、正法弘通の第一人者であるということをもって又、理の当然と拝せられるのであります。

 その次に「興」という意味においては「さかんにする」という意味があります。興すということと同時に、盛んにするという意味があります。法を盛んにするという意味に於いて、日興上人は先ほども申上げましたように、大聖人様の御書をことごとく集められて、実際にその書写を遊ばされて、そして又、大聖人様のお手紙を、その当時の南条家なら南条一門の人、松野さんなら松野一族の方々に集まって頂いて、そして実際に日興上人がそのお手紙を、御消息を読んで聞かせて、そして又、解釈をして、今で言うところの御書講のはしりですね、御書の勉強会、或は今の言葉で言うと、座談会と言いますかね、そういうものの原点が、やはり日興上人にあるのであります。その証拠に南条さんなら南条さんに賜った御書の一番後に、追て書きというものがありまして、そういうところに、

 「ははき(伯耆)殿一一によみきかせまいらせ候へ」(全一五八五・一四六三・一五三〇)

という風に、大聖人様の但し書きがついている。

 伯耆房というのは日興上人のことであります。日興上人が一一に読んで聞かせなさい、という風に大聖人様がわざわざ、その但し書きをお書きになった御書が沢山ございます。そうした意味から日興上人は、やはり大聖人様からのお手紙を託されて、そしてその拠点に行かれて、その大聖人様のお手紙を読んで皆に又解釈して聞かせる、そうした役割を担っておられたわけであります。そうした意味から、この法を盛んにして、そして又、大聖人様の法義を、その当時の人達に正しく伝えて、日蓮正宗に於けるところの基礎を開かれるという意味がそこにあったのであります。御書の収集と御書の講讃をされるという意味において又、日興上人はその当時のお弟子の中でも第一の独歩の人であったのでございます。そうした意味から法を盛んにするという意義において、日興上人のお名前は、まさに日興上人のそうした職責を現しているように思うのであります。

 三番目には興という字は「たてる」という意味があります。世に立てる。そうした意味で日興上人は大聖人様のこの正義を確立される、確立遊ばされたということは全くその通りでありまして、『日興遺誡置文』の第一条の中にも、

 「富士の立義、聊も先師の御弘通に違せざる事」(全一六一七)

大聖人様の法義を、いささかも違えてはならないということを、日興上人は末法万年の永遠の指針として『日興遺誡置文』の第一条に残されておられますし、『原殿御返事』には、

 「日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べ き仁に相当って覚え候」(聖五六〇)

ということをお手紙に書かれております。その大聖人様の法義を日興上人一人が正しくそれを受継いで、そして世に立てる、まさに大聖人様の本懐を立てるその任に、その役割に自分が相当たっておるんだということを、深く自覚遊ばされておられたという意味において、日興上人は大聖人様の法義を世に立てるということの重要性を、きちっと自覚あそばされておられた。そうした意味において、大聖人様の正法確立の第一人者ということであります。そうした意味から又、大聖人様の御信任を厚くお受けあそばされていたということはこれ又、当然のことであります。

 同時に又、この「興」という字には最後に「なしとげる」という意味があるわけです。成し遂げるということは、大聖人様のこの師弟の道において、しっかりと修行を成し遂げて、そして又、日興上人が法を正しく継承し発展させて、広宣流布の基を切り開かれて行くというところにあるわけであります。つまり広布の誓願を一つ一つ成し遂げていく、その先陣を切られたのが日興上人であるわけでございます。ですから『一期弘法付囑書』に、

 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付囑す、本 門弘通の大導師たるべきなり」(全一六〇〇)

そしてまた、

 「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す」(同   上)

という風に二箇相承をもって、大聖人様は、日興上人に対してその法体と法義と化儀と修行と信条と一切の権能の総てを、日興上人に託されたのでございます。 本門の戒壇を富士に建立するということも、これは、『富士一跡門徒存知の事』によりますと、それは大聖人様の御遺命でありますけれども、日興上人が大聖人様に奏聞申上げたとあります。本門戒壇の建立は富士でございますね、という風に、むしろ日興上人が大聖人様に申し上げて、そしてその通りにまた、二箇の相伝をもって、日興上人に御遺命を託されたということが拝せられるのであります。

 かくして日興上人は、正慶二年(元弘三年)一三三三年の二月七日に、重須の談所において御遷化遊ばされたのでございます。

 私達は、この日興上人の富士の清流を継ぐ者として、こうした日興上人の正しい信心に立脚した、又、大聖人様の法義をきちっと受け継いで、そして日興上人と、その当時の南条家の人々であるとか、或は熱原の三烈士であるとか、そういう一切の僧俗の方々の信心を私達の鏡として、これからも一人一人が深い自覚のもとに、広布の精進をしていかなければいけないと、日興上人のこの御正当日に当たって、深くこのことを心に期していくべきと思うのであります。

 今日は日興上人の「興」と、「興す」というその意味に則して、日興上人の御生涯を拝して、その一端を申上げた次第でございます。大変、御苦労さまでございました。 (昭和六十三年二月七日)

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